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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

レーモン・ルーセルの謎

『アフリカの印象』『ロクス・ソルス』の訳者、岡谷公二によるレーモン・ルーセルの評論。1989年に新たに発見された『ロクス・ソルス』の異稿に含まれた一章「アディノルファの新たな発見」を収録。

岡谷公二『レーモン・ルーセルの謎 彼はいかにして或る種の本を書いたか』国書刊行会、1998年。


一般にシュルレアリストたちと関連付けて語られることの多いルーセルの作品がどれほど彼らの趣向とかけ離れたものであったかは、代表作を挙げた時に既に書いている。このような独自性はどこから来たのか、ルーセル文学史の中でどのような位置を占めるべき作家なのかを知りたいと思って手に取った一冊である。

以下、目次を列挙。
★☆☆「レーモン・ルーセル小伝」
★☆☆「新発見のルーセル
★☆☆「『アフリカの印象』」
★★☆「『アフリカの印象』から『幻のアフリカ』へ」
★☆☆「『ロクス・ソルス』」
★★☆「『さかしま』から『ロクス・ソルス』へ」
★★★「無償の機械、言葉の王国」
★★☆「ダダの中のレーモン・ルーセル
★★☆「レーモン・ルーセルの演劇」
★★☆「ルーセル=ルソー」
★★☆「ヴェルヌとルーセル
★☆☆「死場所としての島」
★★★ルーセル(岡谷公二訳)「アディノルファの新たな発見」

前半の三章と「『ロクス・ソルス』」は特に平凡社ライブラリー版の二冊に書かれた訳者解説と重複する部分が多いのだが、それを差し引いても十分に満足できる内容である。

「彼が崇拝したのは、ジュール・ヴェルヌとピエール・ロティだった。これは「作品は何一つ現実的要素を含んではならない」という信念を抱く彼に、なんとふさわしい好みだろうか?」(「レーモン・ルーセル小伝」より、25ページ)

ルーセルはあれほどの絶賛を与えられたシュルレアリストたちの作品を「何だかよくわからない」と無関心とも言える態度で斥け、反対にヴェルヌに対しては「ひざまずかずにこの名前を口にするのは、冒瀆のように思われる」と書くほどの崇拝を抱いていた。シュルレアリストたちが「白痴」と呼んだロティに関しても同様である。

ルーセルの視線は、決して内側へさし入ろうとはしない。それは、一歩踏みこんだら、致死の伝染病菌に感染するとでも思っているかのように、現実の表面の閾のところでとどまる。彼の観察が表面的だというのではない。彼は、表面しか信じないのであり、奥や内部や意味を拒否するのである」(「新発見のルーセル」より、49ページ)

ルーセルの作品に登場する人物は、内面ばかりか、性格らしい性格さえ与えられていない。彼等は、善良か悪賢いか、優しいか残酷か、大胆か小心かのいずれかであって、まるでそれ以外の性格はこの世に存在しないか、不必要であるかのようだ。彼等は、お伽話や人形劇の登場人物よりも単純である」(「『さかしま』から『ロクス・ソルス』へ」より、140ページ)

彼の作品はシュルレアリストたちに大いなる影響を与えたとはいえ、決してシュルレアリスムに属するものではなかった。後半に書かれる画家アンリ・ルソーとの対比が面白い。

ルーセルもルソーも、文学史、美術史の中で系譜を持たない。
 それは、彼らが系譜から出発しなかったからである。彼らが作品を創ったのは、幼児が、積木や玩具によって、共有の垢にまみれることのない、自分ひとりきりだけの隠れた世界を作り出すことを夢み、大人が、庭園という形で、日常の蕪雑さから離れた、心休まるひとつの小さな宇宙、ささやかな楽園を所有することを望むのと全く同じ本能に促されてのことであった」(「ルーセル=ルソー」より、202ページ)

ブルトンデスノスが劇場で大暴れしたことが有名な、ブルトン夫妻に至っては逮捕されているルーセルの劇に関しても同様である。不評と乱闘による大スキャンダルを呼び起こした演劇も、系譜という文脈での彼の特異性を象徴的に表すものだった。

「一人の人物だけが知っている挿話を、その人物だけに語らせるとなると、台詞は異常に長いものとなり、話のやりとりは不可能になる。そこでルーセルは、挿話の説明を、登場人物のすべてに、ほぼ均等に割り振るのである。こうなれば、台詞は、全体の状況設定や人物の性格と有機的に結びつくのをやめてしまい、話を運ぶための単なる道具に過ぎなくなる。だから、ルーセルの演劇では、誰が何をしゃべろうと、大して意味はないのであり、この場面について言えば、クロードとジュヌヴィエーヴの台詞をとりかえたところで、それほどの支障はないのだ。一体、こんな芝居があっていいものだろうか?」(「レーモン・ルーセルの演劇」より、184~185ページ)

