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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

シネロマン

 年末にまとめて購入した三冊のロジェ・グルニエのうち、最後の一冊。ほかの二冊の短篇集(『フラゴナールの婚約者』『夜の寓話』)とは異なり、これは手に入った唯一の長編小説である。

シネロマン

シネロマン

 

ロジェ・グルニエ(塩瀬宏訳)『シネロマン』白水社、1977年、2001年新装復刊。


 タイトルからも連想されるとおり、映画と強い関係を結んだ小説である。これまでに読んだ二冊の短篇集から、この作家の映画に対する情熱が並外れたものであることはすでに証明されていたが、こんな小説を書けてしまうほどの知識があるとまでは考えていなかった。これはうらぶれた田舎町の、しかもそのもっともうらぶれた界隈に位置する、文字通り場末の映画館、その名も「マジック・パレス」の栄光と凋落を描いた年代記なのである。

「この男においては、すべてが、よどみ、眠っていた、口髭をだらりと垂らした、あんなにもどんよりとした顔つきの陰に、ゆたかな想像力がかくされているなどということは、とうてい、ありえないことだった」(10ページ)

 全体は四部構成になっているが、それよりもずっと細かく四十六の断章が連なっているため、あまり気にならない。一番最初にやってくるのはマジック・パレス座の創始者であるラ・フレーシュという人物、結局は最後のページがめくられるまで重要な役割を果たしつづけることとなる、見世物興行に人生を賭けた男である。

「見世物というものは誰にとっても必要なものであり、誰もが、それぞれのやり方で、見世物を見せているのだ。芝居小屋だとか映画館、闘技場などは、必ずしも常に必要ではない。わずかな金銭とひきかえに、娼婦がお尻を見せるとき、彼女は、すでに見世物を上演しているのである。ドス・パソスは、ヴァージニアのポトマック河畔の彼の家で、わたしに向かって、ひたすらおのれの内面を吐露することをむねとするような小説は好きじゃないといい、自分は小説を、いつでもスペクタクルとして構想したと語った。おそらく、この彼のことばが、わたしの無意識のうちでふくらみ、やがて、ラ・フレーシュの建てた映画館であるあのマジック・パレスの物語を書いてみたいという気をわたしにおこさせたのだろう」(11ページ)

「マジック・パレス座の演しもののうち、もっともいきいきとわたしの心にのこっている映画は、喜劇役者ビスコ演ずるところの『自転車競争の王者ビスコ』というシリーズものだ。わたしには、それは、映画芸術の頂点に立つもののように思えた。このシリーズのなかで、ビスコは、ガニ股なのにもかかわらず、フランス一周レースにおいて、ありとあらゆる悪漢どもをしりぞけて、めでたく優勝し、おまけにブランシュ・モンテル扮するところの大自転車工場主の令嬢と結婚するのだった。ビスコは、のちに何人かの芸術家たち――誰を挙げればよいのかいささか困惑するが、強いてその名を挙げれば、たとえば、ボードレールフローベールチェーホフカフカモーツァルトシューベルトといった人たち――によって占められることになるわたしの心のなかのある場所を、当時、一人占めにしたのだった」(20ページ)

 マジック・パレス座が位置しているのは、この田舎町の誰もが渡ることを拒む橋の向こう側、商業が起こる可能性など皆無の呪われた一帯だった。ラ・フレーシュはこの地域の将来性に期待し映画館を打ちたてたのだが、まともな人びとが足を向けることを自らに禁じるこの場所は、当然のこどくおびただしい悪評をその身に帯びることとなる。やがてラ・フレーシュはあっさりと、映画館を売り払うことに決める。そしてこれを買い取ったのはこの町に越してきたばかりのローラン夫妻の一家で、彼らは新たに手に入れたこの商売道具を立て直すべく奔走するのである。

