Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ユークリッジの商売道

 年末にパリのブックオフで購入した、大量の日本語書籍のなかの一冊。国書刊行会の「ウッドハウス・コレクション」第一弾『比類なきジーヴス』を読んでから他のも読みたいと思っていたので、選集の第四巻であることなどお構いなしに購入した。

ユークリッジの商売道 (P・G・ウッドハウス選集4)

ユークリッジの商売道 (P・G・ウッドハウス選集4)

 

P・Gウッドハウス(岩永正勝・小山太一編訳)『P・Gウッドハウス選集IV ユークリッジの商売道』文藝春秋、2008年。


 英文学である。これぞ英文学、などと言ったらだれかに後ろから殴られる気がするが、私にとっての英文学のある部分を、この本は明らかに体現している。ここのところフランス文学ばかり読んでいたので、それ以外の外国文学を手に取ること自体が本当に久しぶりだった。ウッドハウスに対する度を越した信頼が為せる技である。この本をわざわざパリにまで持ちこみ、しかも売り払いさえした不敬なる読者に、感謝と拍手を。

 文藝春秋が発行しているこの「選集」は、「比類なき」執事ジーヴスが登場するシリーズを集めた国書刊行会の「コレクション」とは異なり、多作なウッドハウスのたくさんの主人公たちそれぞれに照射を当てたものだ。第一巻は『ジーヴスの事件簿』、第二巻は『エムズワース卿の受難録』、第三巻は『マリナー氏の冒険譚』。そして第四巻がこの『ユークリッジの商売道』である。帯によると第五巻『ドローンズ交遊帖』の続刊が決定しているとのこと。その刊行までに、他の巻もまとめて読んでおきたいところだ。『ブランディングズ城の夏の稲妻』をはじめとする国書刊行会の「ウッドハウススペシャル」も、ジーヴス以外のシリーズを採り上げているという点で共通しているので、そちらも合わせて読みたいと思った。

 さて、この本はタイトルの通り、ユークリッジという「怪人」が登場するシリーズを集めた一冊である。彼がどのような人物であるかを説明するには、冒頭の引用だけで十分だと思った。

「「ひと財産作りたくないか?」
 「作りたい」
 「じゃ、我輩の伝記を書け。思いっきり書いて、上がりは二人で山分けだ。ここしばらく、貴公の書いたものをじっくり読んでみたが、どれもなっちゃいない。何がいかんというに、貴公は人間の心という泉の深さを知らんのだな。ろくでもない与太話をでっち上げて、ちまちま書きつけているにすぎん。ひとつ、我輩の生き様に取り組んでみろ。これこそ書くに値するテーマだ。金はザクザク――イギリスで連載、アメリカで連載、両方の単行本の印税、舞台化の権利金に映画化の権利金――まあ、固く見積もっても、それぞれ五万ポンドにはなるな」
 「そんなに?」
 「固い線だ。そこでだな、こうするとしよう、な。貴公はいいやつだし長年の親友だから、イギリスでの連載の版権、我輩の取り分は百ポンドで譲ろう」
 「ぼくが百ポンド持ってるなんて、どうして思うんだ?」
 「じゃあ、イギリス版権にアメリカでの連載料も添えて、五十」
 「おい、襟がボタンから飛び出してるぞ」
 「ええいっ、全ての権利をひっくるめて、二十五でどうだ」
 「おあいにくさま」
 「じゃあ、致し方ない」ユークリッジはふと思いついたように言った。「当座のつなぎに半ポンド貸してくれ」」(13~14ページ)

 ユークリッジの友人たちで、金をせびられたことのない人物などいない。だが、その資金も彼の言うところの、将来に対する広大な「ビジョン」への投資となっているのだ。実際、ユークリッジの思いつく新たなビジネスは一見隙のないものばかりで、たしかにこれなら大金が稼げそうだという非の打ち所がないプランが山ほど出てくる。だがそのどれもが、神の見えざる手によってか、頓挫する。

