知識人とは何か
ジュンク堂書店新宿店で実施している「ディアスポラ文学フェア」から抜き出してきた一冊。有名なタイトルながらも未読だったので、良い機会を与えてもらったと思い読んでみた。
- 作者: エドワード・W.サイード,Edward W. Said,大橋洋一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1998/03
- メディア: 単行本
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エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社ライブラリー、1998年。
まず、この「知識人」という言葉は「インテリ」といった言葉と同様に、学術的にはマイナスのイメージしかない。思い出されるのは過去に論文を書いたときのことで、私はこのことを知らずに安易に「知識人」という言葉を用いて、指導教官から叱責されたのである。その文脈では彼らを批判したかったわけではなかったので、論文の中に出てくる「知識人」という言葉は全て「知的エリート」に置き換えた。これが言葉で語る以上に煩雑な作業だったことは言うまでもない。
「「知識人」(intellectual)という語は、「象牙の塔」とか「木で鼻をくくる」といったイメージとむすびついてきた。このあまりかんばしくない連想を、いまは亡きレイモンド・ウィリアムズもその著『キイワード辞典』で強調している。「二十世紀なかばまで、<知識人(intellectual)>や<主知主義(intellectualism)>や<インテリゲンチア(intelligentsia)>の用法は、好ましからざるものという暗示をともなって英語に君臨しつづけてきた」と述べるウィリアムズは、さらにこうつづける。「そして、そのような用法は、あきらかに、いまもなお残っている」と」(12~13ページ)
何故「知識人」という言葉にこれほどまでの負の要素が付着してしまったのか、そのときからずっと考えていた。だが、この言葉の発する衒学的な響きに慣れてしまうと思考は止まり、与えられていると思われる意味を掘り下げることをしなくなる。何故「知識人」という言葉には衒学的な響きがあるのか。この感覚はどこからくるものなのか。論文を書いたときのあの面倒な作業は、一体何のためのものだったのか。
「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」(20ページ)
ここで論じられる「知識人」とは大学教授や政治家といった職業的なものではなく、もっと普遍的な意味合いでの、個人としての「知識人」である。確かに大学教授や政治家は「知識人」として語られることが多いけれども、それを職業集団に適用しようとすると大きな間違いが生じる。「知識人」とはあくまでも個人として登場しなければならないのである。
「政府が、確保すべく奔走しているのは、政府を指導する知識人ではなく、政府の下僕となってはたらく知識人である。この種の知識人たちは、政府の政策を支援し、敵対勢力を非難するプロパガンダ活動を展開し、韜晦と婉曲語法を駆使し、もっと大がかりになると、オーウェル的な<ニュースピーク>の全システムを動員するだろう」(31ページ)
「個々の知識人、たとえば編集者や著者、軍事戦略家、国際弁護士などは、同じ分野の専門家のあいだですでに専門用語化し、仲間うちだけで使われるようになった言語をしゃべったり、その言語で交渉するようになる。専門家は、おたがいに<共通語(リングア・フランカ)>でしゃべるようになる。だが、この<共通語>は、専門家ではない人間には、おおむね、ちんぷんかんぷんなのである」(35ページ)
職業集団が「知識人」として登場するとき、彼らは一群の専門家として専門用語を用い、専門家としての資格を持たない論客を徹底的に排除する。「専門家」であるということは、ある事柄に長じていると公的に権威付けされている証である。つまり「専門家」と名乗る資格は上から与えられるものであって、その名前には言説の規制が含まれているのだ。権威にとって都合の良い論者だけが「専門家」として登場することができ、不都合な人物はまさしく「専門家」でないという理由で論壇から排除される。専門用語とは外からの思想を排除するために練り上げられるもので、それはまさにオーウェル的なニュースピークの様相を呈する。門外漢として何かの分野を学ぼうとすると、専門家たちの語る言葉を理解できないことが多いが、実際にはそれほど難解なことを語っているわけではないということがままある。語られる内容は平易なのに、語り口だけは難解なのだ。これこそまさに最悪の衒学趣味ではないか。
