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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

すばらしい新世界

ジョージ・オーウェル『一九八四年』を読んでから、読みたくなったディストピア文学。『一九八四年』が書かれた1949年よりも17年早い、1932年に書かれた本である。

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

 

オルダス・ハックスリー(松村達雄訳)『すばらしい新世界』講談社文庫、1974年。


どうしてもオーウェルと比較しながら読んでしまった。「ディストピア文学」の定義は多様である。『一九八四年』のように絶対的な思想統制が図られるものから、この『すばらしい新世界』のように人々が一見幸福に暮らしているものもある。だが、その幸福な世界において人々は、すでに人間としての尊厳を保ってはいないのだ。

『すばらしい新世界』においては、人は既に母親から生まれるものではなくなっている。壜を用いた胎外生殖によって人は生まれ、「母親」や「家族」という言葉がいやらしい猥褻な言葉として忌避されている世界である。生まれる前、遺伝子の段階から人々は階級分けされ、それぞれの階級に見合った体型・思想を持つように計画され、下層階級に至ってはそういった同質の双生児たちが大量生産される。全く同じ遺伝子を持つ者たちだけで構成される工場は、最高に効率的なのだ。彼らは幼少の頃に施された睡眠時教育によって、自らの職務に何の不満も抱かない。それどころか、この上なく満足している。もし、何らかの不幸な偶然が生じて彼らを惑わすことがあれば、「ソーマ」と呼ばれる錠剤を服用すればいい。それを用いた途端、圧倒的な恍惚を得られるのだ。これが誰もが幸福な、すばらしい新世界の様相である。

「もし社会の善良にして幸福な一員であろうとするならば、全般的理解はできるだけ最小限に止めておくことだ。それは、だれしも知っているように、専門的知識は徳と幸福を増進するが、全般的知識は知的見地からいって必要悪なのだから。そもそも社会の背骨をなすのは哲人ではなくして、糸鋸師や郵便切手蒐集家なのである」(8ページ)

オーウェルの『一九八四年』がウィンストン・スミスという一人の男の視点から語られた物語であるのに対して、『すばらしい新世界』には特定の主人公は存在しない。レーモン・クノーの分類を用いれば、「イリアス型」の物語である。一人の人生を描くのではなく、一つの社会を多面的に描いた物語だ。実際に幸福そうな人々もいれば、疑念を抱く者もあり、圧倒的少数派である後者は異端視され、監視されている。

オーウェルの描いた社会との顕著な違いは、セックスに対する姿勢である。『一九八四年』においては快楽としてのセックスは否認され、ロマンスなどというものは許されざる感情だった。ここでは睡眠時教育のスローガンの通り、「万人は万人のものである」。ほとんどの女性にはあらかじめ産まず女となる処置が施されており、そうでない女性にも「避妊薬帯」なるものが用意され、フリーセックスが奨励されている。しかし、フリーセックスが奨励されるあまり、ここでもロマンスは禁じられているのだ。特定の相手とのみ関係を持つ、ということは、フリーセックスの観念に反する。オーウェルとは全く反対の理由で、同じことが禁じられているのである。ちょっと面白い類似だと思う。

登場人物の一人に、偶然未開発の野蛮人地区からやってきた青年がいる。彼は幼少の頃にシェイクスピア全集を手に入れ、ずっと愛読してきているという愛すべき男である。ところが、この「すばらしい新世界」(この言葉はシェイクスピアの『あらし』からの引用である)では、シェイクスピアは禁じられ、既に失われ てしまっているのだ。以下、その理由を尋ねる場面である。

「「でも、なぜ禁止されているんでしょうか」と野蛮人はたずねた。シェイクスピアを読んだことのある人間に出会った興奮から、彼はしばらくほかの一切のことを念頭から忘れ去ってしまったのだ。
 総統は肩をそびやかした。「それは古いものだからだ。それが何よりの理由だ。ここでは古いものには一切何の用もない」
 「たとえ、それが美しいものであってもですか」
 「美しい場合はなおさらだ。美は人を惹きつける、そしてわれわれは人々が古いものに惹きつけられることを好まないのだ。われわれは人々が新しいものを好むことをのぞんでいる」」(253~254ページ)

人々は常に新しいものを求めていなければならない。そうでないと、市場が成り立たなくなってしまうのである。服が綻んだら、繕うのではなく新しいものを買うべきである。人々は皆そういった考えを、幼少の頃から植え付けられてきているのだ。

「言葉というものは正しい使い方をすれば、ちょうどX光線のようになり得るのだよ――どんなものの中にも突入するのだよ。読む者の心に突き刺すんだよ」(84ページ)

この小説の後味の悪さは凄まじい。全く救いのない世界である。解決策が浮かばないどころか、考え方によっては人々は実際に幸福なのだ。疑問を抱かない限り、この上ない陶酔が保障されたバラ色の世界。徹底的な管理が、ある種の人々に関しては幸福を呼び込んでいるというのは、何と皮肉なことだろう。今読んでも刺激的な一冊である。

すばらしい新世界 (講談社文庫)

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