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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

死刑執行人サンソン

 すでに読んだことがある本を、それと気づかずに購入してしまったことはありませんか? そしてわくわくしながらページを開いて、ただならぬ既視感(というより、既読感)に襲われることはありませんか? ありますよね、いや、ぜったいあるはず。そんな懐かしくも悲しい気持ちでいっぱいにしてくれた一冊。

死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

 

安達正勝『死刑執行人サンソン 国王ルイ十六世の首を刎ねた男』集英社新書、2003年。


 内容をこれっぽっちも覚えていなかったので、読みはじめてしばらくは再読だということにさえ気がつかなかった。もともと大学生のころにはフランス史を専門にしていたので、革命の変遷は一通り頭に入っている。でも、それにしたって自分はこの本のことを知りすぎているな、と思って本棚を漁ってみたら、案の定、鉛筆書きに溢れた同じ本が奥のほうから出てきた。しょんぼり。

 これはパリの死刑執行人業「ムッシュー・ド・パリ」を代々受け継いできたサンソン一家、なかでも四代目のシャルル=アンリ・サンソン(1739-1806)の生涯を描いた評伝である。歴史の研究書として読むにはかなり主観的に書かれているが、フランス革命を題材にした下手な小説よりはよほど面白い。公務でありながらも闇の稼業として忌み嫌われていた死刑執行人、その役目を背負った人々の、率直な想いが描かれている。

「公務とはいえ、そして、世の中のためだと自分自身をなんとか納得させようと努めていたとはいえ、人を殺すことに内心の嫌悪感を禁じ得なかったサンソン家の人々にとって、医業で人の命を救うのは何にも代えがたい慰めになっていたのである」(24ページ)

 死刑執行人というのは専門職であった。ギロチンが誕生する以前には、一口に死刑と言ってもいくつもの種類があり、執行においてはそのどれもが熟練した技術を要求するものだったのである。殺す技術と生かす技術とは表裏一体のもので、サンソン家が医業を兼務していたのはじつに自然なことだった。だが、その医学的な探究の目的、囚人たちの苦痛を可能なかぎり減らすという人道的な理由は、なかなか理解してもらえるものではなかったのである。

「三代目のジャン=バチストは初代サンソンほどは自分の職業に悩まずにすんだ。とはいっても、死刑を執行した後はいたたまれずに馬に飛び乗り、郊外を疾走することで気を静めるのが常ではあったが」(35ページ)

「シャルル=アンリにはわかっていたのである。人間の自然の感情に対しては論理の力は無力であるということを。敵を殺した兵士は称えられ、相手を殺した決闘者は許されるけれども、処刑台で人を殺す死刑執行人は恥辱でおおわれ、忌み嫌われるのがこの世の習いなのだということを」(46ページ)

 それでも、死刑執行人たちの懊悩が、まったく理解されなかったわけではない。シャルル=アンリの世にはルイ十六世による拷問廃止もあって、必要以上の残虐性を避けようとする心理もあった。

「「シャルロ」と、その体格のいい若者はシャルル=アンリをこう呼んだ。
 「シャルロ、怖がらんでいい。俺たちが憎んでいるのはあんたじゃない。あんたの道具だ。これからは、あんたがだれかを処刑するときは、あっさり殺さにゃいかん。車裂きのような、苦しめるために殺すやり方はいかん。地獄は神様に残しておこうよ。わかったかい、シャルロ」」(67ページ)

 シャルル=アンリの生涯を追うことは、革命前後のフランス史を追うことと通じている。概略的なものではあるが、この一冊からフランス革命の全体像を浮かべることすら可能である。とりわけ、革命の準備期間から1793年のルイ十六世処刑までの歴史は、かなり細かく描かれている。その分、恐怖政治期のことがいかにも駆け足で語られてしまっているのが目立ち、個人的には残念である。

「革命の混乱をうまく処理できなかったというので、ルイ十六世は無能にして鈍重な国王という評価を受けることになるのだが、どんな名君でも、フランス革命の荒波を乗り越えて絶対王政の枠組みを維持するのは無理だったであろう。革命はいつか起こるべきものであり、ルイ十六世はたまたまその時期に遭遇したにすぎない」(72ページ)

