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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

カブールの燕たち

昨日、東京日仏学院で講演を行ったアルジェリア人がいる。ヤスミナ・カドラである。最新作『昼が夜に負うもの』の翻訳刊行記念講演会で、これが日本に紹介された三冊目の作品となった。翻訳作品は今のところアフガニスタンパレスチナアルジェリアと小説の舞台が毎回異なっており、タリバン政権下のアフガニスタンの日常を描いたのが、この『カブールの燕たち』である。

カブールの燕たち (ハヤカワepi ブック・プラネット)

カブールの燕たち (ハヤカワepi ブック・プラネット)

 

ヤスミナ・カドラ(香川由利子訳)『カブールの燕たち』ハヤカワepiブックプラネット、2007年。


講演において彼は、愛こそが最も大切なものであると繰り返していた。日本にいては想像もつかないような過酷な日常の中で、それでも人は愛を求める。その不可能性がどれだけ摂理に反したものであるか、恋愛という行為がどれほど崇高なものであるか、ヤスミナ・カドラは説いてくれるのである。

「雨という奇跡、春という夢幻を信じるものはだれもいない。ましてや穏やかな明日の黎明など考えられない。人々は狂気に走っている。昼に背を向け、夜に向き合っている。守護聖人たちは任を解かれた。預言者たちは死に、彼らの亡霊は子供たちの額に磔にされている……」(4ページ)

タリバン政権下のカブールでは、厳格なイスラム原理主義が権勢を誇っている。男は必ずあご鬚を生やし、女は外出に際し必ず全身を覆うチャドリを着用しなければならない。サッカー、テレビ、音楽を含めて、一切の娯楽は禁じられている。通りで笑い声を上げれば宗教警察に鞭打たれ、市民に与えられる唯一の気晴らしは公開処刑である。

今、知的階級は思想を拒否している。時代に迎合することなく、ちょうどユゴーがそうしたようにそれに反したことを言う必要があるのだ。昨日の講演の中でのヤスミナ・カドラの言葉である。彼はまず小説の舞台となる土地特有の慣習を描いた後、それを受け入れた人々によって彼の地で繰り広げられる日常を描く。本当に恐ろしいのはタリバンによる暴政ではなく、それを受け入れてしまった人々なのだ。これは政治を告発した小説ではなく、人々がそんな環境においてどんな言動をとるのかを描いた小説である。

「アティク、おれは四人の女房と暮らしてる。最初のとは二十五年前に結婚した。いちばん新しいのとは九ヵ月前だ。だれに対しても、警戒心しか感じないね。あいつらの頭のなかがどう働いているのか、さっぱりわからんからだ。おれには、女たちの考えていることなんか理解できん。あいつらの頭のなかは時計の針と反対回りに動いてるにちがいない。自分の女房やおふくろや娘と、一年暮らしたとて一世紀暮らしたとて、心のなかに穴が開いた気分が拭えるもんか。目に見えない溝がある。そしてこっちはだんだん孤立していく。うっかりしていると間違いを犯してしまうぞ。女たちはもともと偽善者なんだ。何をしでかすかわからん。手なずけたと思えば思うほど、その呪いに打ち勝つ可能性は低くなる。蝮を胸に抱いて暖めても、毒に対する免疫はできん。何年一緒に暮らそうが、女への愛が男の弱さを暴くような家庭にやすらぎなんかない」(24ページ)

圧政下に生きる人々は自分たちの決断に自信を持つことができず、内側に抱えた反発をどう消化したらいいのか判らずにいる。圧政自体が主題なのではなく、あくまでも人に焦点が当てられているのだ。人々の感情を伴うことで、圧政はまさしく地獄の様相を呈する。

「おれは責任から逃れようとした、問題を解決する最良の方法はそれに背を向けることだと思うほど愚かだった」(42ページ)

講演でヤスミナ・カドラはこんなことも言っていた。「小説に描かれる世界を現実として受け止めることこそが、知的階級の務めなのだ」と。

「屈辱は人の態度から感じるものとはかぎらないわ。自分がいやで、それが屈辱になるときだってあるのよ」(46ページ)

この小説の主人公は、タリバン政権下のカブールに生きる二組の男女である。アティクとムサラト、モフセンとズナイラという二組の夫婦の日常が交互に描かれ、やがて一気に交差する。背表紙に書かれているあらすじにはほとんど意味がない。動作として現れる男女間の感情ではなく、その深奥にあるものが問題になっているのだ。

「独裁と暴虐を拒否するために残されたたったひとつの対抗策は、教養を捨てないことだ。ぼくたちは人間として育てられたんだ。片方の目で神を、もう片方の目で人間を見ながら。シャンデリアも街灯もよく知っていたから、蝋燭の光がすべてだとは思わないでいられる」(68ページ)

例えば売春婦が公開処刑としての石打ちの刑に処せられるのを見たモフセンは、群衆の熱狂に包まれ自らも石を投げるのに参加してしまう。その行為を恥じて妻のズナイラに打ち明ける時、夫婦の関係は決定的に変わってしまうのだ。ズナイラはチャドリの着用を嫌って終日家に閉じこもっているのだが、ある日関係の修復を目指してモフセンと二人で外出する。そして外の街で彼らは圧倒的な暴力に直面することになってしまうのだ。

「人生が与えてくれないものをあくまで期待するのは、何も理解していない証拠だ。物事をあるがままに受け止めろ。大げさに考えるな。舵を取っているのはおまえじゃない。運命の流れなんだ。おれはきのうおふくろを亡くした。今日は墓前で黙祷してきた。今はコルサンの店に飯を食いにきている。今夜は仲間に会いに、ハッジ・パルワンの家に行く。その間に何か不幸が起きたとしても、それで世界が終わるわけではない。二つの列車がそれぞれの方向に出発するときに、駅で見つめ合うほど有害な愛はない」(106ページ)

アティクとムサラトの関係はもっと悲劇的だ。大いなる愛が成し得ることがどれほど偉大であるか、我々は知らない。

「「あなたを殺させたりするものか」
 「わたしたちはみんな殺されたのよ。もう思い出せないほどずっと昔に」」(147ページ)

ムサラトの存在感がとてつもない。死に瀕した女性の力強さは、まさに愛だけに支えられている。彼女のことを思うと、この小説は全く中立的でなくなる。

「あなたが今体験していることこそ、人生に価値を与えてくれるものなのよ。愛しているときは、野獣でも神々しくなるものよ」(154ページ)

クッツェーが絶賛した、というのが象徴的だ。彼の描く小説世界が好きな人には、是非とも試してみて欲しい。ちょうどそのクッツェーのように、20年以内にはノーベル文学賞を受賞するであろう作家である。未邦訳の『バグダッドのサイレン』が待ち遠しい。

カブールの燕たち (ハヤカワepi ブック・プラネット)

カブールの燕たち (ハヤカワepi ブック・プラネット)

 


<読みたくなった本>
アティーク・ラヒーミー『悲しみを聴く石』
白水社「エクス・リブリス」シリーズの一冊で、現代アフガニスタンの作家。

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)

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アスネ・セイエルスタッド『カブールの本屋』
ノルウェーのジャーナリストが描いたアフガニスタンルポルタージュ

カブールの本屋―アフガニスタンのある家族の物語

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