Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ゴルギアス

 プラトンの対話篇のなかでも、かなり長い作品。中公クラシックス版『ソクラテスの弁明ほか』に収められたものも、これで最後。

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

 

プラトン(藤澤令夫訳)「ゴルギアス」『ソクラテスの弁明ほか』中公クラシックス、2002年。


 この『ゴルギアス』は岩波文庫では300ページ程度の一冊として刊行されている作品で、中公クラシックス版『ソクラテスの弁明ほか』では、全体の三分の二を占める大作である。これじゃあ「ソクラテスの弁明ほか」というより「ゴルギアスほか」ではないか、と言いたくなってしまうのだが、きっと編者たちには、有名な『ソクラテスの弁明』から入らせて、この『ゴルギアス』にまで読者たちを導いていきたい、という意図があったのだろう。

 先日『クリトン』を挙げながら、対話篇という形式は、相手が違う意見を持っているからこそ生きる、と書いた。『ゴルギアス』はその証明とも言える作品で、ソクラテスはまるで意見の異なる三人の相手と議論を交わすことになる。すなわち、弁論家であるゴルギアス、その弟子ポロス、そして新鋭政治家のカリクレスである。話はまず、カリクレスのもとに滞在している著名な弁論家ゴルギアスを、ソクラテスとその友人カイレポンが訪ねるところからはじまる。

カリクレス:それは、本人にたずねてみるのがいちばんよいでしょう、ソクラテス。じっさいまた、この人にとっては、あなたが望んでいるそのようなことも、やはり弁論の腕前の見せどころの一つだったのですからね。
 げんに、いましがたも、このなかに集まった人たちに、だれでもよい、好きなことを質問するように、とすすめて、どんなことにでも答えてみせようと言っていたところなのですよ。
 ソクラテス:それは好都合だ。カイレポン、ひとつ君から質問してみてくれないかね、ゴルギアスに。
 カイレポン:何をたずねようか。
 ソクラテス:彼は何者であるかと。
 カイレポン:なんだって?
 ソクラテス:たとえばだね、彼が、かりに履物をつくるのを仕事としているとしたら、きっと、自分は靴作りであると、こう君に答えてくれるだろう。ぼくの言う意味が、わからないかね?」(141~142ページ)

 カイレポンの質問は、居合わせた弟子ポロスによって答えられることになる。とはいえソクラテスは、ポロスは質問に答えていないといい、カイレポン対ポロスの対話はすぐさま終わる。

ソクラテス:質問をうけたことがらに対して、ぜんぜん答えていないように思えるのですが。
 ゴルギアス:それなら、もしよければ、君からポロスに質問してみたらどうだね?
 ソクラテス:いいえ。もしあなたさえ、自分で答えてやろうという気がおありならば……。とにかく、わたしとしては、あなたに直接質問させてもらうほうが、ずっとありがたいのです。というのは、ポロスが練習をつんでいるのは、いまの話しぶりを聞いただけでも明らかなように、問答をとりかわして議論することよりも、いわゆる弁論術とやらのほうらしいですからね。
 ポロス:いったい、どうして、ソクラテス
 ソクラテス:ほかでもない、ポロス、君はね、ゴルギアスはどんな技術を心得た人かというのがカイレポンの質問だったのに、まるで人からその技術にけちでもつけられたかのように、ゴルギアスの技術をほめたたえるばかりで、肝心の「その技術とは何か」という問いに対しては、いっこうに答えなかったからだよ」(147ページ)

 こうして、ソクラテスゴルギアスとの対話がはじまる。カイレポンは以降、ほとんどまったく登場しなくなる。『プロタゴラス』を読んだときにも思ったことだが、プラトンソクラテス以外の登場人物たちに対して、けっこう冷たい。『プロタゴラス』では、青年ヒポクラテスの希望が前提にあって対話がはじまったのに、終わるころには彼は姿を消してしまっていた。もう少しからめてくれれば、物語性も増すと思うのだが。

ソクラテス:ところで、どうでしょう、ゴルギアス? あなたは、ちょうどいまわたしたちがやっているような一問一答の形で、このまま話し合いをつづけてゆくことに同意してくださるでしょうか。そして、ポロスがやりかけたような、例の長い演説のほうは、また別の機会にのばすことにも? どうかあいなるべくは、あなたが、約束していることを裏切ることなく、問われたことがらに手短かに答えるというやり方をつづけていく気になっていただきたいものです」(149~150ページ)