「「どこまで悲観的なんだ、コーキー? もうちょっと楽観的なところを見せてもらえんものかね。竹馬の友が、ついに栄華にいたる梯子段に足をかけたんだぞ。うんと固めに見積もっても、このバターカップ事業で四ポンドは手に入る。それをケンプトン・パーク二時出走のレースで≪キャタピラ≫に乗っけるが、これはレース後に馬券を買うようなもんだ。まあ十一倍はいただきだな。それを丸ごとジュビリー・カップの≪ビズマス≫に注ぎ込む。これも十一倍で、しっかり四百ポンド。ビジネス感覚抜群の男が巨万の富を築く資金としては十分だ。貴公だから教えてやるが、どこから見ても成功間違いなしという一世一代の事業に目をつけてある」
 「へぇ?」
 「そうとも。このまえ雑誌で読んだ。アメリカの猫牧場の話だ」
 「猫牧場?」
 「そのとおり。まず、猫を十万匹集める。猫は年に十二匹の子猫を生む。猫皮の値段は、白が十セントから真っ黒が七十五セントまでいろいろだ。年にすると千二百万枚の猫皮がとれ、売値の平均が三十セントとすると、年収は固くみても三百六十万ドルになる。だが、経費はどうなると訊くんだろ?」
 「訊いてないけど、言ってみろ」
 「それも織り込み済みだ。猫を食わせるために、隣でネズミ牧場を始める。ネズミは猫の四倍の早さで殖えるから、百万匹のネズミで始めるとすると、一日に猫一匹あたりネズミを四匹食わせることができるが、これで十分なんだ。ネズミはというと、皮を剥いだあとの猫肉を食わせるが、一日にネズミ一匹あたり猫四分の一で足りる。というわけで、事業は完全な自給自足体制なんだ。猫がネズミを食い、ネズミが猫を食って――」
 ドアをノックする音がした」(336ページ)

 言及のある「バターカップ事業」とは、「造花のトレイを吊るしたきれいな娘を前にしたら、どんな男だって何も訊かずにすんなり募金箱に小銭を放り込む」(334ページ)というもので、ユークリッジはこの法則を利用して、自身への寄金を募った。実際、語り手である「僕」ことミスター・コーコランも、「バターカップ・デイです」の一言で半クラウンを捧げている。ユークリッジによれば、「あんなきれいな娘に『バターカップ・デイです』以上のことをくどくど訊くほど騎士道は堕落しておらん」(335ページ)。娘を前にしたときのミスター・コーコランの反応は以下のとおり。

「僕より度胸のある男なら、バターカップ・デイとは何だと訊けたかもしれないが、僕の根性はゼラチンで出来ている」(333ページ)

 ご覧の通り、この作家は比喩の使い方が非常に上手い。ストーリーそのものがユーモラスなだけではなく、それを物語る際の言葉の取捨選択が、決定的に上手いのだ。「ウィットに富む」とは、こういうことを言うのだろう。知的でユーモラスな文体は、この作家の書いたものならどんなものでも読んでみたいという気を起こさせる。中毒者が多いのも頷けるというものだ。

「その前の一週間ばかり、僕はやることなすことついていなかった。田舎に住む、気性の合わない親戚を訪ねるほかない用事ができて、ロンドンを離れていたのだが、田舎では来る日も来る日も雨だった。向こうでやることといえば、一家揃って朝食まえのお祈りと晩餐後のトランプゲームだけだった。ロンドンに戻る客車は赤ん坊で満杯だったし、列車は全ての駅で停車した。食べるものも、袋売りの丸パンしかなかった」(65ページ)

「僕は雄叫びを上げて椅子から飛び上がり、樟脳の臭いを撒き散らしながら階段を駆け下りた。ハムレット並の劇的シーンとはいいかねたが、僕はハムレット的な殺意を抱いていた」(103ページ)

 例として挙げられるものは、いくらでもある。現代英文学の旗手であるイアン・マキューアンも、随所にユーモラスな比喩を差し入れることを決して忘れない作家の一人だが、私は彼がウッドハウスの大ファンなのではないかと考えている。

「僕は油断なく目を配りながらホールを移動した。煉瓦のかけらを手にした子供があちこちに潜んでいる、見知らぬ路地に迷い込んだ野良猫のように緊張していた」(168ページ)

「僕は部屋の隅にそっと避難し、新米の猛獣使いの心境を味わっていた。どうしたわけかライオンの檻に閉じ込められてしまい、こういう場合の対処法が書いてある通信教育の第三課を必死に思い出そうとしている心境だ」(351ページ)

アイルランド富くじの当たり札を換金に行ったら、くじというものには賛成しかねるから払わないと言われたみたいな感じだった」(392ページ)

