Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

タイム・マシン

SF小説の不朽の古典であり、同時に最近私が気に入っているディストピア文学ともなっている「タイム・マシン」を収録した、ウェルズ初期の短篇集。

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

 

H・G・ウェルズ(橋本槇矩訳)『タイム・マシン 他九篇』岩波文庫、1991年。


SFの祖として取り沙汰されるのはいつだってヴェルヌかウェルズだ。そしてこの表題作「タイム・マシン」はウェルズの著作の中でも最も有名なものの一つである。

以前オーウェル『一九八四年』について書いた時、ディストピア文学からSFに入っていけるかもしれないと思った。「タイム・マシン」は実はディストピア文学である。「ディストピア」という言葉は定義の難しいもので、最も基本的な「アンチ・ユートピア」という意味を持ってくればかなりの小説が該当するだろう。しかし、この大変包容力の高いジャンルの代表作を挙げろと言われれば、「タイム・マシン」は確実に入ってくる。自らが発明したタイム・マシンによって絶望的な未来を見てしまう、19世紀の科学者の話である。

「ぼくは人類が滅亡しかかっている時代にたまたま来あわせたのだと思った。燃える夕日が人類の黄昏を連想させたのだろうか。そのとき、ぼくたちが鋭意築きあげている社会の進歩の奇妙な成果にはじめて気づいた。当然の帰結といえるだろう。なぜなら人間の力は困窮から生まれるのだが、社会の安定は脆弱を生む。人類は社会改革と生活安定のための努力を続け、ついに最高の地点に到達した。人間は次から次へと自然を征服していった。現在は夢にすぎないことが、実現された。しかし、いく世代にもわたる人間の努力の結果たるや、ぼくの目撃した衰退なのである!」(「タイムマシン」より、45ページ)

八十万年後の未来では人の身体は小さくなり、知能も低下し故に言葉も極めて単純なものとなっている。そして大変幸せそうに暮らしているのだ。

「人間の知性がたどったはかない末路を思うと、ぼくは悲しくなった。知性は自殺をしたのだ。知性は快適さと安楽、そして安定と恒久性を標語に、バランスのとれた社会を目指してきた。そしてその目標に到達した後にこんなことになってしまったのだ。進歩の続いているある時代に、人間生活は完全に満ち足りた安定に達したにちがいない。そのとき富める者たちは彼らの財産と快楽、労働者は生活と仕事の充分な保証があった。雇用問題もすべて解決し、社会問題はなかった。その後には安定期がずっと続いたのであろう」(「タイム・マシン」より、101~102ページ)

しかし彼らにも恐れるものはある。闇であり、地下に住む彼らとは違うかたちの変化を遂げた人々である。この遠未来においては人類は二通りの姿をしている。地上で幸せに退化した人類と、地下でグロテスクな姿となった人類。元々地上の人々は支配階級であり、地下の人々は労働者階級であった。絶対的な安定は地上の人々の退化をもたらし、地下で働く人々は光の下に出ることができなくなった。闇が支配する夜、地下の人々は地上に現れ、虫も動物も死滅した社会における貴重な食糧を調達するのだ。

「彼に言わせれば、人類の進歩などはたいしたものではなかった。文明の増大は愚かさの増大にすぎず、やがて反動的に人類を破滅させるだろうと彼は言うのだ。そうだとすれば、私たちはそうでないふりをして生きて行くしかない」(「タイム・マシン」より、120~121ページ)

このあまりにも絶望的な未来を何と呼べば良いのだろうか。SFがその創成期から既に人類に対する警鐘の役割を持っていたことに驚いた。幸福で高度な発達をテーマにしても良さそうなものなのに、ウェルズが描いたのは圧倒的なディストピアだったのだ。

尚、この岩波文庫版の『タイム・マシン』は短篇集である。表題作以外はごく短いものばかりだが、ウェルズの多作を示していて面白い。以下、収録作品。

★★☆「水晶の卵」
★★☆「新加速剤」
★★★「奇蹟を起こした男」
★☆☆「マジック・ショップ」
★★☆「ザ・スター」
★☆☆「奇妙な蘭」
★★☆「塀についた扉」
★★☆「盗まれた身体」
★★★「盲人国」

この内、「水晶の卵」「新加速剤」「ザ・スター」はSFと呼ぶことができるだろう。では他の「奇蹟を起こした男」や「マジック・ショップ」、「奇妙な蘭」 や「塀についた扉」、「盗まれた身体」は何と呼ぶことができるか。今回大変驚いたことに、これらはみな怪奇小説なのである。如何にもポーやマッケンが書きそうなものもあって、それがSF的なものより数が多いのにも驚いた。ウェルズがこんなに沢山の怪奇小説を残しているとは知らなかった。変なものが沢山出てくる点では先に挙げた二人よりも、乱歩に近いかもしれない。上でSFに大別した「水晶の卵」も「新加速剤」も、タイトルがそのまま変なものである。とはいえ怪奇小説の中にも科学的な考察が含まれるから、何となくリアリティがあって面白い。ウェルズと言えばSF、というイメージを抱きがちだが、実はものすごく多才な作家なのである。

面白いのは「盲人国」である。これもある種のユートピアを描いた作品だが、SFでも怪奇小説でもない。ある若者がアンデス山脈の奥地に孤立した盲人の国に迷い込み、出られなくなる。伝染性のある謎の奇病によって代々目が見えない盲人たちは、既に視覚を全く用いない生活に慣れきっていて、窓のない家に暮らし、暖かい昼間に眠り夜に活動するのを習慣にしているのだ。若者の語る外の世界の様子は全く受け入れられない。盲人たちの聴覚は異常に発達しており、そのため彼らを殴り倒すのも容易ではない。そして段々、盲人国の常識に慣れていくのだ。ウェルズのように科学的な根拠と経緯をもって書かれると、こんな世界が本当にあるように思えてしまう。この作家の面白さが凝縮された小篇である。

怪奇小説をまるで期待していなかった分、衝撃的だった。今思うと大変盛り沢山な一冊である。他のも読んでみたいと思った。

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)