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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

移動祝祭日

ヘミングウェイの描いた、まだ二十代だった頃に体験したパリの想い出の数々。最晩年に書かれた遺作にして最高傑作。新訳版。

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

 

アーネスト・ヘミングウェイ(高見浩訳)『移動祝祭日』新潮文庫、2009年。


この本には語り尽くせないほどの想い出がある。存在を知ったきっかけは高校生の頃に僕の人生を徹底的にねじ曲げた、宮下志朗『パリ歴史探偵術』に紹介されていたからで、初めて読んだのは大学一年生の頃、三笠書房版の『ヘミングウェイ全集』第七巻だった。思えばもう六年も前の話だ。その時はこの作品が文庫化されることなど夢にも思っていなかったので、これを読むためだけに全集を一巻だけ購入したのである。それは今でも僕の本棚に収められている。

初めて読んだ当時はこの本の真価には全く気付けなかった。小説のようなエッセイだな、と思いはしたが、ここに登場する多くの人びとの名前を、ほとんど知らなかったのである。彼らの存在が具体化するにつれて、この本を見る目も大きく変わった。ここで描かれているヘミングウェイのいたパリでは、とんでもない異常事態が起こっていたのである。ずっと再読したいと思っていたので、文庫化は思ってもない嬉しい知らせだった。

「その作品の中では登場する少年たちが酒を飲んでいて、私も喉が渇き、ラム酒のセント・ジェームズを注文した。寒い日にはこれが素晴らしくうまい。私はさらに書きつづけた」(16ページ)

若かりし日のヘミングウェイは、パリのカフェで短編を書くのに没頭していた。まだ作家としての地位を確立していない頃、ジャーナリストとしての仕事をしながら、後に第一短編集『われらの時代』に収められることになる短編たちを生み出していたのである。

「短編を一つ書き終えると、きまってセックスをした後のような脱力感に襲われ、悲しみと喜びを共に味わうのが常だった。これはとてもいい作品だという確信があった。が、その真価が本当にわかるのは、翌日それを読み返したときなのだ」(18ページ)

「私はいつも一つの区切りがつくまで仕事をつづけ、いったん切り上げるのはストーリーの次の展開が頭に浮かんだときと決めていた。そうすると次の日も仕事をつづけられる確信が持てたからである」(23ページ)

その頃のヘミングウェイを支えていたのが、ガートルード・スタインであり、エズラ・パウンドであり、シルヴィア・ビーチだった。作家のスタインに作品を読んでもらい、詩人のエズラに語法を教えてもらい、そして書店主のシルヴィアに本を貸してもらっていたのである。スタインが開いていたサロンにはヘミングウェイの他にもエズラとその友人であるT・S・エリオットや、フィッツジェラルドアポリネールジャン・コクトーなどの作家、ピカソやブラックやマティスなどの画家、その他にも多くの芸術家が出入りしていた。この頃にスタインがヘミングウェイに向かって言った言葉は有名である。

「「あなたたちがそれなのよね。みんなそうなんだわ、あなたたちは」ミス・スタインは言った。「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。あなたたちはみんな自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)なのよ」」(48ページ)

ヘミングウェイフィッツジェラルドに代表される「ロスト・ジェネレーション」という言葉は、ここから生まれたのである。しかし、最初にそう言われたヘミングウェイは反感を漏らしている。

「だいたい、どんな世代にも自堕落な部分はあるのだ。これまでもそうだったし、これからもそうだろう、と私は思った」(50ページ)

「でも、ロスト・ジェネレーションなんて彼女の言い草など、くそくらえ。薄汚い、安直なレッテル貼りなどくそくらえだ」(51ページ)

ガートルード・スタインのサロンに集まっていた人びとの顔ぶれを眺めると、驚きは禁じえない。このメンバーがひとつところにいた、という事実だけでも衝撃的なのに、1920年代のパリはそれだけではないのだ。

