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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

感情教育

サイードが『知識人とは何か』の中で紹介していた「知識人を扱った小説」の最後の一冊。ツルゲーネフ『父と子』とジョイスの『若い藝術家の肖像』を越えて、ようやくこのフロベールの『感情教育』に辿り着いた。

感情教育 上 (河出文庫)

感情教育 上 (河出文庫)

 

ギュスターヴ・フロベール(山田ジャク訳)『感情教育』上下巻、河出文庫、2009年。


知識人を追い続けて早一ヶ月が経った。「追い続けて」と言っても実際は二冊の古典作品を読んだだけだが、この二冊が人に与えうる衝撃を考えると、あまりにも濃密な一ヶ月間だったと言えるだろう。

バザーロフとディーダラスを経て、登場したのはフレデリック・モローという名の青年だった。青年がパリから故郷へと向かう船の上で物語は始まり、ちょうど『若い藝術家の肖像』のように、これから主人公が成長していく過程が描かれていくんだろうな、という予感にすぐさま包まれる。美しき人妻アルヌー夫人に一目惚れしてしまうフレデリックの姿はフランス文学系譜を感じさせ、『肉体の悪魔』『赤と黒』、そしてもちろん『ボヴァリー夫人』の世界観が自然と匂い立ってきた。

ところで、サイードが紹介していたこの小説に登場する知識人は、フレデリックだけではない。そこにはデローリエの名前もあった。フレデリックの同郷の親友デローリエは、物語冒頭から登場し、彼がこの小説においていかに重要な役割を果たすことになるか、随分と早い段階で読者に示されている。ところが予想された彼の立ち位置はすぐさま他の登場人物たちに飲み込まれていく。実際、『感情教育』の登場人物の数は恐ろしいほど多い。だがその誰もが主役級とも言える個性をそれぞれ保有しているため、混同するようなことは決してないだろうと言い切ることが出来るのが、フロベールの素晴らしいところだ。

「外面的真実を顧慮するなど、まさに現代の低劣さの証しです。このままゆくと芸術なんてものは詩美の点では宗教に劣り、興味の点では政治にも及ばぬ子供だましになっちまうでしょう。芸術の目的――そう、真の目的とは、われわれの心に個性を絶した感動を生ぜしめることにあるんだが、この目的はとうてい達せられやしません。今どきの小手先の細工ばかり凝らしたちゃちな作品なんかじゃ、とても、とても!」(上巻、81ページ)

「思想なくして偉大なく、偉大なくして美なし! オリュムポスは山だ! 人類最高の記念碑は未来永劫ピラミッドだ! 豊饒は趣味にまさり、砂漠は歩道にまさり、蛮人は床屋にまさるんであります!」(上巻、81ページ)

フレデリック、デローリエ、アルヌー夫人、その夫であるアルヌー、さらにセネカル、ペルラン、デジャンバール、デュサルディエ、ロザネット、ダンブルーズ氏、ダンブルーズ夫人、ルイーズ、ユソネ、シジー、マルチノンなどなど、誰もが自身の政治観を持ち審美学を持っている。そのドストエフスキーディケンズのような多声性(ポリフォニー)のオーケストラの中で、それぞれの人物が自分の理論を戦わせていく。

「芸術はすべからく大衆教化を目指して専心すべきだ。有徳の行為に人心を向かわしむべき主題のみ表現の価値がある。爾余は害あって益なし!」(上巻、88ページ)

「ペルランは怒りに口ごもったが、それではどうだとばかり、
 「モリエールは? 認めるかね?」
 「立派です!」とセネカルは答えた。「フランス革命の先駆者として尊敬しています」
 「へえ、革命ね。芸術がどこにある? 史上最低の時代だ!」
 「最高の、です!」」(上巻、89ページ)

だが、あくまでも視点はフレデリックの立つ場所に定まっている。膨大な登場人物たちの持つ膨大な思想を見聞きしながら、彼は自分自身の立ち位置を次第に策定し、そして修正していくのである。同じくパリに出てきているデローリエも変化を遂げ、気がつくと二人の関係は変貌してしまっている。読者が最初に感じた二人の親密な関係はいつしか瓦解していて、交歓の果てに生まれた距離が彼らを互いに遠ざけてしまっているのだ。予期された未来が基盤から揺らいでいることに思い当たると、二人の辿る道が今後交錯するとは思えなくなってしまう。

「青年はおのれの若さがただもう腹立たしくて、やきもきしていた」(上巻、83ページ)