ソクラテス:わたしと同じ仲間の人間とは、どのような人間のことを言うか。それは、自分の言っていることに誤りがあればよろこんで反駁をうけるとともに、他人が間違ったことを言えばよろこんで反駁するような人間、しかし、どちらかといえば他人を反駁するよりも自分が反駁されるほうを歓迎するような人間です。つまり、わたしの考えでは、反駁するよりも反駁されるほうが、最も重大な害悪から他人を救いだしてやるよりも自分が救いだされるほうがいっそう善いのとちょうど同じ程度に、より善いことなのですから。重大な害悪と言うわけは、およそ人間にとって、いまわたしたちが論じているような問題について誤った考えをもつことほど重大な害悪はない、と思うからにほかなりません」(185ページ)

 ソクラテスプロタゴラスに対して採ったのとほとんど同じ方式で、ゴルギアスに「手短かに答える」ことを求める。じっさい、弁論家として登場するゴルギアスは、ソフィストとして登場したプロタゴラスに酷似している。「弁論術」と「徳」という、教えていることの違いはあれど、ソクラテスの質問の仕方もあのときとほとんど同じで、一般的なことからどんどん、本質的なことへと向かっていく。行きつく先は当然、弁論術とはそもそもなんなのか、という質問だ。

ゴルギアス:わたしの言うのは、言論の力で人を説得する能力のこと、すなわち、法廷では裁判官を説得し、政務審議会や国民議会ではそれぞれの議員たちを説得し、また、その他のおよそ国民的集会のあるところ、あらゆるばあいに、言論を駆使して説得することのできる能力のことだ」(165ページ)

ゴルギアス:よろしい。わたしの言うのは、こういう説得のことなのだ、ソクラテス。すなわち、それは裁判の法廷その他、大勢の人間が集まるばあいに効果を発揮するような説得であって、この点はついさきほどもわたしが言っていたところだ。そしてその説得は、正しいことがらや不正なことがらに関してなされるものである」(172ページ)

 しかし、説得には二種類のものがある、とソクラテスは言う。それは、知識を与えるという意味での説得と、ただ信じこませるだけの説得である。

ソクラテス:してみると、弁論術とは説得をつくりだす術だと言っても、その説得なるものは、どうやら、人にそれと信じこませるだけのことなのであって、正と不正の何たるかを知識として教えるような説得ではないわけですね?」(176ページ)

ソクラテス:そうすると、弁論家が医者よりも説得力があると言うばあい、それは、そのことがらを知らない人が知っている人よりも知らない人々のなかで説得力をもつということになりますね?」(190ページ)

 こうして弁論術の大家たるゴルギアスは沈黙してしまう。ソクラテスにかかれば、徳にせよ弁論術にせよ、結局は正と不正のなんたるかを教えられるか否かということに問題が還元されるのだ。

ソクラテス:いったい、弁論家というものは、正と不正、美と醜、善と悪といった問題についても、やはり健康その他いろいろの技術の対象となることがらを扱うばあいと、同じ態度でいてよいのでしょうか。つまり、何が善であり何が悪であるか、何が美であり何が醜であるか、何が正しく何が不正であるかといったことがらそのものに対する知識なしに、ただ、そうした問題についての説得法だけを工夫して、それによって無知な人々のあいだで、じつは自分はその知識をもっていないのに、識者よりももっと知識があるように見せかけるというわけなのでしょうか。それとも、このばあいにはそうした知識が不可欠であって、将来弁論術を学ぼうとする者は、かならずあらかじめそれを知ったうえであなたの門をたたくのでなければならないのでしょうか。そうでないばあいには、弁論術の先生としてのあなたは、入門者に対してそうした知識はなにひとつ授けはしないけれども――それはあなたの仕事ではないわけですから――、ただ大勢の人間のなかで、そういったことがらを知らないのに知っていると思われるようにしてやり、じっさいはすぐれた人間ではないのにすぐれていると思われるようにしてやるのでしょうか? あるいは、そういった問題に関して真実をまえもって知っていてもらわなければ、入門者に弁論術を教えることはぜんぜん不可能なのでしょうか?」(191~192ページ)

