Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

アフターダーク

今月の15日に、ようやく文庫化された村上春樹の中編小説。

あと一週間文庫化が遅ければ、おそらくハードカバーを買ってしまったため、この遅すぎる文庫化を責めることはできない。

アフターダーク (講談社文庫)

アフターダーク (講談社文庫)

 

村上春樹アフターダーク講談社文庫、2006年。


僕はずっとこの作品を読みたかった。書物に対する確実な識別眼を持った友人が、執拗に薦めていた作品だったからだ。彼はこの作品を「完璧なフェードアウト」と評し、それは僕らの読書の趣向における少なからぬ共通点だった。

読後の今なら、何故彼があんなにも熱心に僕にこの本を薦めたのかが理解できる。

まず、完成している。完結していると言い換えても支障はない。フェードアウト、という作風と「完結」という言葉は結び付かないように思えるかもしれない。
ストーリーは終わらない。物語は不可逆性をもって連続していく。それにも関わらず、この作品はあらゆる意味合いにおいて「完結」している。

その感覚を言語的に説明することは非常な難題のように思える。交響曲を想像して欲しい。ベートーヴェンであろうとブラームスであろうと、何だって構わない。偉大な作曲家たちが構成したその多彩な和音は、それぞれの単音自体に存在意義を抱えているからこそ、存在していられる。無駄な音は一つもない。その終幕がどのような連続性を示唆しようと、そこには確固とした不可逆性と、完結した文体がある。

つまり、そういうことだ。『アフターダーク』が提示する「完結」は、ある種交響曲的な完成をもっている。これはフェードアウトという文章の、ある種の完成形を提示している。 

アフターダーク (講談社文庫)

アフターダーク (講談社文庫)