 いくつかの作品では主体がミスター・コーコランからユークリッジへと移っており、特に「メイベル危機一髪」では語り口がすっかり変わっていて、訳者の心意気を感じる。この二人の編訳者たちのウッドハウスに対する情熱は、もはや異常なレベルに達していて、頼もしい限りである。以下はその「メイベル危機一髪」のなかで、急遽シルクハットが必要になったユークリッジが、それを購入するための五ポンドをせびりに、旧友にして外務省勤めのジョージ・タッパーを訪ねる箇所。

「ずいぶん遅くなっていたが、やつはまだいた。これがジョージ・タッパーのいいところだ。いずれ官界で最高位にまで登りつめると我輩が常々断言する理由もそこにある。やつは責任を回避しないし、時計ばかり気にすることもない。五時きっかりに仕事を切り上げる役人が多いが、ジョージ・タッパーはそうじゃない。だからこそ近い将来――貴公がまだ『噂の真相』にせっせと駄文を書き、主人公の女の子は実は大富豪の跡取り娘だったなんて下らん小説をものしているころ――やつは聖マイケルおよび聖ジョージ勲爵士ジョージ・タッパーとなって、官庁街で幅を利かせるだろうと言うのさ。
 やつは目の高さまで重要公文書らしきものに埋もれていた。我輩はさっそく用件を切り出した。タッピーのやつ、どうせモンテネグロへの宣戦布告か何かで忙しいはずだから、無駄話は遠慮したんだ。
 「よう、タッピー。どうしても、すぐに五ポンド要るんだがね」
 「何が要るって?」
 「十ポンド」
 ここで我輩はギクリとした。やつの目に、このような場面でときどき出くわす冷たくて近寄りがたい色が浮かんでいるじゃないか。
 「つい一週間前、五ポンド貸したばかりだぞ」
 「うむ、その寛大さを神も嘉することだろうよ」我輩は礼儀正しく応えた。
 「あれ以上、何に使う?」
 我輩は全貌を説明しかけたが、その矢先に、「やめろ!」という声を聞いたような気がした。何者かが、タッピーは虫の居所が悪いと囁いている。こいつは我輩をはねつけるつもりだ――この我輩を、パブリック・スクールでイートン式の襟を巻きつけていた頃から知っているこの我輩をはねつけるつもりだ。そこでふと目をやると、ドアのそばの椅子にタッピーのシルクハットが載っていた。タッピーは、官庁街をフランネルの背広にカンカン帽でうろつくようなだらけた役人とは違う。やつは礼にかなった服装をする。だからこそ、我輩も敬服しているんだ。
 「いったい、何のために金が必要なんだ?」
 「日々の出費さ、相棒。最近、生活費が高騰してね」
 「きみに必要なのは」とタッピーが言った。「仕事だ」
 「我輩に必要なのは」と、我輩は思い出させてやった――タッピーに欠点があるとすれば、それは本筋から離れたがることだ――「五ポンドだ」
 やつは何とも厭らしい仕草で首を振った。
 「借金で生きのびようなんて、ちょっと了見が違うぞ。何もぼくは金を惜しんでいるのじゃない」と、タッピーが言いだしたとき、我輩はピンときた。やつがこんなふうに高慢な外務省流の言葉遣いをするのは、この日、公務の方面でまずいことがあったからに相違ない。たぶん、スイスとの協約草案が第三国の女スパイに盗まれたんだ。この手のことは、外務省ではしょっちゅう起こる。顔をヴェールで隠した怪しげな女がタッピーの部屋に入ってきて、話に誘い込む。で、ふと振り返ると、機密書類を入れた青い長封筒が消えているんだ。
 「金を惜しんでいるのじゃない」と、タッピーは言った。「ともかくも、きみは定職に就くべきだ。心当たりがないか、考えてみよう。よく探してみないとな」
 「そのあいだのつなぎに」と我輩が言った。「五ポンドはどうだろう?」
 「駄目だ。金を渡すわけにはいかない」
 「たったの五ポンド」我輩は食い下がった。「たったの五ポンドだぜ、なあ、タッピー、相棒」
 「駄目だ」
 「役所の経費欄にちょっとメモしておいて、納税者に負担させろ」
 「ノー」
 「どういっても駄目か?」
 「ノー。気の毒だが、お引き取り願おう。はなはだ忙しくてね」
 「そうか、分かった」
 やつは再び書類の山に首を突っ込んだ。我輩はドアに近づくと帽子を拾い上げ、部屋を出た」(310~312ページ)

 中心となる登場人物は決して多くはないのだが、そのだれもが大変魅力的な性格を持っている。裕福な人気作家であるジュリア伯母さんは厳格な人物で、甥であるユークリッジのことを「冷えたチーズトーストみたいに」嫌っており(25ページ)、以下のような会話が頻発している。