 だがここで、面白いことが起こる。最初に登場したポロスが、ソクラテスの質問の仕方はおかしいと言って、みずから対話の相手となることを名乗り出るのだ。こうして対話相手はゴルギアスからポロスへと変わる。

ポロス:なんたることを、ソクラテス! いったいあなたは、弁論術について、ほんとうに、いまあなたが言っているような考えをもっているのですかね? それとも、あなたのつもりでは……。いや、そもそもゴルギアスが、弁論術をおさめた人間が正や美や善のことも知らないなどとは、ちょっと気がひけて認めるのをためらい、この人のところへ来る弟子にその知識がなければ自分が教えるだろうと同意したのを幸いに、そして、おそらくこの同意のために、あとに話に矛盾した点が出てきたのを幸いに……、そこがまさに、あなたの思うつぼなのだ。自分でわざとそういう質問のほうへ人を誘導しておきながらね」(198~199ページ)

 ソクラテスは当然歓迎し、今度はポロスのほうがソクラテスに同じ質問をぶつける。それでは、あなたの考えでは、弁論術とはどんな技術なのか、と。それに対するソクラテスの答えは、いかなる技術でもなく、たんなる経験にすぎない、というものだった。そしてそれは、医術に対する料理法の関係に似ている、と言う。

ソクラテス:ぼくはこの料理法のようなのを技術としては認めずに、たんなる経験にしかすぎないと主張する。なぜなら、それは、自分がほどこすものがどのような本質的性格をもつかについて、なにひとつ理論的説明を与えることができず、したがって、それぞれのばあいになぜそうなるかという原因を言うことができないからだ。ぼくとしては、いかなるものにせよ、理論的説明のないようなものに対して技術の名を与えるわけにはゆかない。こうした点についてもし君に異議があるならば、いくらでもぼくはそのための説明を与えよう」(213ページ)

 ソクラテスによると、技術にはそれぞれ魂と身体を対象とした二種類の真正の技術がある。魂に対する「政治術」、身体に対する「身体の世話をする術」が、それにあたる。それぞれにはさらに二つの部門があり、「政治術」には「立法術」と「司法術」が、「身体の世話をする術」には「体育術」と「医術」がある。そして、この四つの真正の技術には、それぞれに対応した、たんなる経験にすぎない偽技術(おべっか)があり、それは「立法術」に対する「ソフィストの術」、「司法術」に対する「弁論術」、「体育術」に対する「化粧法」、そして「医術」に対する「料理法」だと言うのだ。

 ここから、議論はさらに発展する。ポロスは、すぐれた弁論家は自分の意のままに政治をおこなうことができる実力者だというのに、彼らがおべっか使いとして見下げられているとでも言うのか、と、かつてない喧嘩腰でソクラテスに食ってかかるのだ。

ソクラテス:もしだれかが何かのために何かをするとすれば、その人は直接自分がしていることを望んでいるのではなく、そのためにそれをしている、もう一つさきのことを望んでいるのではないか」(225ページ)

ポロス:すると、だれかが自分の思いどおりに人を死刑にしてその行為が正しいとしたばあい、あなたはそういう人を惨めで憐れむべき人間だと思うのかね?
 ソクラテス:いな。そうかといって、羨むべき者だとも思わない。
 ポロス:たったいま、惨めだと言ったではないか。
 ソクラテス:いかにもそう言ったよ、君、人を不正に死刑にする者のことをね。そういう者はさらにまた、憐れむべき人間でもあるのだ。これに対して、死刑にすることが正しいばあいには、そういう人を羨ましくはないと言っているのだ。
 ポロス:不正に死刑にされて死んでいく者こそ、憐れで惨めだろうに!
 ソクラテス:死刑にしたほうの者よりはましだよ、ポロス。また、正しく死刑にされた者よりも惨めさは少ない」(232~233ページ)

 こうして、不正を受ける者と不正をする者の、どちらがより惨めなのかという、『ソクラテスの弁明』や『クリトン』にも見られたテーマが浮かびあがってくる。

ソクラテス:おめでたき友よ、君が一所懸命になっているのは弁論術流の反駁の仕方なのだ。ちょうど、裁判の法廷などで相手を反駁していると信じている人たちがするようなね。というのは、法廷でもやはり、一方の組が相手側を反駁すると思われるのはどういうばあいかというと、自分たちが述べることがらの証人になってくれる有名人はたくさんいるが、これに対する相手側の証人は一人もしくは皆無といったようなばあいなのだから」(244~245ページ)

