Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

伝奇集(再読)

 今月やけに静かなのには理由があって、じつは二、三週間前に読み終えた本の感想をいまだに書き終えられずにいるのだ。それは英語で刊行されたボルヘスの対談集で、読み終えてからというもの、まさしく取り憑かれたようにボルヘスばかり読んでいる。つまり、もちろんその対談集についての記事を先に書くべきなのだが、いつもどおり拙い訳文を付ける作業に苦戦していて、とてもじゃないがすぐには掲載できそうにないのである。ものの二、三日で読み終えた本だというのに、引用したい文章が多すぎて、翻訳(と呼べるほどのものではないが)作業がいつまでも終わらないのだ。だが、そのあいだにも異なる何冊ものボルヘスの著作を読み終えてしまった。だから、先に書いてしまおうと思った次第なのである。対談集については、べつに難しい英語で書かれているわけでもないので、数週間のうちに、とんでもなく長い記事を掲載することになるだろう。というわけで、しばらくこのブログはボルヘスに溢れることになる。始まりはこの本以外には考えられない。つまり、『伝奇集』を再読したのだ。

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘス鼓直訳)『伝奇集』岩波文庫、1993年。

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The Machine Stops

 またしてもすこし時間が空いてしまった。英語で本を読むとき、読むのにかかる時間は日本語の本よりもほんの少し長いくらいなのだけれど、それを記事にしようとすると、なんだか拙い訳文を付けずにはいられなくなって、結果的に読むのの倍以上の時間がかかってしまう。無理に訳そうとするのをやめればいい、というだけの話なのだけれど、でも、英語で読んだ印象を日本語に置き換えようとするのは、ちょっと楽しい作業なのである。

The Machine Stops (Penguin Mini Modern Classics)

The Machine Stops (Penguin Mini Modern Classics)

 

E. M. Forster, The Machine Stops, Penguin Mini Modern Classic, 2011.

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Decline of the English Murder

 気づけば早くも三冊目のオーウェル評論集。いつからそんなにオーウェルが好きになったんだよ、と、自分でもちょっと笑ってしまうが、この作家の読みやすさは圧倒的で、英語で本を読んでみたい、というようなひとは、もうみんなオーウェルの評論からはじめればいい、と、ちょっと本気で思うようになっている。『Books v. Cigarettes』『Some Thoughts on the Common Toad』に続いて、「Penguin Great Ideas」シリーズもこれで三冊目、今回は『Decline of the English Murder』。

Great Ideas Decline of the English Murder (Penguin Great Ideas)

Great Ideas Decline of the English Murder (Penguin Great Ideas)

 

George Orwell, Decline of the English Murder, Penguin Great Ideas 79, 2009.

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チェスの話

 最近また、チェスを指すのが楽しい。新しく入社してきたプログラマー男子がチェス好きと判明してからというもの、仕事をほったらかしにして、毎日のように相手をしてもらっているのだ。チェスは対人戦にかぎる。といっても、わたしは言うほど強くないので、三回に一回くらいしか勝てないのだけれど、このくらいのレベルの対局では、先にミスしたほうが負けることになる。だから、相手と対面しているとはいえ、これははっきり自分との闘いなのだが、コンピューター相手では、相手が弱く設定されているとミスばかりするし、強いとなると今度はまったくミスをしなくなるので、なかなかこういう楽しい対局にはならない。とまあ、最近はそんなことばかり考えていたため、自然とこのツヴァイクの短篇を思い出したのだ。ずいぶん前に表題作の「チェスの話」だけ読んだまま、長らく放っていたのを、あらためて最初から読みとおした。

チェスの話――ツヴァイク短篇選 (大人の本棚)

チェスの話――ツヴァイク短篇選 (大人の本棚)

 

シュテファン・ツヴァイク(辻瑆・関楠生・内垣啓一・大久保和郎訳)『チェスの話 ツヴァイク短篇選』みすず書房、2011年。

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Some Thoughts on the Common Toad

