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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

シュルレアリスム宣言・溶ける魚

アンドレ・ブルトン1924年に発表した、シュルレアリスム運動の拠り所となった記念碑的テクスト。

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

 

アンドレ・ブルトン(巖谷國士訳)『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫、1992年。


本来ならば敬愛する生田耕作訳の『超現実主義宣言』(中公文庫)を読むべきところだが、この岩波文庫版の『シュルレアリスム宣言』にはブルトンが自動記述によって生み出した「溶ける魚」という小話集が付されているのだ。「小話集」とはブルトンの言葉だが、これは詩集とも短篇集とも呼ぶことのできる確固たる作品である。ちなみに生田訳の方には1924年の第一宣言の後にブルトン本人が発した第二・第三の宣言が併収されているので、巖谷訳とはまた異なった楽しみ方ができるということを付け加えておきたい。

シュルレアリスムがどういったものなのかを理解するためには、当然ながら、まずこの作品を読まなければならない。そう意気込んで読み始めたのだが、直前に巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』を読んでいて本当に良かった。そうでなければ話の核に入る以前に投げ出してしまっていたかもしれない。

「想像力を隷従に追いこむことは、たとえ大まかに幸福などとよばれているものがかかわっているばあいでも、自分の奥底に見いだされる至高の正義のすべてから目をそらすことに等しい。想像力こそが、ありうることを私に教え、またそれさえあれば、おそろしい禁令をすこしでもとりのぞくのにじゅうぶんだ。そして、まちがえる(これ以上まちがえることができるかのようだが)心配もなしに、私が想像力に身をゆだねるのにじゅうぶんだ。想像力はどこからわるくなりはじめるのか、精神の安全はどこで絶たれるのか? 精神にとって、あやまちをおかすことの可能性は、むしろ善の偶然性なのではあるまいか?」(10ページ)

シュルレアリスムにおいては想像力こそが、絶対的な力である。想像力の及ぶままに、頭に次々に浮かぶ事柄を記録する。その客観性を示す例として、例えばシュルレアリスムによって書かれた言葉が法に抵触するようなものだったとしても、それはその判決を下そうとする裁判長と同じくらい、書いた本人とは無関係なものなのだ。

「私は、夢と現実という、外見はいかにもあいいれない二つの状態が、一種の絶対的現実、いってよければ一種の超現実のなかへと、いつか将来、解消されてゆくことを信じている。それの征服こそは私のめざすところだ」(26ページ)

「超現実」とは現実の延長線上にあるものであり、そこに生み出される不可思議なものを書き留める、ということが、シュルレアリスムの目指すことなのだ。

「きっぱりいいきろう、不可思議はつねに美しい、どのような不可思議も美しい、それどころか不可思議のほかに美しいものはない」(26ページ)

そしてブルトンシュルレアリスムを以下のように定義する。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」(46ページ)

ブルトンによるこの定義が成される前にも、シュルレアリスムという言葉は存在した。元々の生みの親はアポリネールだ。しかし、この言葉は定義が曖昧なまま使用されていたため、ブルトンらの運動に横槍が入るようなことが起きてしまう。わざわざ「宣言」が為されたのには、外的な要因もあったのだ。

そして、この「宣言」に書かれた方法論、即ち「自動記述」を用いて書かれたのが小話集「溶ける魚」である。元々「宣言」という理論の実践編という不可分な関係をもったこの作品は、以後版を重ねるにつれてブルトン自身によって削除されてしまった。生田耕作訳にこの作品が含まれていないのはそういった理由からである。

今回この本を手に取ったのは、この「溶ける魚」を読んでみたかったからだ。故に、最初の「宣言」を読んでいる最中は、早くこのしんどい理論を終えて自由な小説世界に浸りたい、と思っていた。ところがいよいよ「溶ける魚」を読むと、「宣言」よりも更にしんどいのである。

「大地は私の足の下にくりひろげられる新聞にすぎない。ときたま写真が目にはいり、それはいくらか興味のあるものだし、花々はそろってその匂いを、印刷インクのいい匂いを立ちのぼらせている。若いころにきいた話では、熱いパンは病人にはがまんのならぬものだそうだが、それでもくりかえしいおう、花々は印刷インクの匂いをたてていると。木々は木々で、多少ともおもしろいところのある三面記事でしかなく、こちらでは放火犯、あちらでは脱線事故。さて動物たちはといえば、もうずっと以前に、人間たちとの交渉から身をひいてしまった。女たちは男たちとのあいだに、もはや逸話的な関係しか保たなくなっている。それはちょうど商店のショーウィンドーに似た関係で、朝はやくから陳列係が通りに出て、リボンのうねらせかたや、すべり金具や、客よせマヌカンのウィンクなどの効果をしらべているようなものだ。
私が文字どおりくまなく見てまわるこの新聞のいちばん大きな部分は、引っこしや別荘ずまいの記事にあてられており、その見出しも第一面上段のいい場所を占めている。なかでも目をひくのは、私が明日キプロスへ行くという記事である」(104~105ページ)

