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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

地獄

 向田邦子のエッセイ『父の詫び状』のなかで、魅力が語られていた一冊。日本でもフランスでも、今ではほとんど忘れられてしまった作家、バルビュスが1908年に発表した作品。

地獄 (岩波文庫 赤 561-1)

地獄 (岩波文庫 赤 561-1)

 

アンリ・バルビュス(田辺貞之助訳)『地獄』岩波文庫、1954年。


 1954年の翻訳、しかも旧漢字なので、びくびくしながら読みはじめたのだが、思いのほか訳文が読みやすかった。語り手は三十歳の男なのだが、一人称は「ぼく」。普通だったら「わたし」と訳してしまいそうなものだが、この「ぼく」という言葉は、延々とつづく語り手の独白という形式に、見事に合っていると思う。

「ぼくもいつかは死ぬだろう。だが、それを今まで考えたことがあるだろうか。と、心にたずねてみるが、いや、一度もない。運命は、太陽と同じで、まともに直視することができない。もっとも運命は灰色のものだが」(10ページ)

 この『地獄』について語ろうとするなら、「のぞき」という言葉は欠かせない。田舎から出てきたばかりの「ぼく」は、パリのホテルの一室で、隣室を見わたせる「のぞき穴」を発見するのだ。「のぞき」という言葉には、どうしてもエロティックな香りが付きまとう。そして読者の期待を見越してか、隣室には当然のように女がいる。

「彼女はひたひたと身に迫る、蒼茫として無限の空間をながめている。眼がきらきら光っている。まるで泣いてでもいるようだ。が、そうではない。その眼からあふれるものは、ただ明るさだけだ。眼はそれ自体の性質で光なのではない。光そのものにほかならないのだ。もし真実が地上に花と咲いたら、彼女は天使になるだろう」(19ページ)

 隣室の様子が執拗なまでに描写され、読者は自分も一緒になって部屋をのぞいているような錯覚に襲われる。動揺するほどのスリルだ。読み進めるスピードも、おそろしく速くなる。

「その部屋は、ぼくの足許に横たわっている。たとえ空っぽでも、われわれが道で行きあい、そのなかにまじって暮している人々よりも、生きいきしている。あまりにも数が多くて、誰が誰やら判りもせず、なにをしても忘れられる人々、嘘をつくために声をもち、心をかくすために顔をもっている人々よりも、その部屋のほうがはるかに生きいきしている」(25ページ)

「ぼくはこの女がここへ来ているいきさつを理解しようともしないし、この女を眼で所有するという、自分のこれから犯そうとしている罪を詮議しようとも思わない。ぼくはふたりが因縁のきずなに結ばれていることを知っている。そして、全身、全霊、全生命をもって、女がぼくに真の姿を見せることをこいねがう」(32ページ)

 そしてとうとう、女の着替えの瞬間に立ち会うことになる。その描写のしつこさといったら、もう「早く脱げよ!」と叫びだしたくなるほどだ。

「女はついにあらわな姿を見せた。
 靴をぬぐために、非常に高く脚をくみ、肉体の深淵をぼくの眼にさらした。
 きらきら光る編上靴にとじこめられていた上品な足や、にぶい色の絹の靴下につつまれていた、ほっそりした膝頭や、華奢な足首のうえに、優美な壺のようにゆたかに開いたふくらはぎなどを見せた。ひかがみのうえ、ちょうど靴下が白くぼやけたくぼみのなかに終っているあたりには、おそらく素肌がのぞいているのだろう。ぼくには、やっきになって邪魔をする闇や、女におそいよる薪のちらつく輝きとで、下着と肌の見分けがつかない。あれは下着のやわらかい布なのだろうか、それとも素肌なのだろうか。無なのだろうか、すべてなのだろうか。ぼくの視線はその裸身を得ようとして、闇や炎と争った。額を壁に、胸を壁にぴたりと寄せ、壁を打ちたおし、突きぬこうとするほどに、拳で必死に押しながら、こうしたとりとめのない不確かさに眼がいたくなるほど、なんとかして、腕ずくでも、もっとよく見よう、もっと多く見ようと、あせりにあせった」(36ページ)