フレデリックもデローリエも他の登場人物たちも親切心や必要に駆られてどんどん態度を改める。交友関係が変化し、言説も変化し、人柄も変わっていく。フレデリックの場合、それが特に顕著に表れるのはアルヌー夫人との関係においてであろう。フランス文学の伝統ともいえる禁じられた姦通が、フレデリックの感情を、つまり彼の生活そのものを支配し、規定していく。

「彼女をじっと見ていると、強すぎる香水を嗅ぐときのように、けだるい無気力感におそわれる。それは彼の体質の奥底にまで浸透し、ほとんど目に触れ耳に聞くすべてを一律に染め、新たな一つの生き方を決定するかのようだった」(上巻、116ページ)

「畢生の大恋愛と思ったものも、これで終わりだと観ずる。さて、もう一つの恋、浮き浮きと手軽な恋は今ここにある! だが、もう疲れた。せめぎあうさまざまな欲望に心を引き裂かれ、なにがしたいのか、それすらもうわからなくなって、際限ない悲しみと、死にたい思いだけとなった」(上巻、356ページ)

ところがここでも、予想された姦通小説の構造が虚像であることに気付かされる。あまりにも貞淑なアルヌー夫人と、同じくあまりにも純粋なフレデリックの二人の間には姦通が芽生える土壌が存在しないのである。工藤庸子の「解説」によると、この『感情教育』は「プラトニック・ラヴ」の典型として称揚されることが少なくないそうだ。確かに二人の関係にのみ焦点を当てればそういう読み方も出来ないことはないのかもしれないが、一読すればそれが馬鹿げた発想であることにすぐさま気がつく。デローリエとの関係が読者の予想に反して乖離していったのと同様に、ここでも我々はフロベールに鮮やかに裏切られるのだ。叶わぬ恋心はフレデリックの心を蝕み、彼の感情はさらなる発展を遂げる。

「勉学の静かな明け暮れがしだいに心を落ち着けた。他者の人格のうちに没入することで自己を忘れることができた。自己にかまけて悩む者にはこれがおそらく唯一の救いなのだ」(上巻、318ページ)

「たとえ、義務や宗教をないがしろにする女でも、当たり前の良識さえあれば、それで安心なのよ。わが身かわいさが結局、思慮分別の確かな基なのね」(上巻、344ページ)

パリの華やかな風景はフレデリックの孤独を耐え難いものへと変貌させるのである。彼の関心は移り、友人たちの顔ぶれも変化する。そこでは新たな政治的意見や関心が彼を待ち受けており、それに対する賛同と反感がフレデリックの立ち位置を揺さぶりにかかる。

「農業保護の政策がもっと行き届いていたら、そしてすべてが自由競争と無秩序に、あの嘆かわしい《為すに任せ、通るに任せよ》の原則にゆだねられていなかったら、こんな不祥事も起こらなかったろうに! かくして往古のそれよりもさらに呪うべき金銭の封建制が醸成されたのだ」(上巻、231~232ページ)

「ときにだね、きみ、ひとつの意見をやっつけようと思ったら、私見によれば、その最も公平でしかも強力な手段は、こちらがぜんぜん意見をもたないことだよ」(上巻、302ページ)

フレデリックの過ごすパリの景色は1840年から1867年までのもので約30年間に渡っているが、物語の中心となるのは1848年の二月革命前後である。政治的な混乱は人びとに思想と声を与え、実にさまざまな「主義」が横行している時代が描かれている。その証拠に、フレデリックが赴く先々で耳にする政治家の名前が同じであることはほとんどない。

「もしきみがポーランドを悼んでミサを誦したり、死刑執行人だったドミニコ修道会の神はまさか拝まぬにせよ、インテリア・デザイナーばりのロマン派の神を崇めたりする気なら、つまりは早い話が、もしきみが絶対なるものについて、ご先祖さまよりいちだんと広義の観念を有していないとすればだ、きみの共和主義のうわべの下から君主制がちらほらと見えるってことになるだろうし、せっかくの赤い革命帽も坊主のお椀帽と選ぶところがあるまいということさ」(上巻、303ページ)

「座に居合わせた人たちの大部分は少なくとも四つの政体に仕えてきたのだ。自己の財産の保全のため、自分が辛い思いや厄介事をまぬかれるためなら、いや、なんのためといわず、ただの卑屈さから、権力への本能的な盲従から、祖国はおろか人類までも恬として売ったであろう。この御仁たちがいっせいに政治犯だけは絶対に許せないとのたまった。窮し渇しての犯罪ならばむしろ許せる! かくて、一家の父親がおきまりのパン屋から、おきまりのパンの一切れを盗むという、おきまりのたとえが引かれた」(上巻、412ページ)

