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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

カラマーゾフの兄弟

ドストエフスキーの描いた最高傑作であり、あらゆる文学の頂点とも呼ぶべき小説。昨今話題の新訳。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

 

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟』光文社古典新訳文庫、2006~2007年。


「名作」の条件とは何か。それは主観的な問題であり、導き出される答えは一様ではないだろう。しかし、作家の知性がその一端を担っていることに誰が異論を挟むだろうか。ジョン・アーヴィング『ガープの世界』においてまさしくドストエフスキーを引き合いに出した通り、それは「知性と洗練度」の問題なのである。

例えばディケンズフランドル派の絵画を思わせるような情景の細密描写でもって、例えばジェイン・オースティンは登場人物たちの際立った個性によって、その知性を発揮している。ドストエフスキーは状況の多面性(訳者の言葉では「ポリフォニー(多声性)」)を描くことによって、その全てを見事に実現しているのである。物語に散りばめられた夥しいディテールの全てが、後に示唆となり、メタファーにもなる。未読の方のために書くと、今回の新訳は四巻+エピローグ別巻の全五巻から成る長大なものであるが、第一巻の始まりから三巻が終わるまでに、物語は三日しか進んでいないのである。一つの事象をどれだけ多面的に、どれだけ異なる視点から見ることができるか、それがこの小説における一貫したテーマともなっているように思える。一つ一つの真実がどれだけ相対的なものであるか、読み進めていく度に何度も気付かされるのである。ドストエフスキーの凄さはそこにある。例えばAという人物がBから被った害悪を、我々はほとんど同情しながら読み進めていく。にもかかわらず、そのBが主体となり声を上げる時、今度は我々はBに同情を寄せることになるのだ。そして物語中のほとんど全ての事象に際して、それが起こる。我々は考えざるを得なくなる。真実とは何か、善とは何か、と。

「それに何より、鼻高々の小説家を追いつめ、首を絞めるのは、物語のディテールです。現実は、つねにあふれかえるディテールです。でも、それはいつだって、まるでどうということのない下らないがらくたに見えるものなのです」(四巻、583~584ページ)

多面性は主体の違いにのみ描かれるわけではない。それは同じ一人の人間の中の葛藤の内にも秘められ、こうして物語はあらゆる声で埋め尽くされていくのである。

「理性には恥辱と思えるものが、心には紛れもない美と映る」(一巻、287ページ)

「グルーシェニカと顔を合わせるや、嫉妬の念は消しとび、ミーチャは一瞬にして信じやすい気高い男に早変わりし、ばかげた感情を抱いたことで自分を軽蔑さえした。(中略)だがいったんグルーシェニカの姿が見えなくなると、ミーチャはたちまち、彼女がまた卑しさと狡猾さにみちた裏切りを行っているのではないかと疑いだす。しかもその疑いに、彼はいささかの良心の呵責も感じることはなかった」(三巻、158~159ページ)

訳者の言葉をそのまま引用しよう。

「わたしはいま、読者のすべてに代わって、この小説が未完に終わったことを惜しむ。未完の音楽は数知れずある。モーツァルトの『レクイエム』、マーラーの『第十番』――。しかしドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』こそは、人類がついに手にできなかった、もっともまばゆい遺産の一つであるにちがいない。ドストエフスキーの六十歳の死は、その意味であまりにも惜しまれる、あまりにも早すぎる死であった」(五巻、364~365ページ)

そう、『カラマーゾフの兄弟』は未完の小説である。しかし一体誰が、ミロのヴィーナスの失われた両腕を欲するだろうか。これらは不完全であるからこそ、完全を実現した芸術作品なのである。ドストエフスキーが「まえがき」で唱える「第二の小説」、つまり『カラマーゾフの兄弟』の続編は、とうとう我々の元に届かなかった。だがそれ故に、我々は好き勝手にそれを想像(あるいは創造)することができるのである。例えばドーナツの穴という非存在が、円形のそれ自体の存在を誇張しているように、「第二の小説」の非存在は我々に大いなる示唆を投げかけてくれる。そして我々に残された『カラマーゾフの兄弟』の前半部は、完全な魅力をもって我々を虜にするのである。

今回の新訳は、かけがえのない一つの奇跡である。文章の読みやすさはまるで司馬遼太郎を読んでいるかの如くである。ページを繰るスピードは、五冊が並べられた重厚な光景からは想像もつかないだろう。流麗な文章、登場人物たちの魅力、夥しいディテール、そしてミステリー的な謎解き要素。その全てがページを繰る手を止めることを許さない。しかも読み進めるにつれて、次第に残されたページ数が目減りしていくことがどんどん惜しくなっていく。続きが読みたい、でもこの世界から抜け出したくない。読者はそんな葛藤と対峙することになるだろう。書店で見かけたその厚さからこの作品を忌避している人々に、是非とも告げたい。「薄くて面白くもない小説よりも、ずっとはやく読めますよ」と。

ドストエフスキーは「重要なのは第二の小説である」と明言している。そしてその主人公が第一のそれと変わらず、アレクセイ・カラマーゾフであることも明言している。だが、ついに陽を浴びることのなかったそれに関して、私は一つのテーゼを提案したい。つまり「第二の小説」とは、実際に『カラマーゾフの兄弟』を読んだ我々が、それによって得たものをどのように実践していくかの絶えざる過程であるのだ、と。イワンは笑うかもしれない。だがきっと、アリョーシャは微笑んでくれるだろう。

結局、自分も『カラマーゾフの兄弟』をこんなにも愛している。いつだったか学術論文で「ドストエフスキーにいかれるような連中は駄目だ」といった言葉を目にしたことがあるが、彼らは『カラマーゾフの兄弟』を読んだ上でも同じセリフが吐けるだろうか。この魅力を、私は認めざるを得なかった。教養主義の世界においてこの作品がまるで何かのイデオロギー装置のように扱われることが、残念でならない。

とはいえ、締めくくらねばならない。一読した人を笑わせるような終わり方は、これしか思いつかなかった。長文を読んで下さった方、ありがとうございました。
カラマーゾフ万歳! 

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

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カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

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カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)

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カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)

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カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

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