ソクラテス:しかしながら、ぼくは、たとえこちらはぼく一人であろうとも、君に同意はしない。なぜなら、君は、ぼくが同意せざるをえないようなことは何も言っていないのだから。君がしていることはと言えば、ただ、偽りの証言をする人たちをわんさとぼくに差し向け、それによってこのぼくを、ぼくの大切な財産である「真実」から追放しようとつとめることなのだ」(245~246ページ)

 そして、ポロスもとうとうやりこめられてしまう。

ソクラテス:人は弁論術を使って、まずだれよりも自分自身を告発しなければならぬし、さらには、身内の者たちでも、それ以外の親しい者たちでも、もし不正をおこなう者があれば、そのつどこれを告発して、その罪を包みかくさずに明るみに出さなければならない。罰を受けて健全になるために」(289ページ)

 ここで、第三の対話相手、カリクレスが壇上に現れる。『ゴルギアス』が面白いのはここからだ、と言っても言い過ぎではない。ポロスの反駁が止んだ時点で終了してしまっていたら、これが特別な作品となることもなかっただろう。

カリクレス:わたしをして言わしむれば、ポロスのやり方で感心しないのは、不正を受けるよりも不正を加えるほうが醜いということをあなたに容認したこと、まさにこの点である。なぜなら、この点に同意を与えたばっかりに、こんどは、彼自身が議論のなかであなたのために金縛りにされたあげく、すっかり口を封じられてしまったのだが、それというのも、彼が心に思っているとおりのことをそのまま口に出して言うのを恥じたからにほかならない。
 まったく、あなたという人は、ソクラテス、真実を追究すると称しながら、そういうところへ話をもっていって、月並みな考えで俗耳につけ入ろうとする人なのだ。あなたの議論で言われていたことがらは、自然(ピュシス)本来の根拠にもとづいて立派なことなのではなくて、ただ法律習慣のうえで美風とされているだけなのだから」(297~298ページ)

カリクレス:そもそも法の制定者というのは、思うに、世の大多数を占めるそういう力の弱い人間どもなのだ。だから、彼らが法を制定して、これは賞讃すべきこと、これは非難すべきことなどときめて、賞めたり咎めたりしているのは、要するに、自分たちの身の上を心配し、自分たちの利益をはかろうという目的からにほかならない。つまり、彼らは、人間たちのなかでも力のすぐれた人たち、自分の権利の優位を主張するだけの能力をもった人たちをおどかして、自分たちの持ち分がそういう人たちに侵されないように、欲ばるのは醜いことだ、不正なことだと言いたて、不正とはまさにそのように他人よりも多くを持とうと求めることにほかならぬと説く。思うに、自分たち自身は劣等な連中なのだから、平等の分け前さえあれば、それでじゅうぶん満足できるからだろう」(299ページ)

 カリクレスの過激な思想は、19世紀になってニーチェに感銘を与え、『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』を書かせたものである。彼は法律習慣・道徳観念を、弱者が保身のためにこしらえたものであるとして、徹底的に排斥していく。ソクラテスの姿勢そのものも、かつてない攻撃にさらされる。

カリクレス:あなたもいいかげんにもう哲学から足を洗って、もっと人間の重大事に向かうならば、この真相がわかるようになるだろう。
 というわけは、哲学というものは、たしかに、ソクラテス、若い年ごろにほどよく触れておくだけなら、けっして悪いものではない。しかし必要以上にそれに打ち込んで時間をつぶすならば、人間をだめにしてしまうものだ」(303ページ)

