Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ソクラテスの弁明

 先日『プロタゴラス』を読んで、前にプラトンを読んだのがもうずいぶん昔のことのように思われたので、本棚から学生時代に読んだ一冊を取りだしてきて、再読した。

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

 

プラトン(田中美知太郎訳)「ソクラテスの弁明」『ソクラテスの弁明ほか』中公クラシックス、2002年。


 ページを開いてみて、びっくりした。至るところに、鉛筆で線を引いたあとが残っていたのだ。本に線を引くということは、もうずいぶん前からしなくなっている。再読するたびに、そのときの年齢や心境が導いてくれるはずのものを、過去の記録が邪魔立てしてしまうと考えているからだ。きっと当時は、そんなことは思いもよらなかったのだろう。端から端まで線が引かれているようなページまであって、なんだか微笑ましくさえなった。今回引いた文章のほとんどは、その当時に線が引かれていた部分である。

 この『ソクラテスの弁明』はプラトンの作品のなかで、対話篇のかたちを採っていない唯一のものだ(『書簡集』は除く)。ソクラテスは「青年に対して有害な影響を与え、国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモンのたぐいを祭るがゆえに」告発され、死刑を要求されている(27ページ)。そして彼は、どうして自分がこんな的はずれな罪状をつきつけられることとなったのか、自分がどんなことをしてきたのかを、裁判官たちの前で語りはじめるのだ。

 ソクラテスを動かす最初のきっかけとなったのは、先日『プロタゴラス』を紹介したときにも書いた、デルポイの神託だ。ソクラテスの友人カイレポンがわざわざデルポイまで赴き、「ソクラテスよりも知恵のある者がいるか?」という質問を投げる。巫女の答えは「だれもいない」というもので、自分に知恵はないと考えていたソクラテスは、この神託に困惑した。そして自分よりも知恵のある者を探し求めて、プロタゴラスをはじめとするソフィストのような連中を相手に、論戦を繰り広げることとなったのである。

「この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男も、わたしも、おそらく善美のことがらは何も知らないらしいけれど、この男は、知らないのに何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている。だから、つまり、このちょっとしたことで、わたしのほうが知恵があることになるらしい。つまり、わたしは、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです」(18~19ページ)

「そこでわたしは、神託にかわって、わたし自身に問いなおしてみたのです。わたしにとってはどちらが我慢のできることなのか、いまわたしは彼らのもっている知恵はすこしももっていないし、また、彼らの無知もそのままわたし自身の無知とはなっていないが、これはこのままのほうがいいのか、それとも、彼らの知恵と無知とを二つとも所有するほうがいいのか、どっちだろう? というのです。これに対してわたしは、わたし自身と神託とに、このままでいるほうがわたしのためにいいのだ、という答えをしたのです」(22~23ページ)

 知者を名乗る連中を相手に、彼らの無知を悟らせるための論戦をつづけていれば、当然ながらたくさんの敵が生まれることとなる。ソクラテスを告発した首謀者たちは、「メレトスは作家を代表し、アニュトスは手工者と政治家のために、リュコンは弁論家の立場から」、ソクラテスを憎んでいたのだった(25ページ)。

「しかしじっさいは、諸君よ、おそらく、神だけがほんとうの知者なのかもしれないのです。そして、人間の知恵というようなものは、なにかもう、まるで価値のないものだと、神はこの神託のなかで言おうとしているのかもしれません。そしてそれは、ここにいるこのソクラテスのことを言っているように見えますが、わたしの名前はつけたしに用いているだけのようです。つまり、わたしを一例にとって、人間たちよ、おまえたちのうちでいちばん知恵のある者というのは、だれであれ、ソクラテスのように、自分は知恵に対してはじっさい何の値打ちもないのだということを知った者がそれなのだと、言おうとしているもののようなのです」(23~24ページ)

 ソクラテスは死刑についても、この「知らないことは知らない」という姿勢を貫き通す。『プロタゴラス』の詩歌に関する議論を読んだときにも思ったことだが、一貫性というのは知者の絶対条件で、ソクラテスの大きな魅力のひとつだ。

「死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのにあると思っていることにほかならないのです。なぜなら、それは、知らないことを知っていると思うことだからです。なぜなら、死を知っている者はだれもいないからです。ひょっとすると、それはまた、人間にとって、いっさいの善いもののうちの最大のものかもしれないのですが、しかし彼らは、それを恐れているのです。つまり、それが害悪の最大のものであることをよく知っているかのようにです。そしてこれこそ、どう見ても、知らないのに知っていると思っているというので、いまさんざんに悪く言われた無知というものにほかならないのではないでしょうか」(43ページ)