1848年の革命による王制の廃止から生まれる第二共和政が、1852年になって第二帝政に覆されたのは歴史の教科書に載っている通りだ。この4年間がどれだけ政治的に激動の時代であったかは想像に難くないが、それが一人一人の声として響き渡るときの現実味は想像を遙かに凌駕する。この小説が刊行されたのは1869年、つまりフロベールはこれを現代小説として世に問うたのである。「歴史研究者必読のフィクション」という評判は伊達じゃない。そういえば私は歴史研究を専門にしていたのだった。論文は1871年以降の第三共和政を主題に書いたのだが、その時に『感情教育』を読んでいなかったことが悔やまれる。

「彼は明々白々たる事実を疑い、歴史を否定し、確実この上ない事柄までも認めようとせず、幾何学ということばを聞けば「よしてくれ、そんな子供だましは!」と叫び出すしまつだ」(上巻、361ページ)

時代と自分の感情に流され続けるフレデリックは、パリから離れることができなくなる。先日ヘミングウェイ『移動祝祭日』のことを書いたときに「1920年代のパリはすごい!」と何度も繰り返したが、パリの持つ求心力は20世紀に生まれたものではないのだ。芸術の都は今も昔も人を惹きつけて離さない。

「いかに豊かな才も、それを十全に開花させる場所とては世に一つしかない。パリだ! それというのも、彼の脳裡では芸術と、学問と、恋愛(ペルランなら、これぞ神の三位一体とでもいうところだ)はこの都の専属物だったから」(上巻、156ページ)

「一片の大きな雲が空を漂っていく。「パリのほうへ流れていくわ」とルイーズがいう、「ついていきたいんでしょう、ちがう?」」(下巻、18ページ)

そのパリを舞台に勃発する二月革命は、圧倒的である。政治談義が尽きない気運の中、それは唐突に訪れるのだ。日常が革命に覆われる瞬間が克明に描かれているというのは、驚くべきことである。当たり前だと思っていた日常がこんなにも唐突に瓦解する、という事実は、何とロマンティックな発見だろうか。そう、革命は起こりうるのである。そして人びとは流れ、組織化の動きが生まれ、それが再三に渡って転覆される。民衆は常に、世界を変える力を持っているのだ。

「「ああ、あれで市民が何人か殺されるんだな」とフレデリックは平然としていった。少しも冷酷なところのない人でさえ、たとえ全人類が滅びるのを見ても涙ひとつこぼさず平然と見ていられるというような、他人にまったく無関心になってしまう情況があるものなのである」(下巻、82ページ)

「だれもが三色旗のかげにはいって並んだが、それぞれの党派は三色のうち自分らの色だけしか目に入れていなかった。――もちろん、力がいちばん強くなったときには、他の二色をひっぱがしてしまおうと目論んでいたわけである」(下巻、99ページ)

革命の描写は長く長く続く。歴史的な知識がないと、相当大変な描写の数々である。詳細な訳注の付された政治家の名前を一つ一つ覚えてみても、次には違う政治家が指揮を執っていて役に立たないので、固有名詞は無視してしまって構わないと思った。むしろそのほうが、混沌とした革命直後のパリの姿が浮かんでくるかもしれない。読み進める速度に急ブレーキがかけられる箇所ではあるが、人びとの持つ感動的なほどの力強さに圧倒させられる箇所でもある。

「くそ、もううんざりだよ。ロベスピエールの断頭台、皇帝ナポレオンの長靴、ルイ=フィリップの雨傘と、つぎからつぎへ何にでも平伏するやつら、パンを投げ与えてくれる者ならだれにでもいつだって忠誠を誓う卑しいやつらにはうんざりだよ! タレイランミラボーは、金で動いたからといっていつも声高にやっつけられるが、なに、下の階の使い走りの便利屋ね、あいつなんかに一回の使い走り三フランの値でもつけてやりゃあ、五十サンチームで国を売ることぐらい朝飯前だろうよ。ああ、大間違いだったんだ! われわれはヨーロッパ全土に火をかけてしまうべきだったんだよ!」(下巻、239ページ)

革命の最中であろうと、フレデリックの変化は止まらない。彼の恋は二転三転し、「プラトニック」なるものはどこへやら、終いには四人もの女性を手玉に取って、それぞれ異なるかたちで熱烈に愛されるようになる。その姿は一見最低な男にしか見えない。

