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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

テロル

女性の名前という覆面の下に社会学者と作家という二つの顔を隠し持つ、ヤスミナ・カドラ。フランスに帰化したアルジェリア出身の作家で、最近三冊目の翻訳『昼が夜に負うもの』が刊行されたばかり。

テロル (ハヤカワepiブック・プラネット)

テロル (ハヤカワepiブック・プラネット)

 

ヤスミナ・カドラ(藤本優子訳)『テロル』ハヤカワepiブックプラネット、2007年。


「ハヤカワepiブックプラネット」はこの作家を紹介するために創刊されたんじゃないか、と疑いたくなるほど、ヤスミナ・カドラに力を入れている。イスラム教を直接的なテーマとした文学にほとんど触れたことがなかったので、手探りで読み始めた。

「「男は泣いてはいけないなんて、そんなことを言うやつは男であることの意味をわかっちゃいない」代々の部族の長の墓所で、一人きりだと思って泣き崩れていた私に向かって、父がそう言った。「泣くのは恥じゃない、坊主。涙は我々の持ちもののなかで、何にも増して気高いものだ」」(7ページ)

主人公はイスラエル帰化したアラブ系遊牧民出身の外科医である。エリート医師として仕事に忙殺されるアミーンは、その日も近隣で爆破テロが起きたことから急患の対応に追われていた。

「エズラ・ベンハイムが非常時の宣言を出す。看護師と外科医が救急外来のエントランスに集結し、ひっきりなしの騒乱のなかを、担架や台車が整然と並べられていく。テルアビブが爆破テロで騒然とするのはこれが初めてではないし、経験を積むごとに効率のいい救命活動ができるようになる。とはいえ、爆破テロには変わりない。受けた被害を技術的に管理できても、人間はそう単純にはできていない。動揺と恐慌、いずれも沈着と相容れない。恐怖に襲われると、まず心が脆くなりがちだ」(14~15ページ)

くたくたになって家に帰ると、旅先から帰ってきているはずの妻の姿がない。眠りこけると真夜中に警察官の友人から電話で呼び出され「身元を確認してほしい死体がある」と告げられる。死体の首から下はほとんど原型をとどめておらず、それは自爆テロ犯の死体の特徴に酷似していた。そして残された頭部は妻のものに違いなかったのである。

「まずはせめて泣かせてくれ。それくらい、いいだろう、そのあとはもうどうにでも好きにすればいい」(45ページ)

ここまでは本書の帯を読むだけでも判ることである。何故妻は自爆したのか、何故人はテロリストになるのかが中心的なテーマなのだ。

「「向こうもこっちも、ひっきりなしに葬列が出ているというのに、それで事態は少しでも進展したか?」
 「道理を聞きわけようとしないのはパレスチナのほうだよ」
 「我々のほうが彼らの話を聞くことを拒んでいる、という言い方もできる」
 「ベンヤミンの言うとおりだ」穏やかな含蓄のある声でナビードが言う。「パレスチナ原理主義者たちは、バス停の待合室に子どもを送りこんで自爆させる。私たちが遺体を回収しているあいだに、当局はヘリコプターを出動させて向こうの貧民街を爆撃する。イスラエル政府が勝鬨を上げようとすると、その瞬間、またしても別のテロが起きてすべてが振り出しに戻る。こんなことがいつまで続くんだ」」(70~71ページ)

イスラム教の紛争、という読み慣れないテーマにあたって一番驚いたことは、爆破や戦争といった血生臭い言葉がそこら中に溢れていて、この国ではそれが常態化してしまっているということだ。ヤスミナ・カドラの進める筋書きがあまりにもメロドラマ的なもので、しかもミステリーのようにスラスラと読めるものだから俄には信じられない。こんなに軽妙な文体で書かれていることに違和感を覚えてしまうほど、語られる世界の空気は重く、暗い。

「第二の祖国の兄弟たちに似ようとするあまり、あなたは自分のあるべき姿を失ってしまった。イスラム教徒とは政治的な活動家のことだ。その願いはただ一つ、自分の国に政祭一致のイスラム国家を築き、完全なる主権と独立を享受することだ……。そして、イスラム原理主義者とは聖戦を貫徹する者を指す。イスラム教諸国の主権もその自治も認めない。原理主義者にとって、そのような国は属国でしかなく、カリフの出現と同時に崩壊する運命にある。原理主義者とは、インドネシアからモロッコまで広がる磐石な一個のイスラム国家の誕生と、西洋のイスラムへの改宗か従属、あるいは滅ぼすことを夢見るものだ。だが、我々は原理主義者ではない。我々は略奪され嘲弄された民の子どもとして、限られた手段を用いて祖国と尊厳を取り戻そうと戦う者にすぎない。それ以上でもなければそれ以下でもない」(168ページ)

イスラムの教えが原理的に自爆を強要するものだとしたら、この宗教が世界的な広がりを持つことはなかっただろう。では、どこで食い違ってしまったのか。何故彼らは自爆するほどに追いつめられてしまったのか。そこには報復に対する報復という、抗い難い負の連鎖が頭をもたげている。

「「一週間前は」とジャミルがつけ足す。「世界の終わりだった。戦車がパチンコに反撃しているところなんて、見たことあるかい。ところがジャニンでは、石を投げてくる子どもに向かって戦車が砲撃するんだ。街のあちこちで、ゴリアテがダビデを足蹴にしている」」(214ページ)

悲惨な状況は日々深化しているというのに、我々はイスラムの問題をまるで理解できずにいる。だがそれを宗教の問題というよりも個人の問題として捉えると、ほんの少しだけ、判る。ヤスミナ・カドラが偉いのは、彼なりの答えを明確に提示したことだ。

「我々の部隊に喜んで加わる者などいない。あんたが目にした若者は全員、ある者は投石器を持ち、またある者はロケット弾の発射筒を持っていたと思うが、彼らは戦争をあり得ないほどに嫌悪している。ほとんど毎日のように仲間の一人が敵の銃弾に倒れ、若い命を散らしているからな。あの子らだって、立派な地位につけるものならつきたいだろう。外科医でも、歌手でも、映画俳優でもいい、高級車を乗りまわし、夜ごと月をつかみ取る暮らしがしたい。だが問題は、その夢がはねつけられてしまうことだよ、先生。今は子どもたちをゲットーに囲いこんでいく流れになっている。そこでの境遇に彼らが徹底的に溶けこんでしまうまでね。そのせいで、いっそ死んだほうがましだと彼らは考えている。夢を拒絶されると、死が最後の救いとなる」(233~234ページ)

自分の大切なものを足蹴にされて、黙っている人間はいない。問題を単純化すれば、そういうことなのかもしれない。様々なかたちでの侮辱が、新たな報復となって炎を上げる。メロドラマに仕立てでも社会学者が伝えようとしたこととは、そういうことだったのかもしれない。

「突然、自分自身と向きあうのが怖くなった。不幸が近づいているのに何も気がつかなかった男なのだ。信用などできるものか」(201ページ)

宗教的な紛争についてまるで無知だったので、イスラエルの問題を知る良い契機になった。小説を読んだ気がしないので、この作家が他にどんなものを書いているのかが気になる。この問題に詳しい人がどんな風に読むのかも知りたい。物議を醸す一冊である。

テロル (ハヤカワepiブック・プラネット)

テロル (ハヤカワepiブック・プラネット)