閉じた本
先日読んだサラマーゴの『白の闇』から連想して手に取った、盲目の作家を主人公に擁した小説。ペレックの『煙滅』を英訳した張本人でもあるギルバート・アデアの仕事である。
ギルバート・アデア(青木純子訳)『閉じた本』創元推理文庫、2009年。
アデアの名前は知っていたけれど、読んだのは今回が初めてだった。ペレックの『煙滅』刊行とこの本の唐突な文庫化が重なったため、僕と同じ動機で手に取る人も多いのではないか、と思う。
そもそもペレックの小説を英訳したというだけでも、この作家が一筋縄ではいかないことは容易に想像できる。そんな予備知識を持ちつつ『閉じた本』の紹介文を読んだら、どうしたって手に取らざるを得ないだろう。簡単に言ってしまうと、これは失明した作家が口述の為に助手を雇ったものの、だんだんと彼の言っていることが信用出来なくなってくる、という小説である。こんなストーリーを思い付いただけで、この本の成功は約束されているようなものだ。
「四年前、あの惨たらしい事故に見舞われた。スリランカの病院に七か月間はいっていた。その間、いつ果てるとも知れぬ入院生活のあいだに、いろいろ考えさせられた。考えることぐらいしかできないのさ。包帯でぐるぐる巻きにされたありさまときたら、きっとミシュラン・タイヤの人形そっくりだったろうよ」(21~22ページ)
ストーリーの奇抜さもさることながら、文体に大変な特徴のある作品だ。なんとこの小説には「地の文」なるものが存在しない。まるで戯曲かシナリオのように、会話文だけで成り立っている小説なのである。失明というキーワードで共通する『白の闇』が会話文を括弧に括らずに書いていたことを想起すると大変興味深い。目が見えなくなるということは、かくまでも言葉の世界を改変するのである。
「そう、目を失ってよかったことをひとつ挙げるなら、言うまでもなく、目玉を失ったおのれの顔を見ずにすむという点だ。言うなれば、エッフェル塔を揶揄したお馴染みのジョークみたいなものだよ。あれが建てられた当時誰かが、ゴンクール兄弟のひとりだったと思うが、こんなことを言ったんだ――パリの街並みを眺めるにはエッフェル塔の上からが最高だ、あの忌わしい建造物を見ないですむのだから、とね」(24ページ)
「わたしには実際はふたつの眼球が備わっていたのであり、ひとつきりではなかったという事実に立ち至るのだ。内側から見たわたしは、人間の姿をしたキュクロプスだった」(83ページ)
主人公のポールはブッカー賞を受賞するほどの作家だったが、交通事故で眼球を失ったことから小説を書けなくなってしまっていた。彼は四年間の沈黙を経てとうとう執筆を再開することを心に決め、自らの目の代わりになる助手を求める。そこにやってきたのがもう一人の主人公ジョンだったのである。ポールは自伝的回想録を書くためにその内容をジョンに向かって話し、それを受けたジョンは語られた言葉を一言一句変えずにタイプする。これはある部分までは、本が生まれてゆく過程を描いた小説でもあるのだ。作家の発言もその受け答えも気の利いたものばかりで、凄まじいテンポでページが進む。
「リフトというのは――いや、かの地ではエレベーターだったか――人を直立させたまま納める棺桶みたいじゃないか」(36ページ)
「奇妙だ、実に奇妙だ。心穏やかにいられんよ。神が振り出した小切手をいざ換金しようとしたら、不渡りだとわかった、そんな気分だよ」(95ページ)
また、小説や作家の名前が無尽蔵に飛び出してくるのも楽しい。ある程度海外文学に慣れ親しんだ人ならニヤニヤする要素が沢山ある作品なのだ。
「「ところで、コーヒーはどうします? 深煎りでよろしいかどうか。なんでしたらワインでも?」
「いや、駄目だ。コーヒーにしてくれ。もの書きは書く時には飲まないものだ。車だって『乗るなら飲むな』というくらいだからね」
「そうでしょうか? ヘミングウェイはどうでした? チャールズ・ブコウスキーは?」
「ブコウスキーなんてクズだ」
「だったら、ヘミングウェイは?」
「わたしが彼と同類の作家だと思うのかね、ジョン? 肝っ玉が据わっているとでも? ハード・ボイルドかね? 大酒飲み?」
「コーヒーを淹れてきます」」(92~93ページ)
従順に見えていたジョンが平然とほらを吹きまくり、盲人がそれを鵜呑みにしていく過程は泣き笑いを誘う。それが次第に露呈しはじめると今度はどうしてそんなことをしているのかと首を傾げるようになる。異色すぎてこう呼ぶのはいささか気が引けるが、これは一応ミステリーなのだ。ミステリーという性格を前面に出すとこの小説の魅力は半減してしまうが、その要素が本書の疾走感に拍車をかけているのは間違いない。
「どうしてこれほどまでに目が見えなくなってしまったのか?」(240ページ)
ポールの書いている新作は盲目であることの感覚をひたすらに文字化しようとしたものである。その口述の過程にジョンが私見を差し挟むため、話題はどうしても作家論や作品論めいてくる。この文芸評論のような要素も魅力の一つだ。会話文だけで書かれたものがミステリーであって文芸評論でもあるなんて、驚きとしか言いようがない。
「読者が飛ばし読みするような部分というのは、まず間違いなく作者が削るべきところなのだ」(92ページ)
「作家が作家を定義する場合は常に、自分自身を定義することしかできない」(245ページ)
終盤に差し掛かると、この叙述スタイルの恐ろしさに気が付くことだろう。眼球を無くしたポールが見ている世界は、まさしく会話文だけで形成されているのだ。情報源が誰かの発する言葉にしかない世界で、手探りで事態を把握しなければならない。この定義はまさしく『閉じた本』そのものを表わしているではないか。
「何よりもまず、おそらくは、作中で交わされる会話を通して、読者は小説世界の登場人物の人となりを知る。ただし、作者が内的独白という装置を用い、一人称の声音を語りに投げ込む場合に限っては、読者もしかるべき登場人物の、物の見方、気分、動機などを知る特権に与れる」(251ページ)
つまり、盲人にとってみれば世界は地の文を失った小説と変わらないのである。誰かが事態を説明して初めて、盲人と読者は理解することができる。その言葉に信が置けなくなったとき、世界は崩壊してしまうのだ。
「世界は狭いもんだね。とりわけ目の不自由な人にはさ」(257ページ)
思えばホメロスもボルヘスも盲人である。視覚を持たない人びとが置かれている環境と小説を重ねてみると、彼らが言葉を厳密に扱う理由がよく分かるというものだ。二重三重に仕掛けられたややもすると凝りすぎな構成は、不満が残る部分もあるがエンターテイメントとして読んでも十分に面白い。だが地の文を排除することによって全体の不可視性を生み出した、読者を盲人に仕立て上げる技法こそが、この小説の最大の功績だろう。
文学はこうでなくっちゃならない。素晴らしかった。
<読みたくなった本>
アデア『作者の死』
アデア『ラブ&デス』
→作家を主人公としたアデアの他の著作。『閉じた本』がさらりと読めたので、気軽に手を伸ばしたいところ。
ナボコフ『マルゴ』
→「訳者あとがき」に紹介されていた盲人の出てくる小説。古本屋で見つけるのは大変そうである。
井上夢人『もつれっぱなし』
ホセ・カルロス・ソモサ『イデアの洞窟』
→「解説」に紹介されていたものから二冊。前者は会話文だけの小説、後者は構成に大変凝った小説とのこと。「解説」自体はひどかったが、取り上げられた本は面白そう。