「サンソンは思ったことだろう――ルイ十六世陛下の治世になって拷問が廃止され、死刑の判決も減少する傾向にある。世の文明は明らかに進歩しつつあり、刑の残虐さも少しずつ改善されつつある。人々の反発を考慮して、もう車裂きの刑の判決は出ないのではないか。世の中は流動化しつつあり、今後さまざまな改革がなされてゆくだろう。そしてさらに人間主義人道主義の流れが強まっていけば、あるいは、死刑制度そのものがなくなることだってあり得るのではないか。ベッカリアというイタリアの法学者が死刑廃止を説く本を出したのは何年前のことだったろうか。そうなれば、ご先祖様に逆らうことなく医業に専念できるのだが……」(84ページ)

 ギロチン以前の処刑の方法が一つ一つ詳細に描かれているのも興味深い。斬首刑、絞首刑、車裂きの刑、そして八つ裂きの刑。八つ裂きの刑は凄まじいものだった。X字型に交差させた二本の丸太に囚人を固定し、四肢を四頭の馬に同時に引っぱらせる。書くと簡単だが、人間の体はそうそう簡単にはちぎれない。そういうときは、脇の下と股のつけ根に、斧で切り込みを入れる。ルイ十五世の暗殺を謀ったダミアンは、褐色の髪をした男だった。片方ずつの腕と脚が切れ、死亡が確認されるまでに、彼の髪は真っ白になっていたという。

「八つ裂きの刑は国王殺害犯などの最重罪犯に対して適用されるもので、1610年に国王アンリ四世を殺害したラヴァイヤック以来、百四十数年ぶりのことであった。当時の人々にとっても八つ裂きの刑は衝撃的なものであり、この処刑を指揮したガブリエル・サンソン自身が刑のあまりの残虐さにショックを受けて死刑執行人の仕事をつづけることができなくなり、これを最後に死刑執行人を辞職したほどである。このダミアンの処刑がフランスで最後の八つ裂きの刑になった」(102ページ)

 公開処刑が大衆の娯楽となっていたことは『死刑囚最後の日』のときにも書いたが、このときの観衆のなかにはイタリアの伝説的伊達男、カサノヴァまでいたらしい。しかもその隣にいた男がとんでもないことをしている。

「ダミアンの処刑を見物しながら性行為にふけっていた人もいたことを、カサノヴァが『回想録』に書き残している。これは相手のあることであり、仕掛けたのも男のほうなのだから、男のほうに責任を帰すべきだろう。この男は、窓枠に肘をついて処刑を見物する×××夫人の後ろにぴったりと張りつき、スカートをまくり上げて延々二時間もの間励んだのであった。すぐ横に、この夫人の姪とカサノヴァがいたというのに、である。夫人と並んで窓に肘をついていた姪は処刑に気を取られていたが、カサノヴァはちゃんと気づいていた。稀代の色事師として知られるカサノヴァも、この男にはあきれている」(103~104ページ)

 それから、斬首刑にまつわるトラブルを書いた箇所では、なんとシュヴァリエ・ド・ラ・バールの名前があがっていた。斬首刑は貴族に対してのみ適用される刑で、苦しむことのなく死ぬことができる、死刑のなかでは比較的人権を尊重された刑だったのである。

「斬首刑を受ける死刑囚は跪いた姿勢を取るのが普通だったが、シャルル=アンリ・サンソンは、立ったままの死刑囚に斬首刑を執行したこともある。あとでふれるラ・バール騎士は自分の無実を確信していたので、悔い改めの気持ちを示す姿勢を拒否し、立ったままで刑が執行されることを望んだ。立ったままの死刑囚に斬首刑を執行するのはきわめて異例なことだったが、シャルル=アンリはラ・バール騎士の要望を受け入れた。フランスでは、これほどに、斬首刑を受ける人間の人格が尊重されたのである」(106~107ページ)

「シャルル=アンリは、気持ちが動揺していたため、口ごもったりしてうまくは話せなかったのだが、それは苦い失敗を指摘されたからだけではなかった。普通は死刑囚が避けたがる話題について冷静に話すラ・バール騎士の勇敢さに感動したからでもあった。シャルル=アンリは、あなたが無益な苦痛を味わうことはないだろうし、顔に傷ができることもないだろう、とラ・バール騎士に請け合った。
 このラ・バール騎士の処刑では、シャルル=アンリはきっちりと約束を果たした。立った姿勢のままという難しい情況だったが、一撃で首を断ち切り、しかも、斬首直後は首が離れずについているという名人技を見せた」(116ページ)