 一冊の本の記事を書くのに、これほど時間をかけたのは久しぶりだ。なにもそんなにマジにならなくても、とは自分でも思ったのだが、せっかく英語の本をわざわざ紹介するのだから、気に入った箇所くらいはぜんぶ自分で訳してみなくては、と思ってしまったのだ。もちろん、こんなに時間がかかるとは思わなかった。ものの二、三日で読み終えた本だというのに、訳す作業だけで二週間もかかってしまった。そうこうしているうちに、ほかの本を何冊も読み終えてしまったのだが、これについて書かないことには、それらの本も記事にはできないような気がしてしまった。そんな紆余曲折を経てようやく紹介できるようになった、先日の『Books v. Cigarettes』につづく、自分にとっては二冊目のオーウェル評論集。

Great Ideas Some Thoughts On the Common Toad (Penguin Great Ideas)

Great Ideas Some Thoughts On the Common Toad (Penguin Great Ideas)

 

George Orwell, Some Thoughts on the Common Toad, Penguin Great Ideas 99, 2010.

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Books v. Cigarettes

 突然だが、どうもわたしはヘビースモーカーらしい。らしい、なんて言うのは、わたしのように煙草を吸うことに後ろめたさなどぜんぜん感じない喫煙者は、一日に何本吸ったかなど、わざわざ数えることはしないと思うのだ。かばんには常に最低でも二箱は携帯していて、これは毎日補充しないと足りなくなるので、確実に一日一箱以上は吸っている計算だが、それ以上の数字はちょっと見当がつかない。それから、このブログを見てのとおり、わたしは本が好きで、たぶん平均的な人よりは多く読む。どれくらい多いかというのはやっぱり見当がつかず、数えてみる気などもうぜんぜん起こらない。日本に住んでいたころのほうがたくさん読んでいた気もするが、それは乱読といってもいいような、あまり褒められた態度ではなかった。最近は一冊をもっとじっくり読むようになり、しかも再読の愉しみまで覚えたため、読む速度は遅くなる一方なのだが、年齢を重ねるにつれて自由にできる金が増えたこともあってか、自宅の本が増える速度は、読む速度とは対照的に、年々速くなっている気がする。あまり深く考えずに十冊単位で本を買ってしまうことが月に一、二回あり、かつて勤めてもいた書店の友人たちは、いつも会計をしながら呆れている。本の値段をあまり気にしたことがないので、合計金額を突きつけられてからレジで震えるようなこともしょっちゅうだ。さて、どうしてこんな話をしているのかというと、そんな書店の友人のひとり、かつて喫煙所で長い時間を共に過ごしたインド人の哲学愛好家が、わたしのために一冊の本を、勝手に取り置いていたのである。「こんな本、おまえが買わなかったらだれも買わない」とまで言われ、ちょっと嬉しくなりつつ購入したのが、本書である。わたしにとっては7年ぶりのジョージ・オーウェルだった。その名も、「本vs煙草」。

Great Ideas Books V Cigarettes (Penguin Great Ideas)

Great Ideas Books V Cigarettes (Penguin Great Ideas)

 

George Orwell, Books v. Cigarettes, Penguin Great Ideas 57, 2008.

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ヴァレリー・セレクション 上巻

 朝起きてすぐ、顔を洗ってコーヒーを湧かしたら、出勤前の時間をヴァレリーとともに過ごす、という生活を送っていた。過ごせる時間はもちろん早起きの度合いによりけりで、一時間のときもあれば三十分に満たない日もあった。そんなふうだから読書は遅々として進まなかったものの、生活のなかにヴァレリーが組み込まれるというのは大変気分のいいものだ。一時間読めた日など、もうそれだけで一日中楽しい。それに、この詩人は起き抜けの頭にはあまりに明晰すぎて、寝ぼけ眼を一瞬にして見開かせてくれるのだ。だが、ヴァレリーの書くものはただ無闇に難しいわけではない。それは読者を混乱に陥れることを目的として書かれているわけでは毛頭なく、著者自身も混乱しながら書いているため結果的に複雑になっている、というような性格のものでもない(ちなみにこういう類の本はとても多い)。ヴァレリーという作家は、彼にとっては明白このうえないことを、ただ可能なかぎり正確な言葉に置き換えようと努力しつづけている人なのだ。だから、語られている内容の難解さの割に、言葉を追っていて道に迷うことなどはなく、希望を失わずにページをめくりつづければ、明るい世界がやがて必ず開けてくる。焦らず、時間をかけて読むことが肝心だ。朝ヴァレリーは、少なくともわたしにとっては、そのための方法論として大変有効だったわけである。

