Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

プレーンソング

三人の友人たちから別々のタイミングで薦められて、読みたくなった本。薦められる本ばかり読んでいたら中々自分の読書が出来なくなってしまうのだが、薦めてくれた人の顔を思い浮かべながら本が読めるのは楽しい。

プレーンソング (中公文庫)

プレーンソング (中公文庫)

 

保坂和志『プレーンソング』中公文庫、2000年。


初めて保坂和志の本を読み、昨日まで読んでいた中上健次とはまるで違う、ほとんど正反対の空気を描く作家だと思った。中上健次が世界の悪意に晒されているなら、保坂和志は限りなく無関心に近い善意に包まれている。悪人がいない。そういえば周りを見回しても、掛け値なしの悪人なんて中々いないことに気付く。保坂和志が描く世界には、そんなリアリティがある。

「電話に出たゆみ子は三年前と変わらず、別に機嫌が悪いわけではないのだけれど愛想もないしゃべり方をしてきた。「久しぶり」などと通りいっぺんの挨拶のようなものを言い合い、次に「どうしてる?」という話になって、結婚はしていないけど子どもを一人つくったと聞かされて、へえと思ったから「へえ」と言い、それがすぐになるほどに変わったから「なるほどね」と言って、そのうちに猫の話になった」(15~16ページ)

当たり前の日常が緩やかに描かれている。そして実は、それは小説的ではないことだ、と気付かされる。小説というのは元来もっと動的なものだ。小説では非日常的な事件が起きる。この小説では起きない。日常そのものが実はささやかな感動に包まれていることを教えてくれる。

「振り向いた子猫はとびきり可愛い。うっかり動作を中断してしまったその瞬間の子猫の頭のカラッポがそのまま顔と何よりも真ん丸の瞳にあらわれてしまい、世界もつられてうっかり時間の流れるのを忘れてしまったようになる」(34ページ)

保坂和志は猫好きで有名である。ちなみに僕も猫を飼っている。『プレーンソング』を読むのを猫が邪魔しに来ると、何だか焼きもちを焼かれているような気がした。でも、普段から彼は本一般を敵として見なしている。僕が没頭してしまい扱いがぞんざいになるからだ。

「猫って、一匹だけ選び出すのって、できないんだから。猫はつねに猫全体なのよ」(53ページ)

解説にあったことだが、保坂和志の文章は長い。色々な描写が読点で繋がりながら流れていく。一つ一つを句点で区切った時にその一文が必要以上の重みを帯びてしまうのを避けているように、日常の些細な出来事の「些細さ」(座りの悪い言葉だ)を伝えてくれる。日常を日常として描くための文体である。

「何か、事件があって、そこから考えるのって、変でしょう? だって、殺人なんて普通、起こらないし。そんなこと言うくらいだったら、交通事故にでもあう方が自然だし」(207ページ)

上は映画を撮るために日常に向けてビデオを回すゴンタの言葉。確信犯である。続けてこんなことを言う。

「はじめは小説書きたいって、さっきも言ったけど、そう思ってたんです。でも、小説って、何かないと書けなくて。ただ時間が経っていくって、書けなくて」(209ページ)

つまり、それを体現したのが『プレーンソング』である。日常の範疇でも色々なことが起きていて、そこには小さな小さな感動がある。大きな非日常的な事件がなくても、小説は書ける。保坂和志はこの記念碑的な作品によって、それを証明したのである。

プレーンソング (中公文庫)

プレーンソング (中公文庫)

 


<読みたくなった本>
保坂和志『この人の閾』
→『プレーンソング』の次に読め、と言われた本。わくわく。

この人の閾 (新潮文庫)

この人の閾 (新潮文庫)