 シュヴァリエ・ド・ラ・バールについての簡単な説明も載せられていた。

「ラ・バール騎士は北フランスの都市、アブヴィルの名門の出で、二十歳、罪状は「聖像破壊および瀆神の罪」。今なら「器物損壊罪」にすぎず、死刑になることは絶対にないが、この頃はカトリック教会が絶大な力を持っていた。しかも、聖像を傷つけた犯人が本当に彼であるのかどうか非常に疑わしく、アブヴィルの有力者間の派閥抗争の犠牲になったというのがもっぱらの噂であった。町の人々の多くは、アブヴィル下級裁判所が下した判決がこのまま執行されることはなく、上級裁判所で破棄されるものと思っていた。ところが、パリ高等法院が教会勢力を慮ってラ・バール騎士の控訴を棄却したため、死刑が確定してしまったのであった(彼の無実も、後にヴォルテールによって晴らされている)」(114ページ)

 ここは、もう少し掘り下げてもらいたかった。サンソンの心理に同調してか、この本では全体的に、宮廷に対してかなり好意的な姿勢を保っているが、シュヴァリエ・ド・ラ・バールを無実の罪で死刑にしたのは、他ならぬ国王である。ヴォルテールをはじめとする、啓蒙思想の哲学者らとの交友が、彼の死を決定づけたのであった。容疑者とされたのも、ヴォルテールの『哲学辞典』を保持していたから、というだけの理由で、啓蒙思想を恐れた宮廷が、見せしめのつもりで下した判決だったのである。また、この青年に対して為された刑罰はここに書かれているかぎりではなく、斬首の前には、舌を引きちぎられ、手を切り刻む拷問をくわえられていたはずだ。さらに斬首後、彼の体は『哲学辞典』を巻きつけられた状態で焼かれている。ヴォルテールとサンソン、どちらの記述が正しかったのかはわからないが、ヴォルテールの名をあげて「疑いが晴らされた」と書くのなら、もう少し調べてみることもできたろうに、と思う。

 それから、ロベスピエールとマラーが死刑廃止を訴える箇所もあがっていた。個人的に、ロベスピエールの生涯には関心が尽きない。

ロベスピエール以外にも死刑制度の廃止を訴えた議員はいた。しかし、ロベスピエールの雄弁に心を動かされた議員はあまり多くはなく、死刑廃止の提案は否決された。
 このとき死刑制度が廃止されていれば、後の恐怖政治はなかったはずだから、ずいぶんとたくさんの人が死なずにすんだはずである。シャルル=アンリの孫にあたるアンリ=クレマンは『サンソン家回想録』の中で述べている――「この日、投票した国会議員の中に、そうとは知らずに自分の首を投票箱に投げ込んだ者が何人いたことだろうか?」」(121ページ)

 そして、ギロチンである。

「ギロチンの誕生は、死刑制度における旧体制の破壊であり、たしかに一つの進歩を象徴するものではあった。ギロチンの産みの親、ギヨタンとルイ博士はともに医者であり、ギロチンの最初の実験にはほかに二人の医者も立ち会っていた。もっとも苦痛少なくして人を死に至らしめるギロチンは、医学的、科学的にも完璧なものであったのだろう。しかし、あまりにも簡単に、迅速に、人を処刑できてしまうというところに、大きな問題がひそんでいたのでもあった」(136ページ)

 初めてギロチンが公開処刑に用いられたときの話は面白い。大方の反応は、「あっさりしすぎていて興醒めした」というものだったのだ。たしかに、見世物とするには手早すぎる。それまでの処刑の凄惨さがうかがえる証言である。それでも、ギロチンが恐怖の象徴となるまでに、たいした時間はかからなかった。

「恐怖政治期に処刑台の上で見苦しく取り乱したのは、このデュ・バリー夫人ぐらいなものだった。きわめて不当な死刑判決が多かったというのに、なぜか、ほとんどの人は従容として死んでいったのである。革命がはじまってから、あまりにも多くのことがありすぎた。処刑台にあがってきた人々は、革命の四、五年の間に四十年も五十年も生きたような気がしたのではないだろうか。とくに、革命家として名をはせた人々は、自分は人生を燃焼しつくした、もはやこの世にはなんの未練もない、といったふうだった」(223ページ)