「ホールのウォルト・ディズニー風の装飾はいささか子供じみている、と感じた者もいた。ローラン家の息子のフランソワである。彼は、今や、十五歳となかばに達していた。彼は、マジックの積年の悪評を耳にしていた。彼は、独語した、悪所として評判の高かった場所を、一転、託児所に変えてしまうなんて、いくらなんでもやりすぎだよ、それに、漫画映画には、それなりの良さももちろんあるけれど、映画館の客ってのは、なんといってもまず、めっぽう男らしい男やすてきな美人を見に来るのであって、ネズミやアヒルなんかを見るためにわざわざやって来るのではないんだ、と」(44ページ)

「外は、もう夜だった。舗道が雨にぬれて光っていた。日曜日の残りは、もはや夜の数刻だけだった。フランソワは、にわかに、宿題のラテン語訳読をまだ終えていないことを――あるいはまだ始めてすらいないことを、思い出す。彼は、夕食――この日の夕食は残りもので済ませたのだったが――の前および後に、宿題に取りかかる。そんなとき、来るべき月曜日のことを前もって想像することで、彼の心は、月曜日に実際感じるであろう悲哀以上の悲哀に前もって打ちひしがれていたのだった」(46ページ)

 この一家が映画業界人として、夢をふくらませながらさまざまな戦略に着手していく様子を見ていると、映画館経営の事情に妙に詳しくなる。配給業者から送られてくるパンフレットの数々、その人びとのもとへ出向いて交わす上映契約などなど。この小説は舞台を1930年代としているため、登場する映画の名前のほとんどは聞いたこともないようなものばかりなのだが、ある種のノスタルジーにも似た感情を込めて語られるその魅力は、興味をかきたててやまない。

「あのかずかずの≪シナリオ≫は、当時、書類ばさみに収められてしかるべく整理されてい、マジック・パレス座の来るべき日々の演しものをあらかじめ示していた。ときには、ぱっとしない小製作業者から、ただ一枚だけの紙片が送られてくることもあったが、そのお粗末な活版刷りの文字は、フィルムが安っぽい駄作であることを容易に推察させた。そんなものを上映しようものなら、おそろしく退屈な一週間を過ごすことになるのは明白だった。また、ときにはフィルムがとても古くて、もとの宣伝資料がもはや存在しないために、そのかわりとして粗悪な印刷物の紙きれを送ってよこす業者もいた。これらの魅力に乏しい刷り物の予告するのは、色あせた西部劇、笑うものなど誰一人いないような喜劇映画、破産ばかりしているプロデューサーがやっとのことで掻き集めた金で遮二無二撮影された、二流の俳優たちの演じる二流のフランス映画など以外のなにものでもなかった」(50ページ)

 映画配給業者たちのオフィスがたむろするボルドーに赴いた彼らは、「プレヴォのお店」で食事をとる。そこにこんな描写があった。

ボルドーに滞在する間、一家の人々には、夕食を取る時間などあったためしがなかった(第一に、レストランでの昼食が、概してたっぷりしたものだった)。ローラン夫人は、たまたま、このジロンド地方の首都にも、ココアやチョコレートで著名なプレヴォの店の支店が存在することを知って、このプレヴォの名に若き日の思い出を呼びさまされ、「夕食がわりに、プレヴォのお店に行って、ココアを飲みブリオーシュ・ケーキをつまむことにすればいいのよ」と提案した。「パリでは、あたしたち、そうしたものよ。あたしが、まだ若かったころ、伯母さんといっしょにね。あれは、グラン・ブールバール大通りのプレヴォのお店だったわ、あそこで手早く腹ごしらえをしてから、アンビギュ座に出かけたものだった。あの親切なクーザンの奥さんがくだすった招待券のおかげでアンビギュ座にも無料で入れたのよ」
 彼女はこれらのことばをとても力をこめて言ったので、聞く者は、食事を取るやり方としてこれ以上上品なものはないと、すぐ思いこんでしまったものだった。後に、フランソワが大きくなり、思い出を批判的に眺め、記憶のなかによみがえる両親の言動に批評の目を向けはじめる年ごろになると、彼は、思ったものだ。結局、あのプレヴォのお店だって、取るに足らぬただの店、とりたてて言うほどのことはないありふれたチョコレート・パーラーではないかと。したがって、ある日、プルーストを読みはじめて、オデットがスワンに、プレヴォで落ち合うことを言い出さしめるくだりを発見したときには、たいそう驚いたものだった。彼は、そのページを繰り返し二度読んだが、間違いはなかった。あんなにも洗練されたプルーストの人物たちもまた、彼の母と同様に、しばしばプレヴォの店に行き、ココア付きの軽い夕食を取っていたのだ」(53ページ)

