Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ルネサンス書簡集

 今年は自分のなかで、ユマニスムを知った記念すべき年となる気がする。エラスムスとの出会い以来、高まりつづけている関心を満たすべく手に取った、「ユマニスムの父」の書簡集。

ペトラルカ ルネサンス書簡集 (岩波文庫)

ペトラルカ ルネサンス書簡集 (岩波文庫)

 

フランチェスコ・ペトラルカ(近藤恒一編訳)『ルネサンス書簡集』岩波文庫、1989年。


 内容は言うに及ばず、翻訳も構成もすばらしい一冊だった。まず、日記や書簡集を読むときにきまって忍耐を要求される、各エピソードの断裂がもたらすテンポの悪さというものがほとんどない。訳者の編纂の仕方が、もうびっくりするほどみごとなのだ。この近藤恒一という人は、おびただしい量のペトラルカの書簡をただ抜きだして訳すことはせず、それぞれの書簡の前に「解題」を設け、これから読者が触れることになる書簡の宛先人の素性や、執筆当時の情勢、さらには内容の分析などを、事前に逐一、読者の頭のなかに叩きこんでくれるのである。それは読書の楽しみを減じるどころか、大いに増幅してくれる。これは画期的なことである。しかも、書簡が執筆年代順に並べられているため、ペトラルカの人生を追う、伝記としても読むことができるのだ。この要素が各章ごとの断裂を一挙に埋め、ページを繰る手をどんどん速めてくれる。終始夢中になって読める書簡集なんて、もう奇跡のようなものである。ユマニスムとはギリシャ・ローマの古典復興運動であるが、その精神を受けついだ訳者が、まさしく現代の古典たるペトラルカを復興させようとしているのだ。ペトラルカ入門に、これほどうってつけの本はないと断言できる。書簡集という文学の一形式を編纂しようとするすべての人に、範として採ってもらいたいような構成である。

 ただ、ペトラルカ本人が、書簡という文学形式に重きを置いていたこと、そして書簡集というものに大きな価値を見いだしていたことも伝えられている。だからといって訳者の仕事ぶりに対する評価が下がるということはぜんぜんない。むしろ、訳者がペトラルカのその意向に、細心の注意と最大の敬意とを払っていたことに目を向けるべきだろう。

「ペトラルカにとっては、書簡体は重要な表現形式のひとつであって、書簡の作成は自覚的な文学的訓練でもあったのである。だからこそかれは、自分が手紙を書き送るときは、たいていその写しをとり、手もとに保存することにしていた。この習慣は、かれの少年期にはじまる文学熱から察するに、かなり早い時期にまでさかのぼりうるであろう」(「文学的栄光を夢みて」解題より、15ページ)

「ペトラルカの書簡集では、書簡はだいたい書かれた順に配列されている。が、例外も多い。ひとつには、かれの書簡も書簡集も文学作品として書かれているからである。つまりかれは、各書簡集の全体的構成や各巻の構成にも気をくばる。だから、時間的順序よりも内容上の関連性を重んじて書簡を配列する場合もすくなくない。おなじ文学的要求から、書簡に大幅な推敲の手を加えることもしばしばである。また、文通の当事者にしかわからないような文面にはあとから改変の手を加え、書簡に普遍性をあたえようとする」(「解説」より、296ページ)

 話題が多岐にわたるという点からも、自分がこの一冊をペトラルカの入門書として手に取ったことを喜ばしく思う。本を開いてすぐのときは、ペトラルカもまだ二十代の若者で、文学的栄光を夢みる青年だ。そしてその同じ夢を追う友人に、焦りは禁物だということを伝えている。

「まず、このように賞讃されている著作がだれのものなのか、そこに注意してください。その著者をさがしてみてください。泉下に去ってすでに久しい人たちです。きみの著作を賞讃してもらいたいのですか。では死ぬべきでしょう。人間の死とともにその名声は生きはじめるのであり、生の終わりが栄光のはじまりなのです。もしも生前に栄光がはじまるとすれば、それは異例ともいうべき稀有なことです。さらに言えば、きみの同時代者がひとりでも生きているうちは、きみが望みの賞讃を充分に得ることはできないでしょう。みんながひとしく墳墓にとじこめられたとき、きみについて憎しみも妬みもなしに判断をくだす人が現われるでしょう。だから現代はぼくらについて、どんな判断なりとくだすがいい。それが正当なものなら、あまんじて耐えよう。不当なものなら、もっと公正な判断をくだす人、つまり後世の人たちに期待をつなごう。それ以外の人たちに期待することは無理なのだから」(「文学的栄光を夢みて」より、19~20ページ)

