Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

百年の孤独

ラテンアメリカの文学を世に知らしめ魔術的リアリズムの時代を開くこととなった、現代の世界文学を牽引する記念碑的作品。新潮社の発行している雑誌『考える人』の2008年春号で「海外の長篇小説ベスト100」の頂点に輝いたことも記憶に新しい。

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

 

ガブリエル・ガルシア=マルケス鼓直訳)『百年の孤独』新潮社、2006年。


噛み砕いて言えば、マコンドという町を興したブエンディア家の興亡を描いた小説である。ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランの夫婦が文字通り町を作るところから始まり、やがて二人の息子と一人の娘、ホセ・アルカディオとアウレリャノとアマランタが生まれ、村落と呼ぶにも無理があるようなマコンドは次第に町として機能していくようになる。歳月の経過と共に町には船が通うようになり、やがて更なる歳月の経過と共に鉄道も敷設され、商業さえ興る。赤ん坊の頃からその成長を追うことのできる登場人物たちが、成人し結婚し子供を産み、更なる子孫たちがマコンドを更に発展させていく。気付けばブエンディアだらけの世界に迷い込んでしまっており、アルカディオとアウレリャノという二つの名前を一生かけても目にしないほどの回数読むことになる。

百年の孤独』がただ都市を興すだけの小説だったら、ここまで騒がれることもなかっただろう。元々がジャーナリストであるガルシア=マルケスの語り口には疾走感があり、この物語を単なる年代記に貶めないだけの引力と工夫とが秘められている。記憶していたいと思わせる金言に満ちた書、というような小説ではないのだ。それなのに、ほとんど改行すらないこの大作がこれほど読ませる力を持つのは、魔術的リアリズムの持つ魅力も大いに貢献していることだろう。

「マコンドで誕生した最初の人間であるアウレリャノは、この三月で六歳になろうとしていた。もの静かで内気な子供だった。母親の胎内で早くも産声をあげ、生まれたとき目がぱっちりあいていた」(27ページ)

マコンドの日常は考えられないほどの不思議に満ちている。常識のまるで通用しない世界なのだ。小説中に起こる不思議なことを列挙していくくらいなら、一冊まるまる書き写した方が早いくらいだ。過剰だとか誇張だとかいう言葉が、ここでは何の意味も持たない。死者は常に生者の傍らにいるし、血に植え付けられた呪いは脈々と続き、先祖たちの記憶は子孫にもある程度継承されている。

「こんなに長い列車にお目にかかるのは、これが初めてだった。二百両に近い貨車から編成されており、前後に一台ずつ、さらに真ん中にも一台、機関車が連結されていた。明かりはひとつもついていなかった。赤と緑の標識灯までが消されていて、夜間用のスピードで、音を忍ばせながら走っていた。貨車の屋根の上に、機関銃をかまえた兵隊たちの黒い影が見えた」(354ページ)

そもそもこれだけの大長篇が多くの人々によって完読されているという事実が既に奇跡めいているではないか。ガルシア=マルケスの持つ引力はそれほど凄まじい。一行目から物語の中に引きずり込まれ、気が付く頃には離れられなくなっている。ブエンディアの面々が同じような生活を送りながらも全く違う運命に翻弄され、その間にも時間の流れは止まることを知らずに進んでいる。そして誰も考えつかないほど完璧なラスト。あそこまでやられたら完全に白旗である。大長篇を頑張って読んだ分の加算なしに、ラストだけで最高評価が約束されてしまう。鳥肌が立ち、震えるのだ。ただし、震えるためには1ページ目から最後まで通読する必要がある。完璧なストーリーテリングである。

「これに類したことが、古めかしい手回しオルガンのかわりに娼婦らが持ちこんだもので、一時は楽隊の利益にも深刻な影響を及ぼした円筒式蓄音機についても生じた。最初は、好奇心につられて禁断の町に足を向ける客の数が何倍にもふえ、もの珍しい蓄音機とやらを近くで見たい一心で、田舎女に身をやつして出かけた良家の婦女もいるといううわささえ立った。ところが、そばに寄ってよく見ると、みんなの思っていたような、そして娼婦らの言うような魔法の粉ひき器ではなくて、心をゆさぶる、人間味ゆたかで身近な真実にあふれた楽隊とは比べものにならない、インチキな道具であることがすぐにわかった。失望があまりにも大きかったために、蓄音機が普及して各戸に一台はかならず見られるころになっても、人びとはそれを、大人の娯楽のための道具というよりは、子供が分解して遊ぶのに手ごろなしろものだと考えた」(265~266ページ)