ヴァレリー・セレクション (上) (平凡社ライブラリー (528))

ヴァレリー・セレクション (上) (平凡社ライブラリー (528))

 

ポール・ヴァレリー(東宏治・松田浩則編訳)『ヴァレリー・セレクション』上巻、平凡社ライブラリー、2005年。

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天の穴

 先日穂村弘『ぼくの短歌ノート』を読んだ際に、ぜひとも読みたいと思った歌人沖ななもの第六歌集。じつは永田和宏『現代秀歌』を読んだときからとても気になっていたので、すこし前に日本からまとめて本を送ってもらった際に含めてもらっていたのだ。短歌新聞社の「現代女流短歌全集」という、ちょっと身構えずにはいられない名前のシリーズの第四巻として刊行された一冊。ところで、「女流」というのはとても不思議な言葉で、ただ「女性」と言うよりはよっぽど衒学趣味、言外の意味が多すぎ、少なくともぜんぜん詩的ではないように響くのだが、短歌専門の出版社がいったいどうしてこんな詩とは真逆の方向を向いた名称を付けてしまえたのだろう、と、かえって気になってしまう。1995年がもう20年も前だというのは信じがたいことだが、この20年のうちに、「女流」という言葉は死語になったのかもしれない。現在性のない死骸として見つめる目がないと、この言葉の違和感には気づけないのかもしれない。

沖ななも『天の穴』短歌新聞社、1995年。

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雑記:マングェルの理想の読者

 わたしが好んで引用する言葉に、アルベルト・マングェルの理想の読者像がある。「理想の読者は、すべての文学作品を匿名作家のものとして読む」、というのがそれで、じつはこれはインターネットをうろちょろしていたときに、英語でもスペイン語でもなく、フランス語で見かけたものだった。フランスではBabel(バベル、いい名前だ)という出版社がマングェルの翻訳にとても積極的で、もとが英語の作品もスペイン語の作品も訳出されているのだが、このボルヘスの友人の知名度は、日本ではちょっと不遇の感が拭えない。とはいえ、かつてここで紹介したことのある『図書館』以外にも、『読書礼讃』や『奇想の美術館』といった書物が、近年やはり野中邦子氏によって翻訳刊行されているので、遠からぬうちにこれらの訳書も読んでみたいな、と思っている。

 さて、そんな出典のわからないままに愛用していた引用句なのだが、今日、書店をふらふらしていた折に、ついにこの文章が記載された書物を見つけたのだ。というわけで、以下にその章の全文を訳出してみた。野中邦子氏の2014年の仕事である『読書礼讃』は、読書にまつわるエッセイ集とのことで、原著が存在するのか独自編纂されたものなのかちょっとわからず、この文章がすでに丸々翻訳されている可能性もあるのだが、まあすでに訳出されていたとしてもべつに邪魔にはならないだろう。ちなみにイェール大学出版の『A Reader on Reading』(2010)という本からの訳出である(pp.151-154)。

A Reader on Reading

A Reader on Reading

 
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ぼくの短歌ノート

 穂村弘が昨年刊行した短歌評論集。ページを開いたが最後、読み終えるまであっという間だった。じつを言うと、そうなることがこれまでの読書体験から簡単に予想できたからこそ、なんというか、もったいなくって読みはじめられずにいたのだ。現在も『群像』誌上に連載中の「現代短歌ノート」四年分の記事をまとめたもので、じつに穂村弘らしい一風変わったテーマごとに、現代歌人にかぎらず古今の作品が集められたもの。すこし前に紹介した『はじめての短歌』とも、いくつか内容の重複がある。

ぼくの短歌ノート

ぼくの短歌ノート

 

穂村弘『ぼくの短歌ノート』講談社、2015年。

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