 これは『失われた時を求めて』の第一巻第二部「スワンの恋」のシーンのこと。おそらくロジェ・グルニエは、実際にこんな体験をしたことがあるのだろう。彼がヘミングウェイのように、自身の体験を小説化することを得意としている作家であることももちろんだが、そもそもこれが想像して書ける類の文章だとは思えない。そう考えてみるとこの映画館経営の舞台裏の数々も、想像というよりはまさしく見てきたような口ぶりだ。「訳者あとがき」はなにも教えてくれていないが、この作家の家族は映画館を経営していたことがあったのではないか。ロジェ・グルニエの少年期に、どのようなかたちで映画が関わっていたのかを調べてみたいと思った。

「少年は、拡声器が故障したりすると、その都度、スクリーンのうしろに赴いたものだった。彼が、ジェームズ・キャグニーとジョーン・ブロンデルの主演する『群衆の叫び』を、スクリーンを透かして裏側から眺めたのも、そのような機会においてだった。二人の俳優は、フランソワのつい目と鼻の先で、愛しあっていた。彼らの姿は、あくまで大きく、かつ、いびつにゆがんで見えた。ここから眺めると、この二人の俳優も、フィルムの上に焼きつけられた本来の身振りとはことなる予想外の動きを示し、別の物語を展開するのではないか、と思われてならなかった。ジェームズ・キャグニーやジョーン・ブロンデルだけでなく、フィルムの上にうつるもろもろの家具やレース用の車やその他の事物たち、それに風景までもが、こぞってもうひとつの顔を見せるのだった。スクリーンは、その正面から眺められるとき、おそらく、事物の表面だけをとらえて示す単なる白い大きな壁面にすぎないだろうが、こうして、客席よりもなお暗い舞台の奥の闇に身をひそめてスクリーンを眺めるとき、そこに写し出される世界は、あたかも鏡のなかにおけるがごとく、そのイマージュを左右あべこべに置き換えられて、ついにその神秘を明かすにいたるのではないだろうか。ジェームズ・キャグニーも、スクリーンのむこう側に写る物語のなかでは黙して語ることのない心の秘密を、今こそジョーン・ブロンデルに語り聞かせるのではないだろうか。それにしても、キャグニー演ずるこの男とブロンデル扮するこの女性の胸中には、あれらの情熱の瞬間において、いったいいかなる思いが宿されていたのだろうか? ふつう、アメリカ映画は、たいてい、このような情熱の瞬間にも、ただ、チャイコフスキーの曲のひとつやラフマニノフのコンチェルト第二番のライトモチーフなどを、あるいは高らかにあるいはしのびやかに流すことだけですませてしまうものなのだが」(99ページ)

 かつてワグナーの楽劇が総合芸術と呼ばれたように、現代における映画にもその要素を見いだすことはできるのだろう。もちろん文学にしか表現できないことだって山のようにあるわけだが、映画には文学にはない音楽との強い親和性がある。アメリカ映画におけるチャイコフスキーラフマニノフの、多分に俗悪な使い方が、結局のところクラシック音楽そのものを身近なものに仕上げてもいるということを、忘れてはいけないと思った。例えば私たちがエルガーの「愛の挨拶」を愛する理由のなかに、幼少期に観た俗悪なテレビ番組の影響がまったく混じっていないなどと、いったい誰に言うことができるだろう。