「ギロチンは、もともとは人道的な配慮のもとに考案されたものだった。死刑囚に無益な苦しみを与えないために、迅速かつ確実に死に至らしめる機械が必要とされたのであった。しかし、ギロチンはあまりにも簡単に人を殺すことができる機械でもあった。もしギロチンが存在せず、昔ながらの斬首刑や車裂きの刑が維持されていたならば、一日に四十人も五十人も処刑できるものではない。せいぜいのところ、数人が限度だ。絞首刑だって、一時にそんなに大勢の人間を処刑できはしない。残虐の極みとされた八つ裂きの刑なら、一日に一人しか処刑できない。ところが、ギロチンを使えば、五十人の処刑を一時間以内ですませることも可能だった。つまり、もっとも残虐な処刑方法が採用されていれば一日一人ですんだところが、人道的な処刑方法があったために、一日に五十人以上、六十人以上もの人間が処刑されることになってしまったのであった」(228ページ)

 フランス革命について書かれた本は、よく売れるそうだ。大学時代に論文を提出した教授は、自分とは違って、まさしく革命期のフランスを研究対象としていた人だったが、ブルボン家に関する一冊の本を出したことで、ずいぶんと生活が楽になったと言っていた。マリー=アントワネットに人気があるらしい。だが、マリー=アントワネットとルイ十六世は、早くも1793年に処刑されてしまうではないか。フランス革命の歴史が興味深くなっていくのは、ここからだというのに。この本に関しても、恐怖政治以降があまりにも短くて、悲しくなってしまった。

「国王が神聖な存在であった時代は終わり、代わって、国民が神聖な存在である時代がはじまろうとしていた。かつて国王の権力が史上もっとも強大であった絶対主義全盛の時代に、太陽王ルイ十四世は「朕は国家なり」と豪語した。これからは「国民こそ国家なり」でなければならなかった。新しい神々は、古い神の死を求める。新しい革命の世は、かつて神聖であった存在を生け贄にささげることによってしか確固としたものにならない、と人々は考えたのであった」(175ページ)

 この言葉が書かれていた章のタイトルは、なんと「神々は渇く」であった。新しい神々、国民は、血に飢えている。アナトール・フランスが読みたくなる一節である。しかしこの著者、章題に「神々は渇く」と書いておいて、アナトール・フランスにはまったく言及がない。書けることはいくらでもあったろうに。

「この世の正義の最後の段階をになっているはずの自分たち死刑執行人が忌むべき存在として世間から除け者にされるのは、人を死に至らしめることによって社会秩序を保とうとする、その正義の体系そのものが忌むべきものだからではないのか? もし、死刑制度が正義にかなう絶対的に善きものであるならば、自分たち死刑執行人は人々に感謝されこそすれ、忌み嫌われ、蔑まれるはずがない」(235~236ページ)

 死刑執行人であれ国王であれ、当時はどんな職業でも世襲制が支配的だった。忌み嫌われる職業に、生まれながらにして就くことになっていた人々がいて、その彼らがだれよりも死刑廃止を願っていたというのは興味深い。戦場カメラマン、ロバート・キャパの、「わたしの夢は永遠の失業である」という言葉を思い出した。

 サンソン家の歴史に興味を持ったばかりの人が手を伸ばすには最良の一冊だと思うが、革命史の本として読むには語られていないことが多すぎる。浅く広く、色々なことが書いてある本、という意味では、いかにも新書という媒体に相応しい一冊だと思った。

死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

 


<併読おすすめ>
ユーゴー『死刑囚最後の日』
→死刑判決がもたらす精神的苦痛。

死刑囚最後の日 (岩波文庫 赤 531-8)
 

レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』
→第三章にサンソンが登場。

ロクス・ソルス (平凡社ライブラリー)

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カフカ『流刑地にて』
→処刑の方法。

流刑地にて―カフカ・コレクション (白水uブックス)

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<読みたくなった本>
アナトール・フランス『神々は渇く』

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

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カサノヴァ『回想録』

カザノヴァ回想録 (第1巻) (河出文庫)

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綱淵謙錠『斬』

斬 (文春文庫)

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マルク・ブゥロワゾォ『ロベスピエール

ロベスピエール (文庫クセジュ 245)

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ユーゴー『九十三年』

九十三年 - ヴィクトル・ユゴー文学館 (第6巻)

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バルザック『サンソン回想録』

デュマ『九十三年のドラマ(Le Drame de quatre-vingt-treize)』

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