半ば予想していたことではあったけれど、恐ろしいほどの振り切り方である。展開が全く予想できない。「自動記述」に拠ると、書いている本人にも予想できないのだ。完全に迷宮である。

単独の文章だけ挙げれば、以下のような次第だ。これらがまとまって一つの作品となっている様を想像して欲しい。

バドミントンの羽根が家ほどに大きいというのに、どうして私たちに遊べというのか」(115ページ)

「門衛たちは娘をそのまま通してくれたが、もともと彼らは緑の植物だったわけで、カード遊びに熱中して水ぎわからはなれられなくなっていたのだ」(126ページ)

「ブラシにもいろんな種類があるが、そのなかでも、不充分ながら私はたとえばヘア・ブラシと艶だしブラシとを挙げよう。太陽もあるし馬毛の手袋もあるけれど、それらは本来のブラシとはいえないものである」(137ページ)

「街灯はその夜、郵便局へゆっくりと近づいていきながら、一瞬ごとに立ちどまって耳をすますのだった。こわかった、ということだろうか?」(139ページ)

「彼の太陽光線のなかには日蔭よりもたくさんの闇がふくまれていたが、彼はほんとうに真夜中の太陽でしか日焼けをしなかった」(155~156ページ)

「きみはだれ?
 ――首都のはずれでふるえている死にそうな竪琴の疼きのひとつよ。あなたを痛くさせるでしょうけれど、ゆるしてね」(163ページ)

七面鳥は、この通りがかりの子どもの心をうごかすことができないようなら、自分もおしまいだと感じていた。子どもはそのシルクハットを見かけたが、お腹がすいていたので、その中身を、とくにこのばあいは蝶のくちばしをもつ美しいクラゲを、すっかり呑みこんでしまおうとかかった」(171ページ)

「私は千度目のスピード違反の判決をうけたところだった。このニュースは忘れられていない。くだんの自動車はある晩サン・クルー街道を全速力でつっぱしっており、乗りあわせた者はみな鎧兜を身につけていた」(172ページ)

「いずれにしろ、きっとあなたのもとにはやってこないはずの、きっとどこにも行かないはずの、そんな女たちを追いかけるのはよいことだ」(195ページ)

読んでいる最中に、似たような理解できない感覚を呼び起こす作家を思い出した。ボルヘスである。マジック・リアリズムシュルレアリスムの描く、いわゆる「幻想」が全く異なったものであるのに、こんな連想をしたのが面白かった。そもそもボルヘスマジック・リアリズムの作家と呼べるとして、ということではあるが。ボルヘスブルトン、あとはバロウズだろうか。魔法と夢と麻薬による幻視者たちである。

「溶ける魚」は大体2ページ前後の非常に短い話をまとめたものだ。それぞれの密度は恐ろしく濃いが、ちょうどボルヘス『伝奇集』のように読み返したくなる作品ばかりである。先述した通り、ブルトンはこれを「小話集」と呼んでいるが、むしろ私は詩集として読んだ気がする。そのあたりの分類が全く出来ないのも、ボルヘスに似ているだろう。

「宣言」に見られるドストエフスキースタンダールへの批判や、シュルレアリスムとして読める先人たちの紹介、贋小説の書き方なども、ユーモラスで興味深いものばかりだ。十分に理解できないながらも面白い。何より、読んだ端から忘れていくほどの「溶ける魚」の振り切りっぷりを是非とも体感して欲しい。

「狂人たちの打明け話、これをさそいだすためなら、一生をついやしてもいいくらいだ」(11ページ)

文学史に残るだけのことはある、名著である。

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

 

以下が生田耕作訳の『超現実主義宣言』。

超現実主義宣言 (中公文庫)

超現実主義宣言 (中公文庫)

 


<読みたくなった本>
シュルレアリスム運動に関連する本は、先日紹介した『シュルレアリスムとは何か』の時に散々挙げたので、ここではこの本を読んで初めて知った一冊を挙げる。

マシュー・グレゴリー・ルイス『マンク』
→18世紀イギリスのゴシック小説。アルトーがこれを題材に小説を書き直しているそうだ。修道院長が貴族の娘の誘惑に負け、あらゆる性的な罪業を犯すというもの。

マンク

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