「このころになると、フランソワは、道を行くときにも、しばしば、自分の影が路上に踊るのを眺めて興じたものだった。太陽は映写機であり、彼自身はフィルムだった。そして、路に写る彼の影は、スクリーンの上の映像にほかならなかった」(102~103ページ)

 ローラン夫妻のひとり息子フランソワは、この物語の中心人物のひとりだ。彼は館内におけるさまざまな雑用をこなしながら、次第次第にその存在の重要性を増し、終いには映写技師まで務めるようになる。以前、カメラの魅力に取り憑かれた友人が、視界がファインダーだかレンズだかになると言っていたことを、この文章を読んだときに思い出した。自分の目に映るものを、一枚の写真に仕立て上げるために配置させ、その遠近感や構図までもを、ほんの少しずつ首を傾けながら取捨選択してしまうのだ、と。

「人は、おのれの過去のうちにおのれの好みの姿を見いだす。たとえ、それが不幸な過去であろうと、その不幸のあり方のなかにさえ、好ましいおのれの姿を見いだすものなのだ。われわれは、若年のころの自分の姿のなかに、牙をむいてわれわれに襲いかかる世界を前にしたときのおのれの対処の仕方――自分たちにもはやおなじみの態度――を認めて、つい、感傷にかられるのだ。それとも、われわれが、かくも執拗に過去の記憶にこだわるのは、時がわれわれの憎むべき仇敵であるからなのだろうか?」(104ページ)

「毎土曜日には、目が覚めて窓の鎧戸を開けるときから、もう、一家の苦悩が始まった。願わくは、この日のお天気が、よすぎませぬように! あのアメリカ映画のなかでのように、雨が降りこめていることが、どんなにのぞましかったことか。それにしても、ハリウッドの映画監督たちは、そろいもそろって、どうしてまた、あんなに、にわか雨のシーンが好きなんだろうか? 彼らのつくるフィルムのなかでは、ハンサムな二枚目の主人公と彼のかわいらしい恋人は、きまって、滝のようなひどいどしゃ降りにみまわれる。もっとも、だからといって、彼らの面上の微笑は消えることはないのだが。だが、ハリウッド製の驟雨は、ほんものの雨ではなかった。スタジオのポンプ係が、消火用のホースの筒先を操ってつくり出す雨だった。そして、わたしたちの過ごしたあの土地に降る雨も、このいつわりの驟雨に似ていた。それは、ほんの一時の通り雨にすぎず、土地の人々が、それに肝をつぶして、どうしてもマジック・パレスに避難の場を求めざるをえなくなるといったような豪雨では、毛頭なかった」(153ページ)

 ローラン夫妻の期待に反して、館主が変わったところでマジック・パレスの悪評には変わりがなかった。経営は転落をつづけ、客をひたすらに待ちつづける毎日は苦痛の色を帯びはじめる。映写装置の故障は年中のことで、その大規模な機械を買い替えるのも、雀の涙ほどの利益では望むべくもない。

「「音量調節器のやつがいかれたんでさ」とレオンは、その都度言ったものだった。
 このことばは、レオンによってあまりにも頻繁に繰り返されたので、実際には、そのような故障が続けて起こったのではなく、彼のこの言いぐさは、ただ単なる口癖にすぎないのではないかと思われたほどだった」(159ページ)

「彼は、しばしば、「なぜ恥ずかしいのか?」と、自分に問うてみようとした。そもそも、恥辱とは何なのか? 人間の尊厳とは、虚偽の感情にすぎない。なぜなら、人間は、本来、尊敬に値する生物ではないのだから。人は、他者および自分自身にもったいをつけたくて、そのために、尊厳という観念を発明したのではなかったか……だが、このようなたいそうペシミスチックな哲学的考察をこころみたところで、フランソワの恥辱は、いささかもやわらげられはしなかった。それは、逆に、精神と肉体とがある激烈な感情に押し流される際には、理性など、まったく役に立たないものだということを、はっきり示し出すのに役立つだけだった」(167~168ページ)