「アンチ・テアトルの作者たちは、アンチという形で伝統を意識しているのであり、そのため否応なしに伝統とつながり、その重荷を背負いこんでしまっている。ルーセルとルソーは、この種の意識の原罪を知らない。彼らの作品にある解放感と明るさはそこから来る。ベアールの言葉にならって言えば、そこには「原罪以前のまったく無垢な状態の天国のイメージ」が存するのである」(「ルーセル=ルソー」より、211ページ)

それぞれ一章が割かれたレリスとユイスマンスとの対比も興味深い。ミシェル・レリスは私生活における親しさという点でもルーセルを最も近い場所から見ていた人物の一人で、後にはルーセルの評伝も書いている。幼少期に見た『アフリカの印象』の舞台によって衝撃を受け、彼の人生そのものを転換させるほどの絶大なる影響をもたらされたレリスは、『幻のアフリカ』というルーセルとは全く正反対の作品を残した。

「作品の中でその私生活について唯の一行も語らなかったルーセルと、「告白の専門家」であり「告白マニア」であったレリスと、この二つの魂の描く軌跡は、大きく交わる。それらは、言葉とは文学者にとって、残された唯一のチャンスであることを、それはまたチャンスであると同時に、時に彼等を死へと追いやる業病でもあることを、ほとんど典型的なかたちで私たちに示してくれるのである」(「『アフリカの印象』から『幻のアフリカ』へ」より、109ページ)

ユイスマンスとの関連で挙げられるキーワードは「独身者」である。これはミッシェル・カルージュの著書『独身者の機械』に基づく文学史を読み解く上での一つの新しい系譜であり、ルーセルに与えられるべき位置を策定する上で大いなる示唆を投げかけてくれるものだ。

「デゼッサントとカントレルは、そして作者のユイスマンスルーセルはともに独身者であった。
 独身者は、生殖から、すなわち自然から切り離された、いや、自らを切り離した人間である。女性は自然であり、大地なのだから、彼は、女性と真の関係を結びえない。人間社会を成立させている根本の衝動が生命の維持であるならば、その社会の中で、彼はいつも疎外者、孤立者である。彼は、太古の昔から何代にもわたって、親から子へと受け渡されてきた生命の環を、自らの手で断ち切る。だから彼は未来にはつながらない。彼は、反自然的存在であり、つねに現実の拒否者、否定者となる」(「『さかしま』から『ロクス・ソルス』へ」より、137~138ページ)

「十九世紀半ばから二十世紀にかけて、フランスは偉大な独身者を多数輩出させた。先達のボードレールにはじまって、ロートレアモンランボー、コルビエール、フローベールゴンクール兄弟、モーパッサン、バルベ・ドールヴィイ、グールモン、ロベール・ド・モンテスキューユイスマンス、ジャリ、ジャコブ、プルーストルーセルコクトー、モンテルラン、アルトーと、こうした系譜はきりもなく続く。これに群小の詩人や作家を加えれば、おびただしい数になるだろう。近代フランス文学の大半が独身者たちによって書かれたと言っていいほどである。これは、世界文学史の中でも特異な現象にちがいない。たとえば、日本の近代文学史を見るならば、私たちはいかに独身者が少いかを知るだろう。永井荷風稲垣足穂折口信夫石川淳……このあたりで数える指は止まってしまう。わが国ではふしぎなことに、耽美派も、無頼派も、この世界に結婚という同意を与え、妻子をもうけ、家庭を作っているのである」(「無償の機械、言葉の王国」より、147~148ページ)

「無償の機械、言葉の王国」は元々、筑摩書房の『澁澤龍彦文学館第九巻:独身者の箱』に寄せられた解説である。ルーセルの初期の短篇「爪はじき」と「綱渡りの恋」も含まれているので、この本も近い内に手に取らなければならない。カルージュはほとんど稀覯本になってしまっているが、どうにかして読まなければ、と思う。

たまに評伝や文芸評論を読むと、読みたい本が大幅に増えて嬉しい。それを入手・消化していくのがまた大変なのだが、そこにはまた別の楽しみがある。こうして本の世界から抜け出せなくなっていくのである。


<読みたくなった本>
カラデック『レーモン・ルーセルの生涯』

レーモン・ルーセルの生涯

レーモン・ルーセルの生涯

 

フーコー『レーモン・ルーセル

レーモン・ルーセル (叢書・ウニベルシタス)

レーモン・ルーセル (叢書・ウニベルシタス)

 

レリス『幻のアフリカ』

幻のアフリカ (平凡社ライブラリー)

幻のアフリカ (平凡社ライブラリー)

 

ユイスマンス『さかしま』

さかしま (河出文庫)

さかしま (河出文庫)

 

カルージュ『独身者の機械』

独身者の機械 未来のイヴ、さえも・・・・・・

独身者の機械 未来のイヴ、さえも・・・・・・

 

ジャリ『超男性』

超男性 (白水Uブックス)

超男性 (白水Uブックス)