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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

肝心の子供

「身体性を持ったボルヘス」と保坂和志に絶賛された作家、磯崎憲一郎のデビュー作であり、第44回文藝賞受賞作。

肝心の子供

肝心の子供

 

磯崎憲一郎『肝心の子供』河出書房新社、2007年。


先日、たまたま本人に会う機会があったのだが、その時にはまだ彼の作品を読んだことがなく、今思えば惜しいことをした。今なら、この本について話すことができるのに。

文藝賞受賞作、という理由で読む人も世の中にはいるのだろうが、僕の場合は友人たちの激賞があったから手に取った一冊だ。『創造者』を読んで「身体性を持ったボルヘス」という選評を思い出した、というのもある。誰も彼もが絶賛している分、天の邪鬼のような精神が働いて斜に構えた態度でページを開いたことは、今ではもう謝るしかない。

ブッダとその息子ラーフラ、さらにその息子のティッサ・メッテイヤの、三代を描いた話である。テーマからヘッセの『シッダールタ』を思い出したが、『肝心の子供』からは宗教めいた神秘性や規範を示そうとする姿勢などは欠片も感じられない。最初の主人公は疑いなくブッダであるのに、磯崎は彼の特権的地位を全く利用せずに、さながら短篇連作のように三人の男たちの感性を描く。サラサラと主人公が移り変わり、境目を感じさせない。個人的にはラーフラとティッサ・メッテイヤの人間臭さが堪らなく好きだ。新人賞にこんなものを送りつけて、あの人は一体何を考えているのか。選考委員は度肝を抜かれたに違いない。

「それにしてもいったいこの季節にセミが鳴くものだろうか。しかし間違いなくセミは鳴いていた。音に色彩が伴うなどという、そんな経験はブッダにもいままで一度もなかったのだが、この音は黄緑がかっていた。黄緑に着色された靄のようなもので彼らのまわりを足元から埋めて行った」(41~42ページ)

磯崎憲一郎の文章には無駄がない。チェーホフボルヘスのような、切り詰められた文体である。一行一行に重みがあって、油断できない。保坂和志がこの小説を激賞しているのは面白いことだと思う。一歩踏み違えれば冗長になってしまうような世界のささやかな感動を摘み取る作家が、磯崎を「ボルヘス」と呼んでいるのだ。「身体性」という言葉は「具体性」に置換してもいいだろう。捉えどころがないわけではないのだ。具体的なボルヘス。いやはや。

「人が老いて死ぬということは、きっとあれはみな懐かしさに耐え切れなくなって死んでしまうのだ、そのことに母はまだ気がついていない。老いて、みずからを過ぎ去って行った時間の重さに耐え切れなくなった生き物は死ぬか、もしくは呆けるかしかないのだ」(56~57ページ)

高密度に圧縮されて生まれた短さ故に、ゆっくりと読んでいたい本だ。最初は僕のように、読み方に戸惑うかもしれない。ラーフラの話になる頃になってようやく、磯崎憲一郎の読み方を理解した気がする。そうなると、一作だけ読んでも満足できなくなってしまう。まだまだ書き足りないことだらけ、という読後感もあるので、もっと色々な世界を開示して欲しいものだ。

「いつも気狂いなどと罵声を浴びせるあの憎らしい子供たちだって、虫と同じように生きている命のひとつなのだ、彼らだってもしかしたら生まれる前は虫だったのかも知れないし、いずれはまた虫に生まれ変わるのかも知れない、ならばすべての命は大切に扱ってやらねばならない、大元の命へ無事に帰れるように。ティッサ・メッテイヤは山羊の糞を顔面に投げつけられたときでさえ、微笑んでやってみせた。いじめっ子たちはもっと気味悪がって逃げ出した」(92ページ)

また会えるだろうか。まだ単行本が三冊あるだけの作家だけれど、長い付き合いになる気がする。新刊をチェックする楽しみが増えた。

肝心の子供

肝心の子供

 

追記(2014年10月7日):第二作『眼と太陽』とともに、文庫化されています。

肝心の子供/眼と太陽 (河出文庫)

肝心の子供/眼と太陽 (河出文庫)