「俗衆の判断ほど変わりやすいものはなく、これほど公正を欠くものはないのだが、名声はこれにもとづいているのです。だから、こんなに脆弱な土台にささえられているものが絶えずゆらぐとしても驚くにはあたりません」(「文学的栄光を夢みて」より、29ページ)

 そして以下の一節が、ほくそ笑ませると同時にわたしの心を掻き乱した。

「古来、賢者と自称してはばからなかったのはエピクロスだけです。許しがたい傲慢、あるいはむしろ笑うべき気違い沙汰です。これについてはキケロが、その著『最高善と最大悪について』第二巻で言及しています。だが現今のおびただしい三文法律家どものあいだでは、こうした狂気もありふれたものになっています」(「文学的栄光を夢みて」より、25~26ページ)

 ペトラルカはエピクロスに対してかなり批判的である。この本を通してエピクロスの名は二度挙がっているが、どちらも賛辞とはとれないどころか、かなり否定的に扱われているのだ。以下は、二番目の登場、キケロに宛てた書簡(!)の一節である。

「あなたにたいする私の態度は、エピクロスにたいするあなたの態度とはちがいます。あなたはしばしば自著のなかで、とりわけ『最大善と最大悪』のなかで、エピクロスの生をたたえ、思想をあざわらっています。私はなんら、あなたのことを笑いはしません。くりかえしますが、あなたの生をあわれむだけです。そして天分と雄弁には感謝を惜しまないのです」(「古代人への書簡」より、149ページ)

 わたしは最近エピクロスという名に過剰に反応しているが、それはエラスムスルキアノス、そしてとりわけアナトール・フランスからもたらされた知識によってであり、じっさいにこの哲学者の書いたものを読んだことはない。まとまった書物は現存しないのだ。『神々は渇く』のなかでブロト老が読んでいたルクレティウスが、エピクロス哲学の内容を伝えてくれる一次的な史料として扱われているのが現状である。

 そんなことより、いったいどういうわけだろう。エラスムスがあれほど引いたルキアノス、そのルキアノスが愛したエピクロスが、ここでは批判にさらされている、いや、それどころか、ほとんど関心すら払われていないというのは。エラスムスルキアノスを愛していたのはほぼ間違いのないことだと思えるが、エピクロスをも愛していたのかどうかは、少なくとも『痴愚神礼讃』のなかでは語られていない。名前があがるのはホラティウスを指して「エピクロスに飼われた豚」と呼ぶときくらいで、そもそもあの本においては、まじめに受け取れるようなことのほうが少ない。エピクロス哲学というのは自分の浅薄な知識から考えてもキリスト教とは相容れないものであるが、本心においては敬虔なキリスト教徒であったエラスムスも、ペトラルカほどの無関心は示していなかったのではないだろうか。

 これをはっきりさせるためには、ここでいくらか安易に呼んでいる、この「ユマニスム」という単語について考えてみなければならないだろう。何度も書いているとおり、わたしの意見では、すべての「isme(ism、主義)」という言葉には、分類できないものを無理に分類しようとする試み以外のなんの意味もない。それでもこの「ユマニスム」という言葉にこだわるのは、これがギリシャ・ローマの古典復興を目指した、文学運動を指したものだからだ。

 中世ヨーロッパにおけるこの運動、「ユマニスム」は、フランス語で書くと「Humanisme de la Renaissance」、英語なら「Renaissance humanism」となる。「ルネサンス」という言葉が入っているのが気になるところだ(これにはもちろん、ただ「Humanisme(あるいはHumanism)」と呼んでしまうと、中世よりもよほど後の時代になって用いられるようになった、人道主義という意味での「ヒューマニズム」と混同されてしまうという理由がある。ただ、学者たちは必ずしもこのことに気を配っているわけではないし、その必要もないだろう。じっさいこのペトラルカの訳者は「ユマニスム」を指して「ヒューマニズム」という英語読みを採用している)。

 この「ルネサンス」という単語がフランス語の「Renaissance」、「naître(生まれる)」という動詞の名詞形「naissance(誕生)」に、反復の接頭辞「re」をつけた「再生」を意味する単語であることは広く知られている。その「再生」の対象とは、すでに見たとおりギリシャ・ローマの古典である。以前に読んだ『大学の歴史』を思いかえしてみると、ギリシャ・ローマの古典研究(ラテン語では「Studia humanitatis」)は、中世においては下等な学問と見なされ、当時の大学においてはまさしく「神学のはしため」として扱われていた。教皇庁の権力と一体となっていた大学は神学の中心、すなわちスコラ学の根城だったのである。このスコラ学に対して、エラスムスが痛烈な批判を加えていたことは、わたしの記憶にも新しい。