 だが、舞台はあくまでもホテルである。長期滞在の客はそうそうおらず、隣室の女もすぐに去っていってしまうのだ。そして、ここから、バルビュスがほんとうに目指していたものが浮かびあがってくる。『地獄』はこの冒頭のシーンの強烈さからか、さも官能小説のような扱いを受けもしたらしいが、バルビュスの狙いがそんなものではぜんぜんなかったということは、これより後の章に進んでみると、すぐにわかる。

「ぼくは自分の最初の眼差も、最初の恋の贈り物も思い出せない。だが、それはあったのだ。その気高い素朴な思い出は、ぼくから消えてしまった。ああ、だが、ぼくはそれに匹敵するなにを保存しているだろうか! かつての日の幼いぼくは、ぼくの眼のまえでまったく死んでしまった。ぼくはそのあとに生きのびた。が、忘却がぼくを苦しめ、さらにぼくに打ち勝ち、生きる悲哀がぼくをすさませ、幼い日のぼくが知っていたことを、いまはほとんど忘れてしまった。ぼくは、ときのはずみで、なんでも思い出す。が、最も美しくなつかしいことは無のなかにある」(60ページ)

「退屈するって、死ぬことですのね。あたしの生活は死んでいました。それでも、そういう生活をしていかなければならなかったのです。自殺も同じでしたわ。ほかの人は武器や毒で自殺しますが、あたしは分や時間で自殺していたんです」(69ページ)

 バルビュスは、「ぼく」によるのぞきを通じて、読者に人びとのほんとうの姿をのぞかせようとしているのだ。女の去った隣室には、恋心を意識しはじめたばかりの少年少女や密会をする男女、プルーストなら「ゴモラの女」と呼ぶであろう女を愛する女たちなど、じつにたくさんの人びとがやってくる。そして、人の眼を意識していたら絶対に口にしないような言葉の数々が、赤裸々に語られるのである。

「いったい、神はどこにいるのだ、神はどこにいるのだ! なぜ神は、このすさまじい、しかもお定りの破局に干渉しないのだ。熱愛していたものが、急に、または徐々に、唾棄すべきものとなる、この怖ろしい不思議を、なにか別の不思議によってさえぎらないのだ。なぜ神は人間のあらゆる夢がいつとはなく悲嘆にかわるのを救わないのだ。快楽が人間の肉から花と咲きながら、痰唾のように人間のうえに落ちてくる悲哀を救おうとしないのだ」(86ページ)

「微笑が苦悶と変り、歓喜が嫌悪となり、抱擁が見る影もなく崩れさるのを見るためには、ぼくのように人間のいとなみを上から見おろし、人間にまじわるとともに人間から離れていなければならない。なぜなら、人生のなかに巻きこまれていると、そういうことを見もせず、知りもしないからだ。人は、極端から極端へと、眼をとじて走り去る」(86~87ページ)

 読書という行為はのぞきに似ている。『地獄』の読者たちは、のぞきをする語り手をのぞくことによって、隣室で繰り広げられる情景を見ているのだ。そして、その語られている内容は、どうしてこの小説のタイトルが『地獄』であるのかを、ひっそりと教えてくれる。

「ああ! 途方もないことだ。これは悲劇だ。地味な悲劇だ。が、それだけになおさら胸を打つものがある。この男は幸福ではない。が、ぼくには彼の幸福がうらやましい。このことについて、なにか言うべきことがあったら、言ってほしいものだ。幸福はわれわれのうちに、われわれめいめいのうちにあり、それは自分の持っていないものへの欲望だ、ということ以外に!」(112ページ)

「「どうして泣くの? どうして泣くんだか言ってごらん」
 女は答えなかった。が、やがて、眼から手をはなして、男をじっと見つめた。
 「どうしてって? そんなこと判りませんわ! だって涙は言葉ではないんですもの」」(120ページ)

 この小説には、記憶に残しておきたい美しい言葉がたくさん散りばめられているのだが、ページが進むにつれて、ストーリーはどんどん形を失っていく。ドストエフスキーの文学を評するときには、「ポリフォニー(多声性)」という単語が頻繁に用いられるが、『地獄』における声のあまりの多さは、調和をまるで持たない、言わば高尚な雑音である。『地獄』は物語の自然さを犠牲にして生まれた、宝石のような文章の集合体なのだ。まさにその理由によって、古典の仲間入りをすることを拒まれてしまったのかもしれないが。