カリクレス:親愛なるソクラテス、どうかわたしの言うことに気を悪くしないでいただきたい、こんなことを言おうとするのも、あなたに好意をもっていればこそなのだから――あなたは、そんな状態でいることを恥ずかしいとは思わないのだろうか。
 このわたしの見るところでは、そのような状態にあるのはあなただけでなく、一般に哲学にたえずますます深入りしていく連中はみんな同様なのだが。じっさい、かりにいまだれかが、あなたなり、あるいは、ほかのそういった連中のだれでもよいからその一人を、何の罪もないのに、悪いことをしたと言って逮捕し牢屋にひっぱって行ったとしても、さぞかしあなたは、なすすべもなく茫然とし、言うべき言葉もわからぬままに、ただ大口をあけていることしかできないだろう。そして法廷へ出頭したならば、あなたを告発する者がどんなにつまらない、やくざな人間だったとしても、もしその男が死刑を求刑する気になれば、あなたは死刑にされてしまうことだろう。
 とはいえ、そんなことで、いったい、どうして知恵の名に値すると言えようか、ソクラテス? 「天稟すぐれた人間をひきとり、つまらぬ男にしてしまう術」がどうして「知」なのか。われとわが身をまもることもできず、最大の危険から自分をも何人をも救いだすこともできずに、敵どもから全財産を残らず巻きあげられるにまかせ、あげくのはてには、一国において文字どおりいっさいの権利を奪われた生活をおくるような、そんな人間にしてしまう技術がどうして「知恵」と言えようか」(307~308ページ)

 カリクレスは辛辣である。ソクラテスがこれほどまでに力強い反論を受けるのは、なかなか見られないことだ。驚いたことに、このカリクレスは実在した人物ではなく、プラトンによる創作である、という見方が強いそうだ。捏造の論敵にこれほどの理論を開陳させ、しかもそれがニーチェまで生んでいるというのだから、先日も挙げたホワイトヘッドの言葉「ヨーロッパの哲学の伝統は、プラトンに対する一連の注釈から成り立っている」は、あくまで正しかったことになるのではないだろうか。

カリクレス:人は、正しい生き方をするためには、自分自身の欲望を抑制するようなことはしないで、これを最大限にゆるしてやり、そして、勇気と思慮をもってその最大限にのばしたもろもろの欲望にじゅうぶん奉仕し、欲望の求めるものがあれば何でも、そのときそのときに、これを充足させてやるだけの力をもたなければならぬ。しかしながら、けだしこのようなことは、とても世の大衆のなしうるところではない。そこで、彼ら大衆は、それにひけ目を感じるがゆえに、こうした能力ある人たちに非難の矢を向けるのであるが、これも、つまりは、おのれの無能力をおおい隠そうという魂胆にほかならぬ。そして口を開けば、放埒は醜いことだと主張して、さきの話のなかでわたしが言ったように、生まれつきすぐれた素質をもつ人たちを抑えつけ奴隷化しようとするわけだ。そしてまた、自分たちは快楽に満足を与えることができないものだから、しきりと「節制」や「正義」を賞めたたえるけれども、それは要するに、自分たち自身に意気地がないからなのだ」(329~330ページ)

 ソクラテスは、今度はカリクレスを相手に対話を繰り広げていくが、カリクレスはこれまでの二人とは違って、なかなかすんなりとは同意してくれない。

カリクレス:この人ときたら、いつまでたっても、つまらぬたわごとをやめるときはないのだろう! あなたにうかがいたいが、ソクラテス、そんないい年をしていながら言葉尻をつかまえることばかりに汲々としていて、あなたはいったい恥ずかしくないのかね? 人がちょっと表現の仕方を間違えれば、それをもっけの幸いと喜ぶようなまねをしていて!」(318ページ)

カリクレス:ほんとうを言うと、ソクラテス、わたしはね、だいぶまえからあなたの言うことにうんうんとうなずきながら、じっと聞いていたけれども、しきりとこんなふうに思われてならなかったよ。さぞやこれでは、だれかがたとえ冗談半分にでも何かあなたの言うことを認めてやれば、あなたはきっと子供のように大喜びでそれにしがみつくだろう、とね」(367ページ)

 ポロスも同じようなことを言っていたが、ソクラテスによる一問一答形式の対話の進め方がご都合主義的なものだということを、これほどまでに繰り返した論敵もそうそういないであろう。ところで、こんな質問があった。

ソクラテス:では、さらに、かの荘重にしてすばらしい詩形式、悲劇の創作が熱心に心がけるものは何であろうか。それが真剣になってつとめているのは、君の見るところでは、どちらだと思うかね? 観客を喜ばせるということだけだろうか。それとも、観客にとって快いこと、気に入られることであっても、それが有害であるばあいにはそのようなことがらはけっして作品のなかで語るまいとつとめ、逆に、快くはないが有益であるようなことがあれば、観客が喜ぼうと喜ぶまいと、そういうことがらをこそ台詞のなかにも合唱隊の歌のなかにも織りこむようにしようとつとめるのであろうか。君には、悲劇の創作が心がまえとしてもっているところは、このどちらだと思えるかね?」(380ページ)