 映画を題材にしているというものの、あくまでもこの小説の舞台は1930年代である。映画という芸術様式が誕生したのは19世紀の最晩年、世界初の長篇映画、ジョルジュ・メリエスによる『月世界旅行』が制作されたのは1902年のことだ。そして以後の約40年間は、サイレント映画の時代。世界初のトーキー(発声)映画『ジャズ・シンガー』がアメリカで生まれたのが1927年のことで、その技術がようやく実用化されはじめたのは、本作の舞台となっている1930年代のことなのだ。そう考えてみると、映画の歴史というものはまだまだ浅い。

「フランソワは、今では、観客の反応についていささか経験を積んでいたが、喜劇映画の開幕を待ちうける客たちの醸し出すさんざめきには、まじめなドラマを見にやって来る客のそれとは、どこかちがったところがあるようだった。喜劇を上映する際には、場内のいたるところに一種の陽気な高揚感がたゆたっていた。それは、まるで、観客たちが、彼らの自前の哄笑や爆笑を外から館内に持参し、その笑いが吐け口を求めて跳びはねるので、スクリーンが滑稽なシーンを写し出すときまでそれらを抑えつけておくのにたいそう手を焼いている、といったふうだった」(174ページ)

「ああ、あの色彩の、なんと魅惑的だったことか! 映写室から放たれる光の束は、色あでやかなメッセージを客席の端まで持ち運ぶ。その光の束がスクリーンに達すると、そこにまばゆい色彩の花園が出現するのだった。これは、まったく新奇な魅力であり、フランソワのような子供っぽい心の持ち主たちが、うっとりとみとれたのもむりはなかった。この後、まもなく、世の人々は、色とりどりの衣服を身にまとうことになるのだが、まだ当時は、小学校に通う子供たちは、黒い上っぱりを着せられていたのだ。赤、黄、青、緑、オレンジなどの色彩が用いられることはまれだった。人々は、まるで、このようなあでやかな色彩を身にまとうことがこわくてならないようでもあり、また、これらの色彩の祭典を眺めて楽しむことに、罪悪感にも似たうしろめたさを覚えているかのようだった」(201ページ)

 上に挙げたのは、マジック・パレスのスクリーンに初めてカラーのフィルムが流されたときの様子。その技術の躍進が、モードにも大きな影響を与えたというのは目を見張るべきことだ。カラーとは言っても、現代のそれほど鮮やかなものでなかったことは容易に想像されるが、映画が本格的にカラー化されはじめたのはいったいいつのことなのだろうか。トリュフォーのデビュー長篇『Les Quatre cents coups』は1959年、ジャック・ドゥミの出世作『Lola』は1960年の作品だがモノクロだ。そのくせジャック・ドゥミに関しては1957年に短篇『Le Bel Indifférent』をカラーで撮っていたりするから、なおさらわからない。

「いいかね、坊や、お客ってのはな、よく知っていることを、あらためて、もう一度じっくり見たり、思い出したりすることが大好きな人種なんだよ、それに引き換え、新しいものを見たり聞いたりしなきゃならねえとなると、連中は、とかく二の足を踏むだがね」(264ページ)

「彼は、自分の手もとにあるいくつかの書物を繰って、古典作家たち(他の作家たちについては、ほとんど、知らなかったので)の作品のなかに、今の自分の状況とよく似た状況を述べた個所を探し求め、目下の割りきれぬ気持にすっきりとした光をあててくれるような説明を見つけ出そうとこころみてみた。コルネーユとラシーヌからは、何も見つからなかった(モリエールを覗いてみる気にはならなかった。なにしろ、フランソワは、自分が、今、悲劇の渦中にあるのであって、喜劇とは無縁だ、と考えていたのだから)」(281~282ページ)

 やがてフランソワの通っているリセに、哲学の教師としてイヴ・フォーシェ先生がやって来る。この謎めいた男はこの物語のなかでも極めて異色な教養人で、とても必要とは思われないときに現れては、いちいち名言を吐いていく。シェイクスピアがそれぞれの作品に念入りに道化たちを配していることからも察せられるとおり、こういう人物がひとりいるだけで、物語というものはぐっと面白くなる。