「もうよしましょう。喜びや苦しみのお話は、もうよしましょう。ふたりで一緒に喜んだり苦しんだりするのは、とてもできないことですからね。心と心が通いあうことだって、とても駄目ですわ。世の中には、同じ言葉を話す人は、ふたりといないのです。ふたりの人間は、時によると、なんの理由もなく、接近します。だが、やがて、充分の理由もなく、遠くはなれてしまいます。喧嘩したり、愛撫したり、罵りあったり、傷つけあったりします。泣かなければならないときにも笑います。どうにも仕様がないのです。男と女の組合せは、どれもみんな気違いです」(124ページ)

「この世がつくられてこの方、死は手にさわれる、ただひとつのことです。人は死のうえを歩き、死に向って進んでゆくのです。顔が美しくても、心が正しくても、それがなんになりましょう。人はいずれあたしたちのうえを歩くでしょう。地面のなかの死人の数は地面のうえに生きている人の数よりもずっと多いのです」(133ページ)

 不倫の恋に身を委ねながら、しかも幸福を感じることができなくなってしまった男女がいる。彼らの会話のどこをのぞいてみても、希望がない。絶望文学、というテーマで、いっそのことセリーヌと並べてしまいたいほどの、救いのなさだ。

「君は変る、君は変った。眼に見る君が君ではないとこわいから、君のほうへ眼をやる勇気さえもない」(140ページ)

「夢はいつもわしらを苦しめるものだ。悲しい夢はわしらの夜を台なしにし、楽しい夢はわしらの昼を傷つける」(152ページ)

 どうすれば幸福を得られるのかがわからない女は、天国へ行く日ばかりを心待ちにして、生を過ごしている。そんな恋人を相手に男は、はたして天国で人は幸せなのだろうか、というおそろしい問いを突きつける。

「希望は不幸だ。足りないがゆえの希望なのだから」(156ページ)

「ぼくらが公式のように抽象的な、完全な落着きと純粋な光とのなかで幸福になれると思うのは誤りだ。ぼくらはあまりにも多くの闇で、苦悩の一種の型にあわせてつくられている。もしもぼくらからぼくらを不幸にするものを全部のぞいたら、果してなにが残るだろう! そうなったあかつきにやってくる幸福は、ぼくらのためのものではなく、ほかの人のためのものだ。ぼくらは幸福の余光をもっていたが、闇がそれを消してしまった。闇がすぎされば幸福そのものを残らず得られるだろうという議論は、狂人のたわごとだ。が、また、考えることもできないような、純粋の幸福を得るだろう、というのも狂人のたわごとだ」(159~160ページ)

 語り手は彼らのような人びとの会話を盗み聞きしながら、人生観をぐらぐらと揺すぶられていくのだ。その変遷をもっと丹念に描いていれば、おそらくちょっとした「ビルドゥングスロマン(主人公の精神形成を描く小説)」に仕立て上げることもできただろう。だが、バルビュスはそれをせず、これをほとんど哲学書と呼びうるような一冊にすることを選んだ。

「「なんですって!」とエーメが震えながら言う。「天国でも人はみじめかも知れないってわけなのね!」
 「天国とは、この人生のことさ」と彼が言った」(160ページ)

「幸福は不幸を必要とする。喜びは一部分は悲しみでつくられる」(164ページ)

 やがて瀕死の老人が隣室を支配するようになると、ふたりの医者がやってきて、最新の医学の知識を開陳する。舞台が隣室であり、そこに会話があれば、『地獄』の一章と成りえるのだ。癌にかかった人から摘出された部分でシャンパンが作れる、という、レーモン・ルーセルのような一節まで登場する。

「細菌学はまだ片言をしゃべっているにすぎませんが、一人前の口がきけるようになったら、医学に対して、今の偉大さよりもはかり知れないほど悲劇的なものを与える、新しい報告をしてくれるでしょう」(193ページ)