 カリクレスの答えは「観客を喜ばせる」ということだった。残念ながらこの点にはまったく同意できないし、ソクラテスですら、さも自分もそれと同意見であるかのようにさっさと議論を進めてしまうのだが、ほんとうのところはどうなのか、立ち止まって考えてみてもいい問題だろう。古代と現代の考えかたの違いは大いにあるとはいえ、詩作や劇作を単なるおべっかとして見てしまうのはもったいないと思う。

カリクレス:わたしには、あなたの言うことなど、まったくどうでもかまわぬのだ。これまでのことも、ただゴルギアスのために答えたまでなのだから」(394ページ)

カリクレス:人をやりこめたくてたまらないのだね、ソクラテス」(429ページ)

 カリクレスの意思は鋼のように固く、ソクラテスがどんなことを言っても、彼から真の意味での同意を得ることはできない。とうとうカリクレスは対話の相手となることを拒否してしまい、以後はソクラテスがひとりで、カリクレスならこう答えるという前提のもとに、議論を進めていこうとする。が、ソクラテスがいちいち同意を求めるものだから、カリクレスも結局は口出しをすることになる。

ソクラテス:いや、君、よく考えてみたまえ、気高いとか、すぐれているとかいうことは、安全に救うとか、救われるとか、そんなこととは別のことがらではないだろうか。どれだけの期間生きながらえるかというようなことをくよくよ考えて、いたずらに生命を惜しんだりするのは、いやしくも真の男子たる者のなすべきところではないだろうからね。いや、そうした点については、いっさいを神にまかせ、女たちの言うとおり、何人も定められた死の運命をまぬがれることはできぬと信じて、考えるべきはそのつぎに来る問題、すなわち、いかにすればその定められた生の期間をできるだけ善く生きることができるかという問題なのだ」(421ページ)

 直接プロタゴラスの名が挙がることはないが、ソフィストたちの矛盾も指摘される。それもやはり、不正を受けることと不正を働くこととの関係から逸脱したものではない。

ソクラテスソフィストたちもやはり、ほかのいろいろのことにかけてはよく知恵のまわる人たちだが、この点については、どうも彼らのすることはおかしいと言わねばならぬ。なぜなら、彼らは、みずから徳の教師であると公言しているくせに、しばしば自分の弟子たちを非難して、弟子たちが彼らから恩恵を受けたにもかかわらず謝礼金を拒んだり、そのほかの礼をはらわなかったりして、自分たちに対して不正を働くといって詰ることがよくあるからだ。
 しかし何が馬鹿げていると言って、いったい、こんな理屈にあわぬ話がほかにあるだろうか? 弟子たちが、先生によって自分のなかから不正を取り除いてもらい、正義の徳を身につけたうえで、すぐれた正しい人間になったというのに、彼らがもはやもっているはずのないその悪徳によって、こともあろうに不正を働くとは!」(446ページ)

ソクラテス:人に善くしてやるのにもいろいろ種類があるけれども、そのなかでただ一つ、いま言ったようなことがらに関して善くしてやるばあいだけは、善くしてもらったほうの者の心にその恩を返したいという気持を起こさせるはずのものだから、そういう種類の恩恵を与えることによって人に善くしてやり、そのあとで相手から恩返しとして善いことをしてもらうとすれば、それは、自分の仕事がうまくいった証拠であると思われるし、もし恩返しを受けることがなければ、その逆ということになるわけなのだ」(451~452ページ)

 ソクラテスは、自身の未来に対する予言ともとれるようなことも言っている。

ソクラテス:しかしぼくは、これだけはよくわかっているのだ。もし、いつの日か、ぼくが法廷へ引き出されて、君の言うような危難にあうとしたら、そのばあい、ぼくをそこへ引っぱり出す者はきっと邪悪な人間にちがいあるまいと。なぜなら、罪をおかしてもいないのに法廷へ引っぱり出されるようなことは、善い人間ならばだれもしないだろうからね」(455ページ)