「「実は、わたしも、一時は、エチオピアまで足を延ばそうと思っていたのだがね、そら、あのランボーのことが頭にあったのでね。ところが、どうやらそれが実現出来そうになったときに、わたしは、ランボーが、まったくわたしとは無縁の存在であることに、はたと、気づいたのだよ。そこで、いささかも関心を持てない男のために、わざわざ、あんな僻地まで出かけて行って、そこで二、三年生活するなんてことは、願いさげにしたのさ。でも、きみ、間違っても、わたしが、ランボーに関心を持ってはいないなんて、人に話してはだめだよ。そんなことが知れわたったら、わたしは、おしまいだからね。つまり、これは、例の、ローペ・デ・ヴェーガには生涯隠し通したひとつの秘密があったという、あの有名な話と似たようなことなのさ。あの話は、きみも知ってるね?」
 「いいえ」
 「ローペ・デ・ヴェーガは、常々、自分の胸のなかには、ある重大な秘密があって、それは、死の床においてのみ、打ちあけることが出来るものなのだ、と言っていたんだ。そして、そのときがきたら、遠慮なく知らせて欲しい、さもないと、その秘密を、墓のなかまで持って行くことになりかねないから、と友人たちに、かねがね頼んでいたのだよ。そこで、彼が、いよいよ重態に陥ったとき、友人たちは、彼にむかって、≪ええと……その、ねえ、きみ……ローペ君(教師は、ローペ・デ・ヴェーガの名前のほうを正確に思い出せなかったので、とりあえず、こんなふうに言い、自分のつくり出した仮の名前の滑稽さに、自分で吹き出した)≫と切り出した。≪どうも、残念ながら、今度ばかりは……らしいよ≫。すると、ローペ・デ・ヴェーガは、虫の息の下で、なおも褥の上に身を起こしつつ、こう言ったんだとさ、≪わたしは、いつだって、あのダンテには、ほとほとうんざりしていたのだ≫とね」」(288ページ)

「それから、さらに、ハンガリアの平野を、四輪馬車が走って行く情景も、思い出された、シューベルト即興曲のひとつが、馬車の疾走の伴奏をつとめていたあのフィルムは、『未完成交響楽』だった。フランソワは、この映画を、音楽の栄光に捧げられた記念碑的作品のひとつだと、考え続けてきた。彼のこの考えは、いくら、哲学教師が、皮肉たっぷりにこの映画をこきおろしても、依然として、変わらなかった。一方、イヴ・フォーシェには、これは、シューベルトの作品と生涯の双方をみるも無残に歪曲してしまった度しがたい通俗作だ、としか思えなかったのだ。「そりゃあ、わたしとて、シューベルトが、とても深遠な作曲家だということは認めるよ。それに、わたし自身、彼に対しては、モーツァルトに対するのと同じくらいの愛情を捧げてもいるし、ひかれてもいるんだがね」と、イヴ・フォーシェは、フランソワに異を唱えて、言ったものだった。「あの映画ときたら、なにしろ、『未完成』『セレナーデ』『アベ・マリア』という、彼の全作品のなかでももっとも安っぽく、もっとも通俗的な三つの作品でもって、彼の全貌を語ろうとしてるんだからね、しかも、歌っているのが、人もあろうに、マーサ・エガートという太っちょの雌牛なんだから、もはや、なにをか言わんやだよ!」」(322~323ページ)

 転落をやめることのないマジック・パレス、そこにしがみつく人びとは、やがて哀愁を帯びるようになる。ロジェ・グルニエが『夜の寓話(編集室)』に収められた作品「冬の旅」のなかで語っていた女優のことが、ここでも話題になっている。『シネロマン』の刊行が1972年、『夜の寓話』の刊行が1977年なので、作家はこのおそるべき逸話を手放しに看過できなかったということになる。それとも、このルイス・ブニュエル監督の映画『アンダルシアの犬』に対する偏愛でもあるのだろうか。DVDは依然として見つからないというのに。

