Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ぼくのともだち

一時、世界から忘れられていた、20世紀初頭のフランス文学

ぼくのともだち

ぼくのともだち

 

エマニュエル・ボーヴ(渋谷豊訳)『ぼくのともだち』白水社、2005年。


「目覚めるといつもぼくの口は開いている。なんだか歯がねっとりしている。夜、寝る前に歯を磨けばよいのだろう。でも、そんな元気のあったためしがない」(5ページ)

1924年に刊行されたこの作品は、孤独な男が友人を求める話だ。目次には友達に成り損なった人々の名が章題として並び、一人一人との出会いと別れが、あたかも短編連作のように続いていく。

ほとんどユーモア文学だ。だが、この作家の描くユーモアは、ユーモア文学と呼ばれている諸々の作品と並べるには、あまりにも独特だ。

「日曜日には娘が老人を訪ねてくる。エレガントな女性だ。コートの裏地はオウムの羽でできているみたい。ひどく洒落た裏地で、ひょっとすると表裏逆さに着ているのではないかと思うほどだ」(7ページ)

ボーヴのユーモアは、ストーリーの中にではなく、描写の中に含まれている。つまり、オチがない。主人公である「ぼく」に写し出される世界は、あまりに滑稽だ。

「洗面を済ますと気分がよい。鼻で息を吸ってみる。歯の輪郭が一本一本はっきり感じられる。手のひらも昼ごろまでは白いままだろう」(10ページ)

上に引用した三つの文章の、ページ数に注目してもらいたい。小説が始まって10ページの間に、全ての文章が含まれている。しかも最後まで、この調子は変わらない。気付けばこの語り口に慣れきってしまっている。

だが、ユーモアだけじゃない。孤独がある。ユーモアと孤独ほど、この小説を言い表すのに適した言葉もないだろう。

「ぼくは、わざと遅い時間に自分の部屋に戻った。そうすれば、夜が少しでも短く感じられるから」(94ページ)

「子供のころに習い覚えた歌は、できるだけ口ずさまないようにしている。しょっちゅう口ずさんでいると、思い出が色褪せてしまうからだ。それと同じで、軍隊生活のことも、やむを得ない場合を除いて、なるべく振り返らないようにしている。思い出は頭の中にそっとしまっておけばいい。自分の頭のなかには思い出の蓄えがある。それが分かっていれば、それでもう十分だ」(95ページ)

「ぼくは「未来」とか「希望」という言葉が好きだ。ただし、黙ってこの言葉を頭に浮かべているうちはいいけど、ひとたび口にすると、無意味な言葉に思えてしまう」(102ページ)

ゆるい本だ。事件性を楽しむようなものじゃない。心地よい気だるさが、作品全体に覆い被さっている。

「孤独。なんて美しく、なんて悲しいものだろう。みずから選び取った孤独は、このうえもなく美しい。意に反した長年の孤独は、限りなく悲しい」(204ページ)

いずれこの世界に戻りたくなる日が来る気がする。続編である『きみのいもうと』は、それまで取っておきたいと思った。

ぼくのともだち

ぼくのともだち

 

追記(2014年9月25日):まさかの白水uブックス化。

ぼくのともだち (白水Uブックス 184 海外小説の誘惑)

ぼくのともだち (白水Uブックス 184 海外小説の誘惑)

 

〈読みたくなった本〉
ボーヴ『きみのいもうと』

きみのいもうと

きみのいもうと

 

 

〈ゆるい本〉
エルスホット『9990個のチーズ』

9990個のチーズ

9990個のチーズ

 

トゥーサン『浴室』

浴室

浴室