金言が沢山含まれるような小説ではないと書いたが、人物たちの造形は大変気が利いている。個人的にはアウレリャノ・ブエンディア大佐が好きだ。嫌いになる読者などいそうもないが。

「「何か言ってますか?」と大佐は聞いた。
 「とっても悲しんでるわ」と、ウルスラがそれに答えた。「あんたが死ぬと思ってるのよ」
 「伝えてください」と、微笑しながら大佐は言った。「人間は、死すべきときに死なず、ただ、その時機が来たら死ぬんだとね」」(285ページ)

時間の経過と共に主役がめまぐるしく入れ替わるため、同じ名前がどれだけ続いても人物を混同するようなことはほとんどない。誰が誰の子孫であったかを忘れてしまっても、巻頭の家系図が助けてくれる。昔の版ではこの家系図が付されていなかったそうだ。物語の進展を全く予想させない分、それはそれで面白そうだ。

「「籠に入れられて川に浮いていた、ということにでもしましょう」と、微笑さえふくんで言った。
 「そんな話、信じるでしょうか?」尼僧がそう言うと、フェルナンダは答えた。
 「聖書を信じるくらいですもの。わたしの話だって信じるはずだわ」」(345~346ページ)

登場する誰もが生き生きとしていながら、それでいて孤独を噛みしめている光景は忘れられない。生命力に溢れる世界の中で誰もが寂しそうにしているのを考えると、人はみんなそういうものなのではないかと思えてくる。熱狂と静寂のバランスが凄まじいのだ。晩年になると誰もが孤独な作業に打ち込み始める。

「幼いころの恐怖の夜はこの一隅に限られていたが、彼は寝る時間が来るまでそこを動かず、腰掛けにすわったまま、告げ口好きな聖者らの鋭く冷たい視線のもとで恐ろしさのあまり汗を流していた。それは無用の責め苦だった。というのは、すでにそのころには、彼は周囲のすべてのものに恐怖を抱くようになり、いずれこの世で出会ういっさいのものにおびえる下地が十分にできていたからだ。血を濁らせる表通りの女たち、豚のしっぽのある子供を産む屋敷の女たち、死をもたらして生涯心を苦しめる闘鶏、触れるだけで二十年の戦争騒ぎを引き起こす鉄砲、幻滅と狂気を産むだけの見当はずれな冒険。要するに、その、いっさいのものというのは、神の限りない善意によって創造されながら、悪魔が堕落させてしまったそれだった」(421~422ページ)

見た目通りの厚さの本だけれども、ラストを読むときの衝撃は何時間を費やしたとしてもお釣りがくるほどのものだ。評判が良すぎて読んでいない人は、期待していたよりも遙かに素晴らしくて後悔することになるに違いない。1967年刊行のまだまだ新しい小説だが、それこそ今後百年は読み継がれていくであろう傑作である。

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

 


<読みたくなった本>
ガルシア=マルケス『エレンディラ』
→そういえばエレンディラとしか思えない少女が登場していた。もう一度読んで確かめたい。

エレンディラ (ちくま文庫)

エレンディラ (ちくま文庫)

 

ガルシア=マルケス『悪い時 他9篇』
→『百年の孤独』にも言及のある「ママ・グランデの葬儀」が含まれる短編集。

悪い時 他9篇

悪い時 他9篇

 

カルペンティエル『光の世紀』
→登場人物が『百年の孤独』にも出てくる本その1。

光の世紀 (叢書 アンデスの風)

光の世紀 (叢書 アンデスの風)

 

フエンテス『アルテミオ・クルスの死』
→登場人物が『百年の孤独』にも出てくる本その2。

アルテミオ・クルスの死 (新潮・現代世界の文学)

アルテミオ・クルスの死 (新潮・現代世界の文学)

 

コルタサル『石蹴り遊び』
→登場人物が『百年の孤独』にも出てくる本その3。

石蹴り遊び〈上〉 (集英社文庫)

石蹴り遊び〈上〉 (集英社文庫)

 
石蹴り遊び〈下〉 (集英社文庫)

石蹴り遊び〈下〉 (集英社文庫)