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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

文盲

『悪童日記』の著者アゴタ・クリストフによる自伝で、故国ハンガリーを離れ「敵語」であるフランス語によって著作を行うことを誓った作家の、人生を綴った書。

文盲 アゴタ・クリストフ自伝

文盲 アゴタ・クリストフ自伝

 

アゴタ・クリストフ(堀茂樹訳)『文盲』白水社、2006年。


悪童日記』三部作の衝撃から、『昨日』『どちらでもいい』と、何だかんだこの作家の邦訳小説は全て読んでいる。だが残念ながら作品の質は目減りする一方で、彼女の最高傑作が三部作の第一作に当たる『悪童日記』であることは疑いようがない。それでもこの自伝は興味をそそるものである。それは彼女が、いわゆる亡命作家たち、クンデラナボコフのような知的階級とは全く異なるかたちの亡命を、言ってしまえばもっと一般的な亡命をせざるを得なかった人だからだろう。

「当時のわたしは、別の言語が存在し得るとは、ひとりの人間がわたしには意味不明の単語を口にすることがあり得るとは、想像することもできなかった」(38ページ)

ハンガリーの小村に生まれた彼女は、やがて父親が刑務所に入れられると学校の寄宿舎に入ることとなる。何故父親が刑務所に入れられたのか、彼女は何も語らない。読者に与えられる情報が少ないのは今までの彼女の著作と全く同様で、私が年を追う毎にアゴタ・クリストフを評価しなくなっていったのは、この彼女独特の書き方が次第に鼻につくようになったからであった。訳者の評する「ナルシシズムから離れた、自己陶酔と無縁な」文章を書く彼女は、ナルシシズムから離れることを一つのナルシシズムとしているように思えてしまうのだ。少なくとも彼女の作品の愛読者たちはそうだろう。『人間失格』への強い共感を声高に示したがる太宰治ファンのようなものだ。

「一年後、わたしたちの国を占領したのは、また別の外国の軍人たちだった。ロシア語が学校で義務化され、他の外国語は禁止された。
 ロシア語に通じている者など一人もいない。それまでドイツ語、フランス語、イギリス語といった外国語を教えていた教師たちが、数ヵ月間、ロシア語速修のための授業を受ける。しかし、彼らはそれでほんとうにロシア語に習熟したわけではなく、しかもその言語を教えたいという気持ちなどまったく持ち合わせていない。そして、いずれにせよ生徒たちの側に、ロシア語を学びたいという気持ちがまったくない」(41ページ)

無一文で入れられた寄宿舎での生活は貧しく厳しいものだったが、彼女はその中で書く喜びと出会うことになる。ハンガリーの歴史を紐解くと、オーストリアソ連による度重なる支配がどうしても目につく。ポーランドの眼科医ザメンホフが人工の言語であるエスペラントを生み出した経緯、自国内の多言語環境の克服を目指したことを思い出す。

「わたしはフランス語を三十年以上前から話している。二十年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない。
 そんな理由から、わたしはフランス語をもまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由のほうが深刻だ。すなわち、この言語が、わたしのなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である」(43ページ)

クンデラが描く郷愁とアゴタ・クリストフが描く郷愁は同じものなのだろうか。移民の文学という世界文学の新たな潮流の中で、アゴタ・クリストフは最も我々読者に近い地平から声を挙げているように思える。

「わたしはハンガリーに、秘密の表記法で書き綴った日記を、また初期の詩篇を、置いてきた。わたしは兄と弟を、両親を残してきた。何も告げず、さようならとも、また会いましょうとも言うことなしに――。そして何よりも、あの日、1956年の11月末のあの日、わたしはひとつの国民(ネーション)への帰属を永久に喪ったのである」(60ページ)

亡命先のオーストリアやスイスで、ハンガリー人たちは圧倒的な孤独を味わうことになる。ある者は刑務所に入れられると判っていながらも自国へと引き返し、ある者はアメリカへ発ち、またある者は自殺する。ただ面白がって読むだけでは片付けられない重みが、亡命という言葉の内に潜んでいる。

「もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない」(67ページ)

彼女をとりまく環境がどのように他の人々を彼女から切り離すものであったかは、以下の一節にはっきりと現れている。勤め先である工場へと向かう毎朝のバスの風景である。

「朝のバスの中で、車掌がわたしの横に坐る。朝はいつも同じ車掌。太った、陽気な男だ。バスが走っている間ずっと、話しかけてくる。わたしはこの車掌が何を言っているのか、よくは理解できない。が、それでも彼が、ロシアの連中がここまで侵入してくるようなことはスイス人が許さないと説明して、わたしを安心させようとしていることくらいは理解できる。彼はわたしに言う。もう怖がることはない、もう悲しむことはない、今ではもう安全なのだと――。わたしは微笑む。わたしは彼に言うことができない。自分はロシア人が怖いわけではない、わたしが悲しいのは、それはむしろ今のこの完璧すぎる安全のせいであり、仕事と工場と買い物と洗濯と食事以外には何ひとつ、すべきことも、考えるべきこともないからだ、ただただ日曜日を待って、その日ゆっくりと眠り、いつもより少し長く故国の夢を見ること以外に何ひとつ、待ち望むことがないからだと」(72~73ページ)

『昨日』や『どちらでもいい』を読んでこの作家を評価できなくなった人には、是非ともこの『文盲』を読んでもらいたい。移民の文学、言語を取り巻く環境に興味がある人も興味深く読めるだろう。少ない言葉で綴られた、アゴタ・クリストフという亡命作家の人生が垣間見える一冊である。

文盲 アゴタ・クリストフ自伝

文盲 アゴタ・クリストフ自伝

 

追記(2014年10月19日):白水uブックスになっています。

文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)

文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)

 


<読みたくなった本>
トーマス・ベルンハルト『消去』
→「いやしくも物書きを名乗るすべての者の模範」(52ページ)とアゴタ・クリストフが評した、オーストリアの作家。『消去』はみすず書房から出ている数少ない翻訳の一つ。

消去 上

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消去 下

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