「知識人とは、あくまでも社会のなかで特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔のない専門家に還元できない、つまり特定の職務をこなす有資格者階層に還元することはできない」(37ページ)
知識人を標榜する者は、決して専門家になってはならないのだ。アマチュアの地平に立った愛好こそ、目指すべき立場である。
「知識人のサークルが、ひとたび、同好会グループの枠を超えて拡大すると――べつの言葉でいえば、聴衆をいかに喜ばせるか、いかに資金援助者におもねるかという配慮ばかりが優先されてしまい、たがいに議論したり自由に判断するという知識人どうしの交流が失われるなら――、まちがいなく、知識人の使命のなかの何かが、破棄されることはないまでも、歯止めをかけられてしまうのである」(114~115ページ)
「文学の専門家であるということは、往々にして、歴史や音楽や政治にはまったく疎いという意味になる。そして、いよいよ専門知識をたっぷり仕込まれた文学知識人にでもなろうあかつきには、あなたは、ただただ従順な存在となり、文学研究の分野における領袖(リーダー)と呼ばれる学者たちの顔色をうかがい、彼らのお気に召さないらしいものを、すべて排除してしまう。あなた自身の感動とか発見の感覚は、人が知識人となるときには絶対に必要であるというのに、専門的知識人になると、すべて圧し殺されてしまう。そして最後に、わたしがつねづね感じていることだが、専門家という地位を確保するためにすべてを犠牲にした結果、自発性の喪失が起こり、他人から命じられることしかしなくなる。自分の専門だからしかたがないというわけだ」(128ページ)
知識人は権威に従事してはならない。それはつまり、権威のあると一般に信じられている人びとに対して絶えざる批判を展開していくということだ。「迎合するまえに批判せよ」(68ページ)というサイードの言葉は輝いている。生田耕作の「少数者が常に正しい」という姿勢こそ、知識人の守るべきものなのだ。
「わたしが使う意味でいう知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間であり、なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。ただたんに受け身のかたちで、だだをこねるのではない。積極的に批判を公的な場で口にするのである」(54ページ)
権威から離れた地平に立つということは、アウトサイダーとして生きていくことを甘受するということでもある。ここで亡命が関わってくる。サイードの言葉としての「亡命」は、アウトサイダーであり続けるという意味での比喩的なものとしても現れる。
「亡命という状態は、現実の状況であると同時に、わたしの論点にひきつければ、比喩的なものであるということだ。つまり、亡命知識人に関するわたしなりの判断は、今回の話の冒頭で語ったような離散と移住という社会史的・政治史的観点から引き出されたものだが、それだけではないということである。亡命など経験せず、ひとつの社会で一生暮らす知識人たちも、いうなればインサイダーとアウトサイダーにわけられる」(92~93ページ)
だが、文字通りの亡命をせざるを得なかった人びとが、知的分野においてどれほど長けていたか、一般論で語ることはできないが考えてみる必要はある。私がまず思い起こすのはミラン・クンデラだ。彼は一体何度、自分の考えを修正する必要に迫られたことだろう。
「亡命者になれば、これからはずっと周辺的な存在である。亡命知識人の場合には、あらかじめ決められた道をたどることができないため、自分でおこなうことすべてを、ゼロからはじめなければならない」(107~108ページ)