 そしてとうとう、ソクラテスがカリクレスのような論理を排して、「善く生きる」ことに執着している理由が明かされる。これもまた、『ゴルギアス』の大きな魅力のひとつだ。『プロタゴラス』や『クリトン』などでは、「アポリア(行きづまり)」や相手からの同意によって終わっていた議論が、ここではソクラテスの死生観にまで広げられているのだ。

ソクラテス:では、聞くがよい、世にもすばらしき物語を……と、ぼくは語部をまねて、この話をはじめよう。これを君は、きっと作り話(ミュートス)だと考えるだろうと思われるが、しかしぼく自身は、ほんとうの話(ロゴス)だと考えているのだよ。と言うのは、ぼくは、これからはじめようとしている話の内容を真実のことと見なして、君に話すつもりなのだからね」(460~461ページ)

 その物語というのは、こうだ。人はその死後、アジアに生まれた者ならラダマンテュスに、ヨーロッパに生まれた者ならアイアコスによって裁かれる。死者たちは三叉路にて判定をくだされ、幸福者たちの住む島か、冥府タルタロスへと送られることになる。その際、ゼウスの決めた裁判のやりかたに基づき、死者たちはまったくの裸、魂のみの状態でその場に臨まなければならない。

ソクラテス:死とは、ぼくの考えるところによれば、魂と肉体という二つのものがたがいに分離しあうということなのであって、それ以外のなにものでもない。そこで、この二つのものがたがいに分離したのちには、両者のどちらも、その人間が生きていたときにもっていたのとほとんど変わらぬ自己の状態を、それぞれそのまま保持しているわけだ」(465ページ)

ソクラテス:かくして、死者たちが裁判官のところまでやって来ると、すなわち、アシアから来た死者たちならばラダマンテュスのところまでやって来ると、ラダマンテュスは彼らに停止を命じて、一人一人の魂をつぶさに観察するのであるが、そのさい、自分の見ている魂が何者の魂であるかは彼の知るところではない。いや、しばしば、ペルシア大王であろうと、その他どのような王や権力者であろうと、それとわからずにつかまえてみると、その魂にはなにひとつ健全なところがなく、誓いを破ったり不正をおかしたりしたために、さんざん鞭打たれて瘢痕だらけであるのを、まざまざと見てとるのである。これこそは、生前における彼の行為の一つ一つが魂のなかに消しがたく刻印したところのものなのだ」(466~467ページ)

 さらにソクラテスによれば、タルタロスにおいても、現世と同じように、刑罰には二通りの種類がある。つまり、罰を与えることで当人を改善するためのもの、それから、改善の余地がないと判断され、さまざまな責め苦にあっているのを他者に見せることで、それを見る人々に心を改めさせるためのもの。そして後者、すなわち冥府における「見せしめ」の対象となるのは、権力者たちなのだ。

ソクラテス:じっさいまた、ぼくは思うのだが、そういった見せしめとされる者たちのうち、そのほとんどは、前身が独裁者とか、王とか、権力者とか、国事を動かした指導者といった人たちなのだ。ほかでもない、これらの人たちは、自分が何でも自由勝手にできる身分にあるために、そのおかすところの罪過も他のだれよりも大きな、不敬虔きわまるものとなりがちだからである」(469ページ)

 権力を持たない者には、それを持つ者ほどの罪を犯すことができない。権力を欲するカリクレスに、はたしてこの言葉は響いたのだろうか。ここまでくると、もう語るのはソクラテスばかりで、他の人々はだれもが黙ってしまっているのだ。

ソクラテス:かのラダマンテュスが右のような人間をだれかつかまえたとき、その人間に関するほかのことがらは、それが何者であるかということも、どんな家柄の出であるかということも、いっさいラダマンテュスの知るところではない。ただ、邪悪な人間であるという事実だけがはっきりと彼にわかるのである。この点を見とどけたならば、ラダマンテュスは、治癒の見込みがあるかないかの裁定を示す標識をつけたうえで、この人間をタルタロスへ送る。そして、その人は、そこへ行きついたのち、そのような人間にふさわしい仕置きを受けるのである。
 しかし、ときにはまた、別の魂をしらべてみて、それが神の意にしたがい真実を守りながら一生を送った魂であることを見てとることもある。それは、ふつう一般の人の魂であるばあいもあるし、他のだれかの魂であるばあいもあるが、しかしぼくは、ここでつよく主張したいのだ、カリクレスよ。それは、とりわけ他の何者にもまして、知を愛し求めてきた哲学者の魂、その生涯においてみずからの本分を守り、よけいなことには手出しをしなかった哲学者の魂であることを。このような魂を見ると、ラダマンテュスは、心をよろこばせて、これを幸福者たちの島へ送ってやる」(471~472ページ)