「この夜、この部屋に居あわせた者は、誰ひとり、ロイス・モランが、このとき、すでに、批評家からも大衆からも見捨てられてしまっていたある小説のヒロインの一人の名を取って、ローズマリー・ホイトと名乗っていたとは、知るよしもなかったし、また、シモーヌ・マルイユが、後に、どのような悲惨な運命をたどることになるのかも――実は、『アンダルシアの犬』に出演したこともあるこの女優は、これからずっと後の1954年のある日の明け方に、ドルドーニュ地方のとある農家の内庭において、燃料用のアルコールを頭からかぶり、おのが身を炎に焼き尽くさすことになるのだが――予測出来ようはずがなかった」(309~310ページ)

「去って行く二人の姿を眺めながら、フランソワは、人の世のもたらすさまざまな悲哀のうちの最たるものは、かばってやりたく思っている者たちが破滅への道を一直線に突き進んで行くさまを、なすすべもなく拱手傍観しなければならないことだ、と思い知った」(320ページ)

 この小説を一読するだけで、映画全般に対する興味が大いにかきたてられる。自分がまるでこの芸術のことを知らないことに気がついて、もっと沢山の映画を観なければ、と思った。せっかく映画天国であるフランスにいるのだから、舞台はとっくに整っているのだ。フランスでは日本のように、DVDの値段も高くない。一本のDVDが3000円もするというのは、ここでは狂気の沙汰で、3000円もあれば新作映画を新品で5本も買うことができるのである。活用しない手はないと思った。

「だが、フランソワは、映画においては、悪趣味も許されてよいのではないか、と思いはじめていた。人々は、笑ったり泣いたりするために、わざわざ映画館の暗闇のなかに閉じこもりに行くのだ。思うざま笑ったり泣いたり出来さえすれば文句はないのであって、そのための手段がどんなものであろうと、そんなことは、どうでもいいことではないのか? そのいい例が、彼の記憶の底にいつしかこびりついてしまったあれらのフィルムのイマージュだ。彼自身の好みとはまったく無関係に、いつの間にか、他のいろいろなイマージュを押しのけて彼の心に棲みついてしまったあれらのさまざまなイマージュの、いったいどこに、趣味のよさが認められるというのか?」(323ページ)

 この一文は、ロジェ・グルニエの映画に対する意見表明とも思える。これこそがパニック映画ブーム以降現在までつづく、いわゆる「ハリウッド的な映画」が一向に廃れる気配を見せない理由なのだろう。映画の批評家だったら、おそらくこんなことは書けない。それはまさしく知識人たるべき人物が「ランボーに関心を持っていない」と告白するようなものなのだ。

「さらにはまた、このマジックにおいて、しあわせな、あるいは不幸な時を過ごしたことのある人々のすべてについて、彼らのささやかなアバンチュールの一部始終を縷縷述べたてることも可能だろうし、それどころか、ただ単に、暇つぶしのためのみに、一夕、マジックの客席の椅子に腰をおろしたことがあるだけの人々についても、さまざまなことが語られうるだろう。それにまた、マジック・パレスで上映されたすべてのフィルムの目録を作りあげることだって、可能なはずだ。そして、このような作業を続けてゆくことで、いつしかうたかたの人の世のもつポエジーの繊弱な魅惑のなかにゆるやかにのめりこんでゆくことも、出来ないことではないだろう。だが、人の世がいかに魅惑に富もうと、ついにはそれすら退屈に思われるときが、きまってやって来るものなのだ」(329~330ページ)

 映画というもの自体を中心に据えた文学作品というのは、けっして多くはない。そのなかでもこれは最高級の作品に数えることができるだろう。映画史に興味があるかた、特に1930年代の映画に興味を持っている人がいたら、これは間違いなく必読書として薦めることができる。まだ歴史が浅いとはいえ、すでにこの芸術がたくさんの変革に迫られてきていたことを、あらためて教えてくれる一冊だった。

シネロマン

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