「追放/亡命の身になることは、生まれ故郷から完全に切り離され、孤立させられ、絶縁状態になることと一般に考えられているが、これはまちがった考えかたである。そのように、まるで外科手術的にすっぱりと切り離せるものなら、あとに残してきたものを思い出すことも、とりもどすこともできないとあきらめがつくわけだから、すくなくとも慰めにはなる。ところが実際には、ほとんどの追放者/亡命者にとってなにがこまるかといえば、故郷を遠く離れて暮らさねばならないということよりも、むしろ、今日の世界では、自分が追放/亡命の身であることを、いやでも思い知らされるおおくのものに囲まれて暮らさねばならないということなのだ」(87ページ)
これはクンデラで言えば特に『無知』において、アゴタ・クリストフだったら特に『文盲』において執拗に語られていることだ。「追放/亡命の身」であることを絶えず意識させられる生活は、圧倒的な寂寥感を伴いながらも彼らの立ち位置を中心とは隔たったものとし、比肩するもののない特殊な作品を生み出すことに一役買っている。それはアドルノの語る「統制されえぬもの」である。
「アドルノの考えによれば、生活は集団的になることで、その虚偽の極致に達する――全体はつねに非真実であると、アドルノは語っていた。そして、そうであるがゆえにと、アドルノはこうつづけている。主観性に対して、個人の意識に対して、また全面管理社会内部における統制されえぬものに対して、自分は大きな優先価値をおくのだ、と」(97ページ)
文学の話との関連として、サイードは「知識人」の登場する文学を三作品紹介してくれている。亡命がこれほどまでに一般化してしまうより前の時代でも、アウトサイダーは常にそこにいて、発言していたのである。
「近代の公的な生活を、職業生活としてあるいは社会学研究の原材料としてみるのではなく、あたかも小説や芝居の一場面であるかのようにみると、そこからただちにみえてくるのは、知識人が、潜在的もしくは大規模な社会運動の代弁者というにとどまらず、まさに知識人ならではといえるような、周囲と摩擦を起こしそうな一風変わったライフ・スタイルの代表者でもあるということだ。そして、そうした知識人の役割がはじめて記述された場所を探すのに、十九世紀や二十世紀初頭の特異な小説ほど適した場所はないだろう。たとえば、ツルゲーネフの『父と子』、フロベールの『感情教育』、ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』――こうした小説のなかでは、社会的現実の表象を大きくゆさぶり、それを決定的とさえいえるくらいに変えてしまうような、新たな役者が舞台に突如登場する。近代の若き知識人たちである」(41~42ページ)
この中で既読がツルゲーネフの『父と子』だけだったというのが悔やまれるが、大いに興味を掻き立てられた。折しもジョイスは丸谷才一訳が刊行されたばかりだし、フロベールも河出書房が文庫化したばかりだ。そこに天啓すら感じる。
「若者が家族のなかで成長をとげ、学校や大学に進むという、ごく普通の物語としてはじまる小説は、ゆるやかに解体し、最後はスティーヴンの日記からの一連の抜粋で終わる。知識人は家庭になじまないばかりか、月並みな日常にもなじまない」(46ページ)
後半になると議論は政治の領域へと向かう。政治に疎い私でも、ここで語られていることが単純な社会の動きに対する批判ではないことは理解できる。そこには常に世論を動かす者(中心)がいて、批判の声を挙げている者(周縁)がいるのだ。
「原住民の側にたつ知識人の目標は、白人の政治家の後釜に原住民の政治家をすえることだけではない。むしろファノンがエメ・セゼールから借りてきた表現を使うなら、新しい魂の創出こそ、目標となるべきなのだ。いいかえると、なるほど知識人が民族存亡の危機に瀕した共同体を支援することには、測り知れない価値があるにしても、知識人が生存のための集団闘争に忠誠をつくすことは、批判的感覚の麻痺や、知識人の使命の矮小化につながりかねないので避けるべきなのだ」(79ページ)
「ある民族が土地を失ったとか、弾圧されたとか、虐殺されたとか、権利や政治的生存を認められなかったと主張しても、同時に、ファノンがアルジェリア戦争でおこなったことをしないかぎり、つまり自分の民族をおそった惨事を、他の民族がこうむった同じような苦難とむすびつけないかぎり不十分である」(83ページ)
