眼と太陽
磯崎憲一郎の第二作目。『肝心の子供』とは随分趣の異なる、「私」によって語られるアメリカの日々。
「身体性を持ったボルヘス」が、今度はどんなことを語ったのか。『肝心の子供』よりもずっとのびのびと書かれていて、良い意味で前作の緊張が感じられない。とりわけ、書き出しが素晴らしい。
「日本に帰るまえに、どうにかしてアメリカの女と寝ておかなければならない。当時の私はそんなことを考えていた」(3ページ)
親や子供といった世代の混同と連関がテーマになっていると言えなくもないが、もっと単純な気持ちで描写を眺めているだけで楽しめる。のびのび。
「そして何より眼、あの大きな眼だった。人間の顔のなかでいちばん強い印象を残すのが眼であることは疑いようがないとしても、話しているときのトーリの眼は、相手を射貫いて、突き抜けたその向こう側を見ているような、そんな感じがあった。もしかしたらほんとうに、私を見ながら、同時に背景のほうも見えていたのかも知れない」(11ページ)
『肝心の子供』の中でセミが黄緑色の声で鳴いていたように、磯崎憲一郎は色を大切にする作家だ。グランドピアノの黒と、雪の白。以下の二つの描写が同じ小説で語られているのは象徴的である。
「あらゆる色彩のなかで黒という色は意外なことにその内部にもっとも多くの光を含んでいる、そしてそれを惜しげもなく、尽きることなく外部に分け与えている――そんな話は聞いたことがないが、強い照明をあびて輝くグランドピアノは、それがまぎれもない事実であることを見せびらかしているかのようだった」(89ページ)
「この場所のあらゆるすべてが白かった。白いものも、白くないものも、すべてが白かった。雪の色が白だということ、赤とか黒とか黄土色ではなく白だということだけでも奇跡だが、太陽が光を注ぎ、微かな風を起こすと、その白いすべては更に白くなった」(115ページ)
もっと読んでみたい、と思わせる作家だ。今月は『世紀の発見』が刊行された。次々に新刊を出すというわけではなく、年一冊のペースだが、とにかく生きている作家を好きになれるのは嬉しい。当分目が離せない。
追記(2014年10月7日):第一作『肝心の子供』とともに、文庫化されています。