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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

異国トーキョー漂流記

 先日友人と会った折に、「外国から戻ってくると、今まで当たり前だと思っていた風景が日本独特のものだとわかる」というような話をした。それを受けて友人が薦めてくれた一冊。

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

 

高野秀行『異国トーキョー漂流記』集英社文庫、2005年。


 以前紹介した『ワセダ三畳青春記』『幻獣ムベンベを追え』につぎ、気がつけばこの著者の本もこれで三冊目である。同じ作家の本を三冊も読んでいれば、それはもう好きな部類に入れてもいいのだろう。だが、この作家を手に取るのは、愛着よりも気安さが理由である。日本語で書かれていて、しかもエッセイ、語り口は軽妙で、テーマも面白い。だいたい、鞄のなかには常に三、四冊の本が入っていて、しかも友人に薦められたのはつい一昨日のことだというのに、すでに読み終えてしまっているのがすごい。時間を割いた記憶もない。この気安さは、価値だと思う。

「そのアメリカ娘と一緒にいると、見慣れた東京の街が外国のように見えるのだ。漢字と仮名とアルファベットがごっちゃになった猥雑な看板群。くもの巣のように空を覆う電線。機械のような正確さと素早さで切符を切る改札の駅員……。
 これまで毎日のように目にしていたもの、だけど何とも思わなかったものが、ことごとく違和感と新鮮味を伴って、強烈に迫ってくるのだ。
「これはいったいなんなんだ?」私は思った。
 どうもアメリカ娘の感覚に自分の感覚が同調してしまうようなのだ。
 そのとき、私の目に映ったのは東京ではなく異国の「トーキョー」だった」(4ページ)

 高野秀行の著作は二つに大別することができる。辺境探検をテーマとした『幻獣ムベンベを追え』や『アヘン王国潜入記』といった、彼の本職とも言うべき冒険ものの著作群、それから『ワセダ三畳青春記』に代表されるような、前者に比べればよほど身近な、日本を舞台にしたエッセイだ。前者の冒険ものは、じつは『ムベンベ』一冊しか読んでいないのだが、これは読者の関心が著者の熱意とうまく合致しないと、読み進めるのが辛いことがある。勢いをもって読み終えてしまうのが一番なのだが、間隔を空けてしまうと、再び手に取るまでに時間がかかってしまうのだ。反面、もっと身近な後者は、一つひとつの章も短く、短篇感覚で読めるため、すいすいと進められ、ぱたっと中断もでき、すぐさま再開もできる。この本も後者である。

 書かれているのは著者の、日本を舞台とした外国人たちとの交流だ。探検がらみで出会った相手もいれば、著者の外国語習得のために探し出された人たちもいる。そして、彼らが語る日本の様相は、私たち日本人が知っているものとは違っているのだ。また、日本人が特に悪意もなくやっていることが、彼らを傷つけることだってある。

「何に怒っているのかよくわからないときが多いが、ときどきはわかることもある。
 例えば、「日本人の客がいちばんムカツクのはあたしの鼻に触ろうとすることよ」と怒っていた。金髪碧眼の彼女はキャバレーに勤めていた。客とはキャバレーの酔客である。
 すると、居合わせたモニカが答えた。
「あら、あんたはいいじゃない。日本人の好みだから。日本人っていうのは、ガイジンはみんな金髪で青い目をしてると思ってるのよ。私みたいなのはガイジンじゃないから英会話教師の仕事を探すのもむずかしい」
 モニカは縮れた黒髪を後ろに束ねている。もっとも彼女はギリシア人だ。
 英会話教師の仕事にはそれなりのルックスが必要とは知らなかった」(31ページ)