 論戦をやめることを約束して極刑を免れる、という考えに対しても、ソクラテスの意見は微動だにしない。

「わたしは、アテナイ人諸君よ、君たちに対して切実な愛情をいだいている。しかし君たちに服するよりは、むしろ神に服するだろう。すなわち、わたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり、けっして知を愛し求めることはやめないだろう。わたしは、いつだれに会っても、諸君に勧告し、言明することをやめないだろう」(44~45ページ)

 プラトンを読んでいると、その現代性にいちいち驚いてしまう。まったく古びていないのだ。現代人に必要なことは、もうすべてプラトンが書いているのではないか、と思われるほどに。2500年前に書かれたなんて、到底信じられない。

「世にもすぐれた人よ、君は、アテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけすぐれたものにするということに気もつかわず心配もしていないとは」(45ページ)

「わたしが歩きまわっておこなっていることはといえば、ただ、つぎのことだけなのです。諸君のうちの若い人にも、年寄りの人にも、だれにでも、魂ができるだけすぐれたものになるよう、ずいぶん気をつかうべきであって、それよりもさきに、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならない、と説くわけなのです。そしてそれは、いくら金銭をつんでも、そこから、すぐれた魂が生まれてくるわけではなく、金銭その他のものが人間のために善いものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては、魂のすぐれていることによるのだから、というわけなのです」(46ページ)

 これらの箇所を読んで、ケストナー『飛ぶ教室』を読み返したくなった。すなわち、「金や、地位や、名誉なんて、子どもっぽいものじゃないか。おもちゃにすぎない。そんなもの、本物の大人なら相手にしない」。まさかプラトンを読んでいてケストナーを思い出すとは思わなかった。

 ソクラテスによる演説は、彼が思っていた以上の効果をあげたものの、結局は僅差で有罪が確定してしまう。ギリシャの裁判は面白い。投票によって有罪と決定されたあとに、刑量が裁定されるのだ。そして原告による提議(この場合は死刑)に対し、被告が別の刑量を申し出て、裁判官たちはそのどちらかに罪を決める。死刑は極刑にすぎる感があったので、被告(ソクラテス)がここで「拘留」や「罰金」、または「国外追放」を求めていたら、有罪判決とはいえソクラテスが命を絶たれることはけっしてなかったと推測される。だが、彼が求めたのは「市の迎賓館における食事」という、裁判官たちを挑発するようなものだった(69ページ)。

「それはしかし、善いものなのか、悪いものなのか、わたしは知らないと言っているものなのです。それなのに、そういうもののかわりに、それが悪であることをよく知っているものの何かを、わたしはとらなければならないのでしょうか。そういうものを、わたしの科料として申し出なければならないでしょうか」(70ページ)

「危険それぞれに応じて、あえて何でもおこない、何でも言うとなれば、死を免れる工夫はたくさんあるのです。
 いや、むずかしいのは、そういうことではないでしょう。諸君、死を免れるということではないでしょう。むしろ、下劣を免れるほうが、ずっとむずかしい。なぜなら、そのほうが死よりも足が早いからです」(76ページ)

 下劣な目にあっても、下劣な方法をもってそれを逃れることはしない。ソクラテスの一貫性は、宗教的な陶酔さえ生むものだろう。500年ほど後のルキアノスの時代(紀元後2世紀)に、犬儒派や新プラトン学派が宗教的なものとなってしまったのも、無理のないことのように思われる。

「人間にとっては、徳その他のことについて毎日談論するという、このことが、まさに最大の善きことなのであって、わたしがそれらについて問答しながら自分と他人を吟味しているのを諸君は聞かれているわけであるが、これに反して、吟味のない生活というものは人間の生きる生活ではないと言っても、わたしがこう言うのを諸君はなおさら信じないであろう。しかしそのことは、まさにわたしの言うとおりなのです、諸君。ただ、それを信じさせることが容易でないのです」(72~73ページ)

 この『ソクラテスの弁明』は対話篇として書かれていない分、ソクラテスの思想が直接に伝わってきて、しかもその主題もより一般的だ。『プロタゴラス』のときのようなややこしい議論も、「アポリア(行きづまり)」もない。プラトンもよくここまで、身近な人の死の判決を、悲しみに陥ることなく書けたなあ、と思う。

「しかし、もう終りにしましょう、時刻ですからね。もう行かなければならないのです。わたしはこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、だれにもはっきりはわからないのです。神でなければ」(85ページ)

 ホワイトヘッドという哲学者の言葉に、「ヨーロッパの哲学の伝統は、プラトンに対する一連の注釈から成り立っている」という有名なものがある。もっとプラトンを読みたい、と思った。

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))