Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

華氏451度

本を読むことが禁じられた時代を描いた、ブラッドベリの長編。

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

 

レイ・ブラッドベリ(宇野利泰訳)『華氏451度』ハヤカワNV文庫、1975年。


ハヤカワ文庫において、ブラッドベリはSFではなく「ノベル」という曖昧な枠にくくられている。これは『火星年代記』においても多々見受けられた、彼の作品に含まれる文明批判の面を汲み取った結果だろう。

焚書官の署長ビーティが語る、本が禁じられるに至った経緯は非常に興味深い。50年以上も前に書かれたものとは、とても思えない。

「考えてみるがいい。十九世紀の人間は、馬、犬、ないしはまた、馬車をつかって、スローモーションで、世を送っていた。それが二十世紀になると、カメラのうごきがすばやいものになる。本だって、それにつれて短縮され、どれもこれも簡約版。ダイジェストとタブロイド版ばかり。すべては煮つまって、ギャグの一句になり、かんたんに結末に達する。古典ものは切りつめて、十五分のラジオ番組にあてはめる。それをさらにカットして、二分もあれば眼がとおせる分量にちぢめ、最後はぎりぎりに短縮して、十行か十二行の辞典用梗概となる。『ハムレット』を知っているという連中の知識にしたところで、例の、『これ一冊で、あらゆる古典を読破したとおなじ。隣人との会話のため、必須の書物』と称する重宝な書物につめこまれた一ページ・ダイジェスト版から仕入れたものだ。ダイジェストのダイジェスト版、そのまた、ダイジェスト版。政治問題? そんなものは一段でよかろう。二行もあればたくさんかな。なんなら、見出しだけにしておくか。どうせ、みんな、消えてなくなることだ! 人間の思考なんて、出版業界、映画界、放送業界――そんな社会のあやつる手のままにふりまわされる。不必要なもの、時間つぶしの存在は、遠心力ではねとばされてしまうのが運命なんだ!」(94~95ページ、一部省略)

やがて書物は焼かれるものとなる。活字文化の終焉は、強制的に禁じられた結果としてではなく、大衆の希望によってもたらされる。

「考える人間なんか存在させてはならん。本を読む人間は、いつ、どのようなことを考えだすかわからんからだ。そんなやつらを、一分間も野放しにおくのは、危険きわまりないことじゃないか」(101ページ)

ブラッドベリの想像は恐ろしいほど的確に、現代の状況を言い当てている。安っぽい「知識」が蔓延し、わかりやすいものだけが受け入れられる社会で、本はどのように変わっていくだろうか。

「すべてをことこまかく語れ。新らしい詳細を語れ。すぐれた著者は、生命の深奥を探りあてる。凡庸な著者は、表明を撫でるにすぎん。劣悪な著者となると、ただむやみに手をつけて、かきまわすだけのこと。であとはどうなれと、捨て去ってしまう」(142ページ)

ブラッドベリはやっぱりすごい。「すごい」なんて何の工夫もない形容だが、他に何と言えばいいのか。SFどころじゃない。単なる批判でもない。「警鐘」あるいは「預言」とでも呼ぼうか。

「ことばとは木の葉に似て、その生いしげるところに、思想の実のゆたかにみのることはなし」(180ページ)

字が小さいため、厚さの割に読むのに時間がかかる。残念ながら訳のテンポも良いとは言えない。だが、やはり素材が優秀なためか、面白い。

「ボタンがチャックにかわったために、朝の着替えをする時間は、まるまる節約できたわけだが、それは同時に、おれたち人類にのこされた哲学的時間、沈思瞑想にふけるわずかの時間を失うことにもなったのだ」(96ページ)

読んで良かった。

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

 

追記(2014年9月23日):伊藤典夫による新訳(?)が刊行されているので、ここに紹介しておく。ところで、英単語としての「kindle」の意味はご存じだろうか。「燃やす」である。彼らはそうまでして、われわれの手から紙を遠ざけたいらしい。