「「お帰り」と伯母が言った。
 「ただいま」
 「戻ってきたのね」
 「うん」
 「そう。じゃあ、回れ右して出て行きなさい」
 「えっ、その」
 「そして、二度と戻ってこないこと」」(307ページ)

 他には、三話にわたってユークリッジとコーコランを振りまわす拳闘家バトリング・ビルソンや、旧友たちの一人で「イカレ野郎」のルーニー・クートなど。特にルーニー・クートに関するユークリッジの評価は素晴らしい。

「学校で一緒だったルーニー・クート、覚えてるよな? 生まれてこの方、精神鑑定委員会の目をタッチの差でかいくぐりつづけてきたどうしようもないイカレ野郎だが、桁の外れきった大金持ちでもある。やつのことでうろ覚えにでも覚えていることがあるなら、それは友達の中で一番やかましい笑い声と、ニヤついたときの口のでかさだろう。もう十年も前に精神に問題ありの診断を下されていて然るべき人間だが、まあ、性格が明るいことだけは間違いない」(393ページ)

 非常に狭い世界、そして次第にお決まりになっていくメンバーとともに物語が進行するため、一つ一つの作品と向き合うのがどんどん楽しくなる。本数で言って十五本の短篇作品が収められているのだが、あっという間に読み終わってしまった。一つの作品が終わったときに、もう片方のページの標題が目に入ると、本を閉じることができなくなってしまう。まったくもって中毒性が高い。

「ユークリッジという人間は、運命にこっぴどく裏切られたとなると陰気さを霧のように一面に振りまかずにはいられない性質なのだ。オッドフェロウズ・ホールから戻って数分は、不気味な沈黙が続いた。ユークリッジはミスター・プレヴィンを罵倒する形容詞を使い果たしていたし、僕のほうも、こんな大災厄のあとでは慰めなど嫌がらせにしか聞こえないと分かっていた」(268ページ)

 このユークリッジのシリーズ作品が決して多くないのは、まったくもって残念なことだ。その理由をウッドハウスの伝記を書いたこともあるロバート・マクラムが説明してくれている。

「自らについて書くという行為をウッドハウスは全力で避けつづけた。彼にとって、小説とは「周りにお構いなしに」人生の深淵をさぐるものではなく、自由かつ無責任に表層で浮かびつづけて、存在の苦悩などに煩わされないものだった。ユークリッジは最高のキャラクターであっても、ちょっとばかり実生活に近すぎたのだ」(ロバート・マクラム「序文」より、9ページ)

 去年『比類なきジーヴス』を読んだとき、この作家の記憶はすぐさま私の頭のなかで『ボートの三人男』の著者であるジェローム・K・ジェロームと結びつけられ並置されたのだが、今彼はジェロームを超えたばかりか、イアン・マキューアンの位置に向かって走り出している。手に入るものは、ゆくゆくはすべて読破したいと思った。

<読みたくなった本>
P・Gウッドハウス『エムズワース卿の受難録』
P・Gウッドハウス『マリナー氏の冒険譚』
P・Gウッドハウス『ドローンズ・クラブの英傑伝』
文藝春秋刊行の「P・Gウッドハウス選集」第二巻と第三巻。そして「続刊決定」と書かれたまま刊行の気配がない第五巻。追記(2014年10月22日):めでたく刊行されました。しかもいきなり文庫。

エムズワース卿の受難録 (文春文庫)

エムズワース卿の受難録 (文春文庫)

 
マリナー氏の冒険譚 (P・G・ウッドハウス選集 3)

マリナー氏の冒険譚 (P・G・ウッドハウス選集 3)

 
ドローンズ・クラブの英傑伝 (文春文庫)

ドローンズ・クラブの英傑伝 (文春文庫)

 

P・Gウッドハウスブランディングズ城の夏の稲妻』
P・Gウッドハウス『エッグ氏、ビーン氏、クランペット氏』
P・Gウッドハウスブランディングズ城は荒れ模様』
国書刊行会による「ウッドハウススペシャル」全三巻。最初に読んだのが同じ森村たまき訳の「ウッドハウス・コレクション」だったので、こちらも安心して手が出せる。

ブランディングズ城の夏の稲妻 (ウッドハウス・スペシャル)

ブランディングズ城の夏の稲妻 (ウッドハウス・スペシャル)