 だが、一口に「ギリシャ・ローマの古典」と言っても、その範囲は広大だ。そもそもペトラルカとエラスムスの活動期間を考えてみると、二人のあいだには二百年近い年月が横たわっている。18世紀と20世紀の思想を同一視できないように、14世紀と16世紀の思想を同一視することもできないだろう。ペトラルカとエラスムスの「ユマニスム」は、同じものではない。すべての「isme」が使われる文脈と同様、これを同一視することは矮小化にほかならないのだ。ペトラルカの場合、その愛国心が彼を突き動かしていた。一国に帰属することのなかったコスモポリタニスト、エラスムスとはなんという違いだろう。

「ペトラルカの古典文学熱は、その古代ローマ心酔、祖国愛、民族意識、反「野蛮」感情といったものと切りはなしがたく結びついていたのである。かれによる古代文化<再生>の運動は、じつは古代ローマ再生、イタリア再生の運動と一体のものであらざるをえなかった。このように、イタリアに発祥したルネサンス運動は、その端初においては、イタリア民族意識の高揚と深く結びついていたのである。すくなくともペトラルカにおいてはそうであった」(「祖国の解放と再生のために」解題より、40ページ)

 そしてペトラルカが愛を向けた先は、ギリシャ語作家ではなく、ラテン語作家たちであった。その序列が発生した理由も、イタリアという国に対する愛国心から容易に理解できる。とりわけ、キケロウェルギリウスへの愛が、至るところで語られている。

「じつのところ、私はキケロを愛していました。ウェルギリウスをも愛していました。かれらの文体と天分が何ものにもまして気に入っていたのです。おおぜいのすぐれた人物のうちには、ほかにも私の愛した人がたくさんいました。が、このふたりへの愛は格別で、私にとって、キケロはいわば父であり、ウェルギリウスは兄でした。両者にこれほどの愛をいだいたというのも、多年の研究によって両者の天分にたいしてつちかわれた傾倒の念や親近感が、生ける人びとにたいしてさえもいだきがたいと思われるほどのものだったからです。ギリシア人のうちではプラトンホメロスを、私は同様に愛していました。かれらの天分をわがラテン作家たちのそれとくらべるとき、私はしばしば判定に苦しんだものです」(「文学と政治のはざまで」より、243~244ページ)

 そう言いつつも、彼は別のところで、堂々とラテン語作家たちのほうに優越を見いだしている。文学に優劣をつけることはできない、というのは、ひょっとすると近代的な発想なのだろうか。それでもペトラルカはギリシャ語作家たちへの愛も惜しみなく語っている。

「模倣は一対の輝かしいラテン語の星を生み出しました。キケロウェルギリウスです。こうして、もはやわれわれは、雄弁のどの分野においてもギリシア人に後れをとりません。ウェルギリウスホメロスに倣い、キケロはデモステネスに追随し、そしてウェルギリウスは師の域に達し、キケロは師を凌駕するにいたったのです」(「文体について」より、140ページ)

「いまやラテンの詩神によって、誇り高いギリシアの詩神も勝利の栄冠をおびやかされ、あるいは確実に奪いとられたのです。じっさい、このどちらの見解にくみするかで著作家たちは分かれています。私はあなたと生活をともにしたかのようにあなたの心がわかるような気がしますが、あなたの著作から知るかぎり、あなたはきっと第二の見解にくみするでしょう。そして、修辞・弁論において勝利の栄冠をローマにあたえたように、詩においてもそれをローマにあたえ、『イリアス』は『アエネイス』に劣ると主張したにちがいありません」(「古代人への書簡」より、151~152ページ)

 だが、先述のように、ギリシャ語であれラテン語であれ、これらの作家たちの書物は当時のヨーロッパにあっては不当な扱いを受けていた。ペトラルカの傾倒に対する批判も見られる。キリスト教以前の書物に熱中して、神学をないがしろにしている、というふうに思われてしまったのである。そんな批判に答える論理の支柱となったのが、アウグスティヌスの存在であった。

「あなたのおっしゃるところでは、私はわざといつわって愚かな俗衆を試みているばかりか天をも試み、こうしてうわべはアウグスティヌスとその書に傾倒しながら、そのじつ〔異教の〕詩人や哲学者たちと絶縁してはいないのだそうですね。しかし、なんで私がかれらから離れなければならないでしょう。じっさい当のアウグスティヌス自身がかれらに執着しているのです。でなければ、他の諸著はさておきその著『神の国』に、かれはけっして、哲学者や詩人たちのしっくいをもって、しっかりと土台を与えはしなかったでしょうし、弁論家や歴史家たちの豊かないろどりをもってこの書を飾りあげもしなかったでしょう。当然です。私のアウグスティヌスは、あなたのヒエロニムスのように、夢のなかで永遠なる裁きの庭にひきだされたこともなければ、自分をキケロの徒と呼んで責める声を聞いたこともないのです。ところがヒエロニムスは、ご存じのように、そのような声を聞き、もはや異教徒の著作にはいっさい触れないと誓って、あらゆる異教作家とくにキケロから懸命に遠ざかりました。しかしアウグスティヌスは、なんら夢などで禁止されることなく、かれら異教徒の書物を親しく利用しつづけて恥じなかったのです。そればかりではありません。かれが率直に告白しているところによりますと、プラトン派の書物のうちにわれわれの信仰の大部分を見いだしたのであり、『ホルテンシウス』とよばれるキケロの書により驚くべき転換をなし、あらゆる偽りの希望や相争う諸学派の無益な論争からひきはなされて、唯一なる真理の探究へと向かったのです。そしてこの読書により心を燃えたたされて、感情を変え快楽を投げすて、さらに高く飛翔しはじめたのです」(「二つの憧憬」より、87~88ページ)