「シルヴィアは生き生きとした、彫りの深い顔立ちをしていた。茶色の目は小動物のようによく動き、少女のそれのように活気があった。ウェイヴのかかった茶色の髪は、秀でた額から後ろに撫でつけられており、耳の真下、いつも着ている茶色いビロードのジャケットの襟の線でふっさりとカットされていた。とても脚のきれいな人で、優しく、快活で、何事にも関心を持ち、ジョークを交わしたり、人の噂話をしたりするのを好んだ。知人たちのなかで、彼女くらい私に親切にしてくれた人はいない」(55~56ページ)

シルヴィア・ビーチの経営した「シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店」は在仏アメリカ人たちのオアシスのような存在だったという。ヘミングウェイは初めてこの店を訪れた時に、本の貸し出しを受けるための会員登録に必要な額を支払うことができなかった。しかしシルヴィアは規則を無視して沢山の本を彼に貸し与えてくれたのである。彼のロシア文学の知識は、シルヴィアの貸本によって培われたものだ。

「まだパリにやってくる前、トロントにいた頃、キャサリンマンスフィールドはいい短編作家だ、いや偉大な短編作家だとすら聞かされていた。けれども、チェーホフのあとで彼女の作品を読むと、優れた純朴な作家でもある明晰で世故に長けた医師の作品と比べて、若いオールド・ミスが注意深く織り上げた人工的な物語を聞かされる観があった。マンスフィールドは低アルコール・ビールのようなものだった。水を飲むほうがまだマシだ。その点、チェーホフは水のように澄んではいるものの、水ではなかった。ジャーナリスティックな文章としか思えない作品もあったが、素晴らしい作品もあった」(184ページ)

シルヴィア・ビーチのことを説明した箇所の「訳注」は感動的である。

ヘミングウェイは無名の自分に寄せてくれた彼女の好意を多として、終生彼女に敬意を抱きつづけた。第二次大戦の末期、1944年8月、パルチザンの一隊と共にパリに入ったヘミングウェイが最初に目指したのも、ビーチとシェイクスピア書店の“ナチスからの解放”だった」(「訳注」より、61ページ)

第二次大戦の「パリ入城」の際に、ヘミングウェイがどれほど速く市内へと入っていったかはロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』に書いてあった。あの時彼が急いでいた理由はこのシルヴィア・ビーチにあったのだ。

シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店」の名を一躍有名にしたのはジェイムス・ジョイスだった。あらゆる出版社から拒否された『ユリシーズ』は、シルヴィア・ビーチの手によって刊行されたのである。1922年のことだった。ヘミングウェイがパリを訪れるのはその直後のことである。ジョイスはエリオットやラルボーとも交遊しており、『フィネガンズ・ウェイク』の準備をしていた。『フィネガンズ・ウェイク』の執筆に協力した逸話があるサミュエル・ベケットも、ひょっとしたらその場にいたのかもしれない。ヘミングウェイもジョイスと知り合う機会があり、こんな文章も生まれた。

「私たち夫婦にとって、ミショーは胸躍る、財布に響くレストランだった。そこは当時、ジョイスがよく家族連れで食事をしているレストランでもあったのである」(83ページ)

「それからだいぶたったある日のこと、私はサン・ジェルマン大通りを歩いてくるジョイスとばったり出会った。彼は一人でマチネーにいってきたところだった。目が悪くて俳優たちの姿は見えなくとも、そのセリフを聞くのが彼は好きだったのだ。一杯付き合ってくれ、と言われたので、私は彼と一緒にドゥー・マゴに入った」(181ページ)

「ジョイスとばったり出会った」なんて、さらりと書かないでほしい。1920年代のパリは恐ろしい都である。しかし、これだけでもまだ書き終わらないのだ。『移動祝祭日』に語られていることではないが、彼らが立ち寄ったカフェ「ドゥ・マゴ」にも大いなる伝説がある。ドゥ・マゴと言えば、レーモン・クノーが第一回受賞者となった「ドゥ・マゴ文学賞」が生まれたカフェである。クノーに与えるためだけにこの賞が創設されたのは1930年代のことだが、この頃からクノーがドゥ・マゴにいた可能性は高いのではないだろうか。彼に賞を与えたメンバーはバタイユやミシェル・レリスらである。そう、この三人の結びつきは、1920年代のシュルレアリスム運動と関わったものでもあるのだ。アンドレ・ブルトンポール・エリュアールルイ・アラゴン、ロベール・デスノスらの名前も浮かんでくる。トリスタン・ツァラがスイスからパリに拠点を移したのも1920年のことだ。ここに名前を挙げた全員が、パリにいたのである。まったくもって、天国のような場所ではないか。いや、彼らが生み出した作品を見ると、地獄と考えたほうが近いかもしれないが。