「ときどき、ポン引きが声をかけてくる。こう言われたときもある。
 「いらっしゃい、いらっしゃい……」と言いかけて、「あ、お客さんたち、日本人じゃないっスね?」
 「ちがうよ」と私は首を横に振った。
 「あー、ガイジンさんはねえ、ちょっとね、病気の関係とかあって、本番ダメなんスよ。その手前までなら大丈夫なんで、どうスか?」
 つまり、エイズが怖いから何人であろうが外国人とのセックスはお断りだ。でも、セックスをしないという条件なら歓迎する――そういう意味である。
 ずいぶんと身勝手で失礼な客引きである。別に女に興味はないからどうでもいいことだが、私は外国人の気分になっているだけに(そして、向こうもそう思っている)、面と向かってそんな暴言を吐かれて、腹が立った。言ってる本人が暴言であると気づいてないことに、同じ日本人として情けなくもなった。
 「彼はなんて言ったんだ?」ウエキが私の顔を覗きこんだ。
 「外国人には安くしとくってさ」笑いながら、私はウソをついた。
 ウエキも楽しそうに笑った」(142~143ページ)

 上に挙げた例はちょっとひどい。ひどすぎる。外国人云々どころか、人一般に対する敬意が足りない。それでも、ここまでひどくなくても、日本人は外国人との距離を自分たちから広げているところがあるように思う。相手が外国人であることを、意識しすぎている人が多いように思える。

 それから、これも日本人があまり知らないことの一つだ。

「カナダ移住計画とは矛盾したような話だが、達夫は日本国籍を取得することも考えはじめた。
 「それは中国のパスポートより日本のパスポートのほうが便利だからです」と彼は言う。中国人より日本人のほうが移民ビザをずっと取りやすい。日本から逃れるために日本人になるというのだ。
 「中国人は国籍が変わっても中国人。アメリカでもタイでもシンガポールでも、国籍がどこであっても関係ない。中国人です」
 すごく実利的だ。でも、面子はどうなるのか。中国人は面子が大事じゃないのか。日本に帰化するなんて中国人の面子が立たないのではないか。そう思ったら、彼は驚くようなことを言った。
 「私がカナダへ行く。フランスへ行く。いつも、パスポートのチェックがすごく厳しい。その横を日本人がノーチェックでどんどん通過していく。これほど悔しいことはありません。私は何も悪いことしてないのに。私の面子が立ちません。それも、日本のパスポートがほしい理由の一つです」」(176ページ)

 日本のパスポートはものすごく便利だ。まだフランスに住んでいたころに、ロンドン行きを計画していて、それを友人たちに話したことがある。相手はロシア人とベトナム人だった。彼らは口を揃えて「ビザを取らないと入れないぞ」と言った。「でも、俺たちはみんなEU圏内の学生ビザを持ってるんだから、問題なく入れるだろう」と反論してみたら、「そんなわけないだろ」と一蹴された。さらに「友人は観光ビザを取るための手続きをしてたよ」と言う。結局、入国審査は厳しくチェックされたものの、入れた。日本のパスポートがこれほど優遇されているとは、私もそのときまで知らなかった。

「オランダ人のフリッツという人は半年ばかりで簡単な日常会話ができるくらい上達した。彼によれば「オランダ、ベルギー、スイスの人間は外国語が得意だよ。国が小さいから言葉ができなきゃ生き残れないんだ」とのことである」(35~36ページ)

 生憎ベルギーの友人はいないのだが、ほかの二国のことは本当だと断言できる。アムステルダムに行ったときには、人びとがあんまり英語が上手なので驚いたし、パリで通っていた語学学校の同級生だったスイス人は、まだ十六歳だというのにイタリア語もドイツ語も英語も完璧に話していた。その少年の両親はアメリカ人で、家庭内で使う言葉は英語、住んでいる地域はイタリア語圏で、テレビを点けて流れてくるのはドイツ語だそうだ。フランス語の上達も恐ろしく早くて、十六歳に負けてられるか、と躍起になった記憶がある。

