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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

世紀の発見

磯崎憲一郎の最新刊。表題作と「絵画」という短い作品が一冊にまとめられたもの。

世紀の発見

世紀の発見

 

磯崎憲一郎『世紀の発見』河出書房新社、2009年。


最近友人たちとこの作家について語る機会が多い。誰もが口にするのは、磯崎憲一郎の奇妙な時間感覚だ。年代記のような初めから順番に語られる小説に慣れていると、なかなかこの感覚に馴染めない。それと気付かないほど唐突に時代が切り替わり、しかも時代が変わっていることはたいして重要ではないのだ。独特。時間の流れる速度がおかしい。

「自然というものは毎日見ていてもけっして見飽きることがない、むしろ反対に、麻薬のようにそこから抜け出すことが極めて困難になる」(「世紀の発見」より、47ページ)

『眼と太陽』の時にも触れたが、磯崎はカラフルな作家である。絵画的に風景を描写して、その色の使い方に叙情がある。

「だがこの日のアカタテハは少し違った。昆虫なりの方法で彼とAに何かを語りかけ、樹皮の上で彼らが追いついてくるのを待っているように見えた。橙色を帯びた四枚の羽をゆっくりと上下させることによって、周囲の枯葉に鮮やかな秋の頃の色を蘇らせ、森の木々のあいだにも同じ橙色を行きわたらせて、さらには夕暮れの空までを濃く染めたようだった」(「世紀の発見」より、56ページ)

谷川俊太郎の「メランコリーの川下り」に「たとえ言葉を持っていても、蝶は話しかけてくれない」といった詩があるのを思い出した。

「街道の両側は赤土で固められていたのだが、その土は作りもののように赤かった。レンガの色どころではない、南方の島々に咲く花のようにどぎついまでに赤い色の土だったのだ」(「世紀の発見」より、74~75ページ)

色を少し説明するだけで風景をがらりと変える。時間感覚、色、そして立ち位置のあやふやな感覚。

「あの向かい側の部屋に暮らし、毎朝あの部屋から勤めに出て、夕飯はあの女と、あの女の娘か息子と一緒のテーブルで食べる生活であったとしても何ら不都合はない、問題なく受け入れられるような気がした。「つまり俺は、誰のものでもある、不特定多数の人生を生きているということだな」しかしそれは自嘲などと呼ぶには程遠い、じつは奇妙な達成感だった」(「世紀の発見」より、94ページ)

「絵画」も良かった。「世紀の発見」と同様、またしても大きなコイが登場する。ほとんどイルカのように大きなコイ。ユーモアも奇妙だ。

「それにしても歳を取るということは、どうしてこんなにも自由なのだろう、こんなことならもっと早く老人になってしまえればよかったのに」(「絵画」より、123ページ)

やっぱり時間の流れる速度がおかしい。癖になるおかしさ。おかしくても何でも、時間は不可逆性をもって進行しているのだ。

「バスのなか、前の方の座席か運転席の辺りで、ウグイスが一声鳴いたような気がした。彼女は顔を上げた。だがそれは一度しか起こらなかった。あらゆる時間のなかで二度とは起こらなかったのだ。自分の聞いた音が本物のウグイスの声だったのか、それとも彼女の願望が鳥の声を聞いたような幻聴を呼び起こしたのか、どちらなのかは分からなかった」(「絵画」より、141ページ)

一度読んだだけでは何とも言えない、 掴み切れないものの魅力がある。だからこんなに立て続けに読んでしまうのだろう。『新潮』に載った「終の住処」を、早く読んでみたい。

世紀の発見

世紀の発見

 

 追記(2014年10月7日):文庫化されています。

世紀の発見 (河出文庫)

世紀の発見 (河出文庫)