「糖分の存在は、癌の搾り汁で上質のシャンペンが作れることでも証明されます。ぼくもその実験をやってみました。パリのあちこちの病院でふた朝にわたって行った手術で得た癌物質を十キログラムばかり手に入れましてね、それを脱水器にかけてつぶしましたところ、その塊から二リットル半の濁った悪臭のある液体がとれました。それには最も重症の糖尿病患者の尿よりも多量の糖分がふくまれていました。それで、この液に酵母を入れましたところ、非常に猛烈な、香気の高い発酵をおこしました。酒精計ではかりましたら六度ありましたが、蒸留器にかけてみましたら六十度のアルコールを得ました。ぼくはこのアルコールから、上質の人造シャンペンをつくったのでした」(197ページ)

 書きたいことをさんざん書いている、という印象を拭えないが、それでも一見脈絡のない会話の数々は、どこかでこの小説の主題と繋がっている。希望を持つには欲望が必要で、幸福は不幸から生まれ、地獄なくして天国はありえないのだ、ということと。

「新たにはじまることは、どうして革命的でないことができましょう。最初に叫んだものは、常に孤独です。したがって、無視されるか憎悪されるのです」(208ページ)

「「神なんて奴は」と老人が極く低く言った。「あれは気違いだ、気違いだよ!」」(212ページ)

 一気呵成に書かれた文学作品というのは、読者にも一定の疾走感を約束するもののように思える。きっと時間をかけてつめこめばつめこむほど、読みにくい箇所が増えていくのだろう。フロベールのようにそれを感じさせない作家もいるが、それでも彼の『感情教育』にしたって、第二部に入るとややこしい部分が増えていた。最たるものはゲーテ『ファウスト第二部』だろう。『地獄』を読んでいると、そんなことまで考えてしまう。それほど読みづらい。本を開いた当初の疾走感など、後半にいたってはもはやどこにもないのだ。

「存在するものへの、最も高度の、最も充分な一致を汲みだすのは、文学のなかからだ。表現の効果を、最も完全に――ほとんど完全そのものといえるほどに――保障するのは文学だ。そうなんだ……シェークスピヤは内心の世界の息吹をつたえ、ヴィクトル・ユゴーは彼以後宇宙の背景が一変したかと思われるほど絢爛たる言葉を創造したが、――物を書く技術はいまだにベートーヴェンをもっていない。それは文学においては絶頂へ登りつめる道が、格別に嶮岨で、人力では及ばないからだ。文学においては、形式は単に形式にすぎず、問題は真理の全般におよんでいるからだ。どんな偉大な作品にも(二流の作品というものは存在しない)あるかぎりの真理を残らずぶちこんだものは、かつてない。真理そのものは、今まで大作家たちの無知や臆病のために、形而上的冥想や祈願の対象となってきた。それは科学的な体裁をとった論文やみじめな聖書のなかにとじこめられ、曖昧にぼやかされている。そんな書物は、超自然的な理由で二三のものに強制されなければ、誰も読むものはないだろう。劇場では、文学者たちは娯楽の形式を見つけるのに浮身をやつしている。そんな連中は、書物のなかでは、みんな漫画家のようなものだ」(218~219ページ)

「正義という言葉は、一見、徳を名ざすように見えるが、決してそうではない。これは無感動を特長とする、一種の組織である。正義は罪をあがなわせるものではない。贖罪とは無関係だ。その役割はみせしめとすべき前例を打ちたてることである。罪人を一種のかかしとし、悪事にはしろうとするものの心に、法の残酷さを銘記させることである。なんぴとも、なにごとも、罪をあがなわせる権利はない。しかも、それは誰にもできないことである。報復ということはあまりにも罪の行為とかけはなれていて、いわば別の人間にあたることになる。したがって、贖罪は世の中には全然使い道のない言葉である」(254ページ)

 正義や徳という言葉を見ると、先日まで読んでいたプラトンを思い出す。これは死に瀕した老人のもとを訪れた僧侶が、結局相手を悔い改めさせることもできないまま、立ち去っていくのを見た語り手の言葉だ。やがて語り手は、ある絶望的な結論に到達する。

「ぼくを偉大なものとするかずかずの夢は、くずれさってしまった。頭蓋骨がほかの人々と、かつて生きていたすべての人々と同じであるから」(279ページ)