「あるとき、向かいの家の屋根にスズメがやってきた。チュンチュンと鳴いている。それを指差し、パロマは「ほら、パハロよ」と言った。私たちは当然“パハロ”がスズメを意味すると思った。
 ところが、テキストにやたらスズメが出てくる。スズメはたしかによくいる鳥だが、基本単語とは思えない。なんだろう、スペイン人はスズメが好きなのかなあとナナと話したこともある。
 しばらくして、またベランダで授業をしていたとき、カラスが飛んできた。私はパロマに「あれはスペイン語で何ていうの?」と訊いた。すると、パロマは大げさに驚き、「あら、あなたたち、知ってるはずよ」と言う。
 「え、何のことだろう?」私たちは顔を見合わせた。私たちは二人とも習った覚えがない。
 パロマが呆れたように言った。「もう忘れちゃったの? パハロじゃないの!」
 パハロとは、スズメではなく「鳥」の意味だった。英語のバードである。もちろん、スペイン語にも鳥とは別にスズメという言葉はある。しかし、日本人はどんな場面でも、スズメやカラスのことを指差して「鳥」ということはない。
 私は愕然とした。スペイン人と日本人は同じものを見ていても、別な見方をしている。そして、互いにそれが別のものだと気づかずにすごしている」(91~92ページ)

 どの言語を使うかによって、その人の思考はあらかじめ規定されている、と書いていたのはフロイトだったか。フーコーだったかもしれない。日本語でしか考えられないことがあり、同様に、英語でしか、フランス語でしか考えられないことがある。そんなことを考えさせる一節である。

 高野秀行の語り口は笑いに溢れていて、これもこの作家の魅力のひとつだ。

「出発前までは何も問題はなかったのだが、帰国してみると、彼女はすごくよそよそしくなっていた。「あなたがいない生活に慣れた」とか物騒なことを言う。
 「ご飯を食べようよ」と誘うと、それには応じるものの、ほんとうにご飯だけ食べてさっさと帰ってしまう。
 約束を破っているわけではないから文句の言いようもないが、これはちょっとまずいと私は思った。これでは彼氏ではなく“ご飯の友”、ふりかけのようなものだ」(80~81ページ)

「私は渋谷なんてとこは一年に一回行くか行かないかなので、全然知らない。知っているとすれば、ハチ公前だけなので、そこで落ち合うことにした。イラクから来たばかりの男だし、場所をまちがえたり道に迷ったりすると難儀だ。私は、懇切丁寧にハチ公の説明をした。
 「渋谷駅の前に大きな交差点がある。その前に広場があって、犬がいる」
 「犬? どんな犬? 何をしてる犬だ?」
 「いや、生きてる犬じゃなくて、犬の銅像がある。昔えらいことをした犬だ」
 「えらいことって何だ?」
 「いや、犬が昔何をしたかはどうでもいい。とにかく、犬の銅像があって、その周りがよく待ち合わせ場所に使われているんだ」
 「あー、『ハチコー』のことか?」
 なんだ、知ってるのか。早く言えよ、ほんとに。こっちがバカみたいじゃないか」(192~193ページ)

 このハチ公前で待ち合わせるイラク人とのあいだには、こんなやりとりがあった。

「週に三回ほど、彼と電話で日時を決め、ハチ公前で会うことにしたが、どういうわけかなかなか会えない。
 「次の木曜の三時」と決めていくと彼はいない。一時間待っても来ないのでしかたなく帰る。家からアリーに電話すると、「え、金曜日の三時じゃなかったの?」という。家にアリーから電話がかかってくるときもある。
 「タカノ、何してるんだ? もう四時だぞ」
 「え? 今日は六時からじゃないの?」
 「四時と言ったはずだが……」
 こんなことばかりだ。場所は決まっており、曜日と時間だけなのだが、二人の記憶が一致しない。私は何でもすぐに忘れてしまう人間なので、相手が「君はこう言った」とか「ぼくたちはこう言ったじゃないか」と言うと、そうかなあと思ってしまう。
 アリーも私と同種の人間らしく、「え、アリーがそう言っただろう」と私がときおり強く出ると、「あー、そうだっけ?……」と声も心もとなくなる。かわいそうというより、思わず共感してしまい、「まあ、いいや。じゃ、明日会おう」と言ってしまう。
 英語だけだと心配なので、日本語とアラビア語でも確認するようにしたが、かえって混乱を招いた。英語では火曜日と言っているのに、私は彼のアラビア語を勘違いして水曜日と思い、彼は私の日本語がわからずに、木曜日と思っているというふうである」(196~197ページ)