権力に抗するということは支配的な言説に異を唱えることと同義である。周縁から行われる批判のみが常に正しく、少数者が常に正しいのだ。「たとえ奴らが七億九千五百万人で、僕のほうは一人ぼっちでも、間違っているのは奴らの方さ」というセリーヌの言葉を忘れないでおこう(『夜の果てへの旅』より、上巻105ページ)。
「ほんとうに現代の知識人――とはつまり、客観的な道徳規範とか、賢明な権威と思われていたものがすべて消滅し混迷をきたしている時代に生きる知識人ということだが――にとって、自国のやりかたならこれを無批判に支持して、自国の犯罪行為に眼をつぶるか、さもなくば、「どこの国でもそれをしていると思うし、それが世界のやりかたではないか」とたかをくくってしまうというふたつの選択肢しかないのだろうか。むしろ、わたしたちはこう要求すべきではないか。知識人とは、きわめて偏った権力にこびへつらうことで堕落した専門家として終わるべきではなく――これまで語ってきたことのくりかえしになるが――、権力に対して真実を語ることができるような、べつの選択肢を念頭におき、もっと原則を尊重するような立場にたつ、まさに知識人たるべきではないか、と」(155~156ページ)
「すべてのテロ行為と急進派運動からの自由、それも、弱くいじめやすい少数派に対してだけテロ行為と過激派の汚名をきせるのではなく、いかなる集団のテロ行為や急進派運動に対しても、それを批判し、そこから自由であるべきことを提唱しなければならないのである」(163ページ)
知識人の公的な転向を目撃するときには、何故それが公的に行われているのかを考えなければならない。権力は常に彼らを脅かし、方向性を転換させようと誘惑してくるのだから。転向が公的に行われるということは、それを人びとに見せることの効果を権威筋が期待しているということである。
「転向と変節には一種独特の不快な美学があること、また、個人的レヴェルで考えるとき、体制へのにじり寄りと背信行為とをおおやけにすることが知識人のなかに一種のナルシシズムと露出趣味をうみだすこと、そして、そのようなナルシシズムと露出趣味は、知識人が、みずから奉仕すべき集団とか社会過程といったものとの接触を失ったことのあかしであるということだ」(179ページ)
「いかなる種類の政治的な神であれ、わたしはこの神に改宗・転向したり、この神を崇拝することには断固反対である。転向も崇拝もともに、知識人の行動にふさわしくないと考える」(174ページ)
批判精神を培うためにどんなことができるのか、考えてみる必要がある。視座を変えて物事を見つめるためには、どんなことをしなければならないのか。サイードのような著作家は残念ながら本当に稀有だが、彼のようなアウトサイダーこそが人びとを導く指標となるべきなのだ。だが、サイードの論旨は彼を無条件に肯定することすら拒んでしまう。孤独な位置に立って、自分で考えなければならない。読者はそう要求されているのだ。
「いっぽうの側を善であり、もういっぽうの側を悪と決めつけるような分析は、真の知的分析においてはつつしむべきなのである」(189ページ)
「知識人の活動の目的は、人間の自由と知識をひろげることである」(47ページ)
発せられるメッセージには常に何らかの目的があり、表面的なものに隠された真意こそが知識人の見つめるべきものである。迎合するまえに批判せよ。この言葉は、本当に輝いている。
「二十世紀の偉大な作家ジャン・ジュネがかつて述べたように、自分の書いたものが社会のなかで活字になった瞬間、人は、政治的生活に参加したことになる。したがって、政治的になるのを好まないのなら、文章を書いたり、意見を述べたりしてはならないのである」(175ページ)
「知識人がいだく希望とは、自分が世界に影響をおよぼすという希望ではなく、いつの日か、どこかで、誰かが、自分の書いたものを自分で書いたとおりに正確に読んでくれるだろうという希望なのだ」(99~100ページ)
刺激的な本だった。この本を「ディアスポラ文学フェア」から抜き出したことを思い出して、今、愕然としている。このフェアの選書は、紛れもなく周縁に立つアマチュアな知識人に依るものだった。
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