「三年たつと、すべてが終る。愛し愛された人も、三年のうちに、まったく鉱物と化してしまうのだ。悪臭も消えてしまう。悪臭は生命の最後のしるしだったのだ。が、悲しいかな! これもなくなる。そして、同時に哀惜の情もなくなるのだ」(283ページ)

 そして話題は、人の死骸がどのような虫たちによって順々に蝕まれていくか、というおぞましいものとなる。語り手はなんでこんなことを知っているんだ、という疑問は、当然ながらここには存在しない。土の下では八つの時期にわけて八種類の虫たちが侵入してきて、死骸を食い漁るそうだ。その一つ一つの時期と虫の種類が、丁寧に解説される。話題はさらに飛び、今度は天文学の話になる。

「光はその速度の怖るべきはやさにより、数字を極端に減少してかえって果しもない大きさをはっきり感じさせてくれる……光は一秒に三十三万キロメートルの割合で空中を走る。光が太陽から地球まで来るには、八分と少しかかる。したがって、われわれが見ている太陽の姿は、われわれの眼にはいるよりも八分まえの姿だ。一番近い星から光がわれわれのところへくるのに、四年と四ヵ月かかる。北極星からは三十六年かかる……星によっては数世紀もかかるものがあり、われわれは数世紀まえの星を見ていることになる。もしその星から地球をながめる場合には、同じように途方もない過去の地球を見るわけである」(285ページ)

 そして結論である。もちろん絶望的な。ここまで読んだ読者のだれが、いまさら夢のある回答を期待できるというのだろう。

「神は神秘と希望に対する出来合いの返事にしかすぎず、神の実在には、神をもちたいというわれわれの願い以外に、何の理由もない」(290ページ)

「宇宙がぼくのそとでなんらかの実在性をもつかどうか、ぼくは知らない。ぼくが知っているのは、その実在性がぼくの思考の仲介なくしてはありえないこと、宇宙がぼくのつくる観念によってのみ存在することである。ぼくという人間が星や世紀を生起させたのであり、虚空を頭のなかに回転させたのだ。ぼくはぼくの思考から逸脱できない。過ちをおかし嘘をつくのでなければ、そんなことをする権利はない。いわば自分から飛びたとうとしていくらもがいても、なんの役にもたたない。この世界に対して、自分の想像による実在以外の実在を与えることはできない。ぼくは自分を信じ、そして孤独である。なぜなら、ぼくはぼくから脱出できないからだ。孤独ではないと考えるなんて狂気の沙汰だ。踏み越えられない思考の彼方において、世界がぼくと無関係の存在をもっているということを、何がぼくに証明できるだろうか!」(292~293ページ)

 デカルトやカントを読みたくなった。この結論によく似たことが、トルストイの『人生論』でも語られていたことが思い出される。この思想を名指す言葉が、哲学の語彙のなかにあるのかどうかが知りたい。哲学を知れば小説が読みたくなり、小説を読めば哲学が知りたくなる。

「将来ぼくの身にどんな事件が起り、どんな悲劇が見舞おうとも、生命の全力をあげて生きるならば、ぼくが何を考えようと、それはあまり重大なことではあるまい」(342ページ)

 人には薦めない。でも、読んだ人がいればぜひとも話がしたい。物語性はほとんど皆無だけれど、美しい言葉とたくさん出会えた。

地獄 (岩波文庫 赤 561-1)

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<併読おすすめ>
セリーヌ『夜の果てへの旅』
→絶望。

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

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夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)

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カミュ『異邦人』
→死に瀕した老人と僧侶とのやりとりは、この本の後半部を思い出させる。

異邦人 (新潮文庫)

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トルストイ『人生論』
→宇宙が自分のつくる観念によってのみ存在する、という考え方は、この本の前半部にも登場している。

人生論 (角川文庫)

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<読みたくなった本>
バルビュス『砲火』

砲火 上巻 (岩波文庫 赤 561-3)

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砲火 下巻 (岩波文庫 赤 561-4)

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バルビュス『クラルテ』

クラルテ (岩波文庫)

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デカルト方法序説

方法序説 (ちくま学芸文庫)

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カント『純粋理性批判

純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

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ゾラ『労働』

Oeuvres Completes Illustrees de Emile Zola. Les Quatre Evangiles. Travail. Tome 2

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ユイスマンス『彼方』

彼方 (創元推理文庫)

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