 これを読んだとき、あるある、と頷いてしまった。フランス語で待ち合わせをするときに、こういうことがしょっちゅう起きたのだ。フランス語では基本的に「午後二時に」というような時刻の指定はしない。「十四時に」と言うのだ。そして、これが慣れない。「十四時」はフランス語で「quatorze heures」、前後の単語の発音がくっついて「カトーズール」と読む。「十五時」なら「quinze heures」、「カーンズール」だ。あらかじめ決めていればいいのだが、電話口などで急に決めるとなると途端に混乱してしまう。そもそも頭では「二時」「三時」と考えているので、わけがわからなくなってしまうのだ。この混乱を回避すべく、日本式、というかフランス以外の方式で、「二時」を表す「deux heures」、と友人に言ったことがある。その友人は正午になって「どこにいるんだ?」と電話してきた。「二時」、つまり「deux heures(ドゥーズール)」を、「十二時」、つまり「douze heures(ドゥーズール、発音は同じ)」と勘違いしたのだ。「十二時だったら正午(midi)って言うよ!」と逆ギレした。

「親子三人のほかに、もう一人、住人がいた。茜さんというベビーシッターの女の子だ。ギャビンが「住み込みのベビーシッターを求む。給料はやらないが部屋と食事は提供する。私たちと一緒に暮らせば、英語が自然と身につく」という、無茶な求人広告を出したところ、無茶な学生の茜さんが応募してきたのだった」(114ページ)

 高野秀行は盲人のスーダン人とも交流している。目が見えずに外国に暮らすというのは想像を絶するほど大変なことだと思うのだが、このスーダン人はそれを感じさせない。パリで出会ったスイス人に、盲人の女の子がいたが、彼女もまるで苦労を感じさせない、とても明るい女の子だった。元気かなあ。

「人間は言葉と想像力で「見る」ことができる。そうでなければ、誰も十九世紀ロシアの小説なんか読まない」(234~235ページ)

 以前、ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』ギルバート・アデア『閉じた本』を読んで、目が見えないということと小説の親和性について考えたことを思い出した。

「披露宴がお開きになったとき、新婦の両親や親戚の人たちがやってきた。
 「あなたの話で、ジェレミーの家族がほんとうに立派な人たちだということがよくわかった。ほら、こっちは誰もコンゴのことなんか知らないし、ジェレミーの両親がどういう人かも知らなかったから。ほんとうに安心しました。どうもありがとうございます」
 まさに私はそのためにこの席に呼ばれたのだが、みなさん、私にお礼を言う。
 コンゴでよくしてもらって、それを報告したら、また感謝された。この披露宴でいちばんおいしい役どころだった」(73ページ)

 高野秀行は自分をよく見せようとしないのがいい、と言われる。おそらく、本人もそうあろうと意識しているのだろう。意識しすぎなところもある。たまにまったく共感できないことを考えていたり、とんちんかんな方向に思い悩んでいることもあるのだが、それも味のひとつとして楽しめる。長篇小説や大部の人文書などを読んで、読書に疲れているときには最適な一冊。息抜き読書にどうぞ。

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

 


<読みたくなった本>
フィリップ・ロスの著作
「ドンガラさんはその後、人生の大転換を余儀なくされた。
 コンゴが内戦に突入、家がある首都ブラザヴィルが廃墟と化してしまったのだ。
 彼は奥さんと子どもたちを連れて、アメリカに移住した。アメリカ文学の巨匠フィリップ・ロスらが中心となり、アメリカの作家たちが移民ビザの取得に協力してくれたという。ビザだけではない。ニューヨーク州にある大学に教授の職まで見つけてくれた」(124ページ)

父の遺産 (集英社文庫)

父の遺産 (集英社文庫)