「夫人の魅力は官能よりも心に訴えるところが多かった。漠とした幸福感につつまれ、陶酔に浸りきっていた彼は、さらにこれ以上の最後の線に至る幸福がありうるということさえ忘れてしまっていた。が、いったん夫人のそばから遠く離れると、激しい欲情が彼を衝き動かすのである」(下巻、61ページ)

「そのうち、こういう嘘が面白くなってきた。一方の女に誓ってきたばかりのことを、もうひとりにも繰り返す。同じような花束をどちらにも送る。ふたりへの手紙を同時に書く。そして、ふたりの女をじっくり比較してみたりした。――そういうときでも常に第三の女のことが彼の念頭から離れなかった。あのひとを自分のものにできないのだから、とそのことで自分の不実な行為を正当化するのである。しかし、おかげで変化が味わえるから楽しみは倍加する寸法だった。どちらの女も、騙せば騙すほどかえって自分を愛してくれる。まるで、ふたりの愛は互いに熱を煽り立てて、もう一方の女を忘れさせようと張り合っている感があった」(下巻、273~274ページ)

「女の心は、引出しのなかに引出しが嵌めこまれた、あの秘密を隠す小さな箪笥のようなもので、さんざん苦心して爪まで折りながら開けてみても、底のほうに干からびた花か、埃を少し見つけるぐらいが関の山だ。――あるいは、ただの空っぽということだってある!」(下巻、275~276ページ)

だが、感情教育は終わらない。不道徳極まりない性生活を送るようになって、初めて見えてくるものがあるのだ。読者はいかにしてフレデリックが最低な男となっていったかをよく知っている。フレデリックの成長と歩調を合わせて、読者も紋切型の思考から解放されているのだ。それは感情教育である。

「だれもが本のなかに出てくる恋愛は大げさすぎるといいますが、実際にあなたはそういうものをぼくに感じさせてくれたのです」(下巻、334ページ)

感情教育は終わらない。この言葉は知識人の目指すべき地平の広大さを突きつけている。何故サイードが知識人の名前を挙げるにあたってフレデリックだけではなくデローリエの名前をも挙げていたのか、読者は最後の最後に知ることになる。「あれがぼくらのいちばんいい時代だった」という言葉の響きが持つロマンティシズムは、例えようもない。

この小説を「ビルドゥングスロマン」という紋切型の表現で括ってしまうのは、単なる矮小化に過ぎないとすら感じる。フレデリックの葛藤、信用ならない親友デローリエ、思想的に偏ったセネカルやユソネ、お人好しのデュサルディエ、不器用すぎるアルヌー、審美学が揺らぎっぱなしのペルランなど、偏愛するに足る条件を揃えた登場人物たちが時代の変化に合わせて変わっていく姿の、その人間臭さはたまらない。ディケンズやオースティンのように丹念に練り上げられた人物造型が、それぞれの型の中で次第に変化していくのである。フロベールディケンズの一歩先に踏み出すことをやってのけたのだ。思えば『ボヴァリー夫人』を読んだとき、私はエマではなく夫のシャルルに感情移入してしまっていた。『感情教育』では、この主役以外の人物が放つ魅力が結集しているのだ。脱帽である。

エヴゲーニイ・バザーロフ、スティーヴン・ディーダラス、そしてフレデリック・モロー。この三人の生き様には恐ろしいまでの隔たりがあって、その思想もまた全く性質の異なるものである。サイードの文脈で薦められていたのはこの三冊に限られるが、それを残念だと思う気持ちは全くない。例え何冊の本がそこで薦められていたにせよ、結局のところ、感情教育は終わらないのだ。それはディーダラスの目指した彼方への出発でもある。さあ、彼方へ、彼方へ! 感情教育は終わらない。

感情教育 上 (河出文庫)

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感情教育 下 (河出文庫)

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<読みたくなった本>
バルザックゴリオ爺さん

ゴリオ爺さん (新潮文庫)

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バルザック『フェラギュス』

十三人組物語 バルザック「人間喜劇」セレクション

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バルザック谷間の百合

谷間の百合 (新潮文庫 (ハ-1-1))

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シャトーブリアン『アタラ/ルネ』

アタラ ルネ (岩波文庫)

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モリエール『ドン・ジュアン』

ドン・ジュアン (岩波文庫)

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ボーマルシェ『セビリヤの理髪師』

セビーリャの理髪師 (岩波文庫)

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ゲーテ『若きウェルテルの悩み』

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

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