ガートルード・スタインのサロン、シルヴィア・ビーチの書店、そしてシュルレアリスム運動。世界に影響を与えた作家たちが、同じ時に同じ場所にいた、というのは想像するだけでも楽しい。これだけの逸材が揃った都市など、他には考えられないのではないだろうか。『移動祝祭日』で描かれるものが断片にすぎないというのは、この本に登場してくる膨大な数の芸術家たちを思うと、ただただ驚愕でしかない。

「「価値のあるフランスの本は、どうやって見分けるんだい?」
 「まず、挿絵があるかどうかね。それから、その挿絵がいいものかどうか。それから、装丁の問題もあるわ。もしいい本だったら、持ち主はきちんと装丁させるでしょう。英語で書かれた本は例外なく装丁されてるけど、仕上がりがお粗末だわね」」(65ページ)

「いまの時代にいちばん欠けているのは、野心をまったく持たない書き手と、本当に素晴らしい、埋もれたままの詩だと思うんだ。もちろん、どうやって暮らしていくかという問題もあるけどさ」(203ページ)

この作家に溢れた都市でヘミングウェイ本人に払拭しがたい衝撃を与えたのがスコット・フィッツジェラルドである。ヘミングウェイはこの本の三章を費やしてフィッツジェラルドのことを書いている。そこにいたのは『グレート・ギャツビー』を出版して間もないフィッツジェラルドだった。

「初めてスコット・フィッツジェラルドに会ったときは、実に奇妙なことが起きた。スコットにまつわる奇妙な出来事は枚挙にいとまがないのだが、このときの一件だけは長く忘れることができなかった」(205ページ)

フィッツジェラルドは変人である。ヘミングウェイは初めから彼のおかしさに気付いているのだが、その抗いがたい魅力に惹かれ、結局は生涯の友情を結ぶこととなる。「スコット」と「アーネスト」が二人して行ったリヨン旅行は、奇妙なことこの上ない。

「概して頭のおかしい男には腹が立たないように、スコットにも腹は立たない。けれども私は、こういう馬鹿馬鹿しいことにかかずりあった自分自身に対して、腹が立ってきていた」(233ページ)

グレート・ギャツビー』を読むことのないままフィッツジェラルドの友人となったヘミングウェイは、しばらくして彼からこの傑作を借りて読み、衝撃を受けることになる。以下は『グレート・ギャツビー』の初版がどのような装幀をしていたかを窺うことができる貴重な文章だ。

「その旅から一日か二日して、スコットが自分の本を持ってきてくれた。その表紙のカヴァーたるや、実にけばけばしかった。殺伐として悪趣味な、安っぽいその絵柄に辟易したことを覚えている。俗っぽいSFの本のようなカヴァーだった。カヴァーは気にしないでくれ、とスコットは言った。それは作品の中で重要な役を担っている、ロング・アイランドのハイウェイ沿いの立て看板と関連があるのだという。自分はそのカヴァーが好きだったんだが、いまはそれほどでもなくなった、と彼は言った。私はカヴァーをとりはずして、その本を読みはじめた」(249~250ページ)

フィッツジェラルドの登場する三つ目の章の美しさには、涙が出そうになった。第二次大戦後にパリを再訪したヘミングウェイが、バーの主任からフィッツジェラルドのことを聞かせて欲しいと頼まれるのだ。「みんな死んでしまったからな、いまや」と答えるヘミングウェイは、当時の美しさを想い起こしていたに違いない。

1920年代に起きたことを晩年になって回想しているのだから、事実とそぐわない点もいくつかあるという。しかしここにある息づかいは、まず間違いなくヘミングウェイが一人で生み出せるようなものではない。そこにあったのはまだ書かれる前の、生きた文学史だったのである。

「パリはとても古い街であり、私たちはまだ若く、そこでは何一つ単純なものはなかったのである」(85ページ)