ソクラテス:だからぼくは、世の多くの人々の評価を気にかけるのはやめて、ただ真実を身につけることを習いながら、生きているあいだも、死ぬ時が来たら死んでゆくときも、ぼくの力のおよぶかぎり、ほんとうの意味ですぐれた善き人間であるようにつとめたいと思っている。
 そして、ぼくにできる範囲内で、他のすべての人々にも、そうするように勧めるつもりだが、とくに君に対しては、さきの君の勧めへのお返しの意味をこめて、この生き方をともにし、この競争に参加するように勧めたい。この競争こそは、ぼくをして言わしむれば、この地上でおこなわれるありとあらゆる競争の全部にも匹敵するだけの価値があるものなのだ。
 また、ぼくは、さきの君の非難へのお返しとして、ここで君を非難したい。ぼくがさっき話したような裁判と判決に君がのぞむとき、君は「自分自身を守る」ことができないだろうと。いや、君が裁判官のもとへ、あのアイギナの子(アイアコス)のもとへ行ったとき、彼が君をつかまえて引き立てようとするにおよんで、かの世における君は、この世におけるぼくにすこしも劣らず、「ただ大口をあけて、なすすべもなく茫然としている」ことだろうと」(473~474ページ)

 最後にはご丁寧に、ソクラテス自身による議論のまとめが用意されている。

ソクラテス:人は、自分が不正を受けることを警戒するよりも不正をはたらくことのほうを警戒して避けなければならぬ。人間がなににもまして心がけねばならぬのは、公私いずれにおいても、すぐれた人間だと思われることではなく、じっさいにすぐれた人間であるということだ。しかし、もし人がなんらかの点で悪しき人間となったならば、かならず懲らしめを受けなければならぬ。そして、そのことこそは、正しい人間であることについで第二番目に善きことなのである。すなわち、懲らしめられて罰を受け正しい人間となることが。また、あらゆるおべっかは、それを向ける相手が自分自身であれ他人であれ、少数の人間であれ大勢の人間であれ、すべてこれを避けなければならぬ。そして、弁論術もこのように、つねに正しいことに役だてるためにこそ用いなければならぬ。他のすべての行為と同じように」(475ページ)

 まるきり要約のようなものになってしまった。正直、プラトンは感想を書きにくい。わかりやすい言葉で議論をどんどん進めるものだから、感想を差し挟む間もなく、議論の変遷ばかりが積み上がってしまうのだ。

 だが、繰り返しになるが、ソクラテスの死生観が語られたという点で、この『ゴルギアス』はとても興味深い作品になっている。というのも、死生観ほど、哲学を根本的に支える要素となったり、それを揺るがす要素となるような、強大な力を持ったものもないからだ。『ソクラテスの弁明』では「死後の世界はわからない」と言っていたのと同じ人物が、ここでは、みずからの信じる死後の世界を語っている。輪廻をはじめとして、死後の世界がどうなっているのかという想像には、じつにたくさんの種類があるものと考えられるが、その一つ一つが、それぞれ違った哲学を生んでいるのかもしれない、と思った。ニーチェが放った「神は死んだ」という言葉は、彼自身の哲学のために、死生観の転換が迫られた結果なのではないだろうか、とも。死んだらどうなるか、という考えかたは、ただ宗教的なものとして扱うわけにはいかない、哲学におけるもっとも重要な要素のひとつなのかもしれない。

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

 


<読みたくなった本>
ニーチェ『善悪の彼岸』

善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

 

ニーチェ『道徳の系譜

道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)

道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)

 

プラトンパイドン
プラトン『国家』
プラトン『パイドロス』
→『ゴルギアス』と並んで、「プラトンの四大エスカトロジー(死後における魂の運命を物語る)のミュートス」と呼ばれる挿話が含まれている作品たち。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 
国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 
パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)