世界中の芸術家がこぞって集結した、1920年代のパリ。それがどんなに素晴らしい世界だったか、垣間見ることが出来る一冊である。それぞれの作家の伝記を読めば、新しい発見がどんどん増えることだろう。地上に存在したとは思えない、楽園の縮図である。

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

 


<名前の挙がる芸術家たち>
ガートルード・スタイン、アリス・B・トクラス、オルダス・ハックスリー、D・H・ロレンス、マリー・ベロック・ラウンズ、ジョルジュ・シムノン、ジャネット・フラナー、ロナルド・ファーバンク、スコット・フィッツジェラルド、シャーウッド・アンダスン、ジェイムス・ジョイス、エズラ・パウンドギヨーム・アポリネール、T・S・エリオット、シルヴィア・ビーチ、ヴァレリー・ラルボー、レオン=ポール・ファルグ、フォード・マドックス・フォード、ポール・フォールブレーズ・サンドラール、ヒレア・ベロック、アレスター・クロウリー、フランシス・ピカビア、ナタリー・バーニー、レミー・ド・グルモン、パブロ・ピカソ、アーネスト・ウォルシュ、エドガー・アルバート・ゲスト、エヴァン・シップマン、ラルフ・チーヴァー・ダニング、マイケル・アーレン、ゼルダフィッツジェラルドアーチボルド・マクリーシュ、ジェラルド・マーフィ、イサク・ディーネセン、ジョン・ドス・パソスなどなど。

<読みたくなった本>
■登場人物たちの著作
ヘミングウェイ『われらの時代』

われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)

われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)

 

シャーウッド・アンダスン『ワインズバーグ・オハイオ

ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)

ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)

 

T・S・エリオット『荒地』

荒地 (岩波文庫)

荒地 (岩波文庫)

 


1920年代パリを知るために
追記(2014年10月20日):現在の刊行物に照らし合わせると同時に、いくつか書籍を追加しました。

シルヴィア・ビーチ『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』

シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店 (KAWADEルネサンス)

シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店 (KAWADEルネサンス)

 

アドリエンヌ・モニエ『オデオン通り』

オデオン通り---アドリエンヌ・モニエの書店 (KAWADEルネサンス)

オデオン通り---アドリエンヌ・モニエの書店 (KAWADEルネサンス)

 

ガートルード・スタイン『パリ フランス』

 ガートルード・スタイン『アリス・B・トクラスの自伝』

ルノー・オフマルシェ『ドゥマゴ物語』

ドゥマゴ物語-ある文学カフェの年代記

ドゥマゴ物語-ある文学カフェの年代記

 

ブルトン『性についての研究』

性についての探究

性についての探究

 

クノー『オディール』

オディール

オディール

 

ヘミングウェイフィッツジェラルド往復書簡集』

ノエル・R・フィッチ『シルヴィア・ビーチと失われた世代』

シルヴィア・ビーチと失われた世代―1920,30年代のパリ文学風景 (上巻)

シルヴィア・ビーチと失われた世代―1920,30年代のパリ文学風景 (上巻)

 
シルヴィア・ビーチと失われた世代―1920,30年代のパリ文学風景〈下巻〉

シルヴィア・ビーチと失われた世代―1920,30年代のパリ文学風景〈下巻〉

 

ウィリアム・ワイザー『祝祭と狂乱の日々』

祝祭と狂乱の日々―1920年代パリ

祝祭と狂乱の日々―1920年代パリ

 


■言及のあった書物
スタンダール『パルムの僧院』
→「スタンダールの『パルムの僧院』を読むまで、私は、トルストイの作品を除いて、ありのままの戦争を描いたものを読んだことがなかった」(185ページ)

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)

 
パルムの僧院〈下〉 (新潮文庫)

パルムの僧院〈下〉 (新潮文庫)

 

ディーネセン『アフリカの日々』
ノーベル文学賞を受賞した際、ヘミングウェイはこの賞がディーネセンに与えられることを望んだらしい。

アフリカの日々 (ディネーセン・コレクション 1)

アフリカの日々 (ディネーセン・コレクション 1)