 この反論が、中世ヨーロッパにおけるギリシャ・ローマの古典復興を可能にした、と言っても言い過ぎではないだろう。

プラトンキケロが、どうして真理の探究に妨げとなりうるでしょうか。まことにプラトンの学派は、真の信仰を攻撃しないばかりかそれを教え勧めており、キケロの書は、それへとまっすぐに導いてくれるのです」(「二つの憧憬」より、89ページ)

「読者が神の真理の光に照らされて、何に従い何を避けるべきかを教えられるのでないかぎり、危険のない読書などめったにありはしないのです」(「二つの憧憬」より、89ページ)

 ペトラルカはアウグスティヌスのなかに、世俗文学と宗教文学、双方の経験を自身のうちに取り込むことの理論的根拠を見いだしたのだった。こうしてペトラルカは、自身の研究の正当性を証明するとともに、以後二百年にわたってつづくことになるユマニスム運動を思想的に準備したのである。

「表現にかんしては、必要とあればキケロウェルギリウスを利用しますし、なにかラテン作家には見いだせないものがあればギリシア作家から借用してくることも恥じないでしょう。しかし生にかんしては――むろんかれらの著作にも有益なものがたくさん見いだせはしますが――宗教作家のほうを救いのための助言者や教師として利用するでしょう。かれらの信仰や教説には誤謬のおそれがないのです」(「文学と政治のはざまで」より、246ページ)

 そしてペトラルカは、より多くの時間と集中とを求めて、「孤独生活」に入ってゆく。書物を愛するその姿勢は、現代の愛書家となんの変わりもない。

「私は空しい名誉に背をむけて、なにも望まず、あるだけのもので満足している。
 まずこのことで私は黄金の清貧と 固い誓約に結ばれている。
 不快も煩労ももたらさぬこの清雅なる客人と。
 ねがわくば運命よ、このわずかな土地と小さな家と
 甘美な書物は私のためにのこしてほしい。
 自余はおまえが持っていい。なんならそっくり持ち去ってくれていい。
 私はじたばたしない。もともとおまえのものなのだ。
 土地も資産も私は要らぬ。高みをめざす者にはそれは重荷だ。
 それは精神をしばる強固な鎖、あらゆる悪の絶好の糧。
 しかし学芸の財宝にだけは手を触れないでほしい。
 ぜいたくを望まぬわが閑暇をもかきみだしてくれるな。
 私はなにも羨まぬ。そして自分自身のほかは
 だれをもことさら憎まず、さげすみもせぬ」
(「孤独生活」より、107~108ページ)

「私がこの厳しい生活への決意を述べると、
 親しい友も忠実な召使いも私を見すてた。
 たれか友情にひかれて訪ねてきても、牢獄の囚われ人のように私をみなし、
 慰めのことばもそこそこに急いで立ち去る。
 私が悦楽に背をむけてたじろがぬのを見て里人はおどろく。
 かれらは心に 悦楽こそ最高の善と信じているのだ。
 私の喜びや異質の愉楽がわからず、秘密の仲間にも気づかない。
 あらゆる時代が世界中から私に送りとどけてくれる秘密の仲間。
 あるいは言語や知能にすぐれ あるいは勇武や為政にひいでた人たち。
 およそ選り好みをせず、質素なわが家の片隅で満足し、
 私の命ずるままにふるまって拒むを知らない。
 いつも私のそばにいて いささかも邪魔にならない。
 私の合図ひとつでひきさがり、呼ばれるとすぐに立ちもどる。
 そのだれかれに私は語りかけ、かれらはこもごもに答えてくれる。
 惜しみなくおおいに歌い、多くのことを語ってくれる」
(「孤独生活」より、120~121ページ)

 そんなペトラルカは、やがて桂冠詩人としての戴冠を受けることになる。この戴冠は文学史に残る事件だった。ユマニスムの試みはすでにアウグスティヌスの受容によって思想的な準備が整っていたが、この戴冠によって、とうとうそれをヨーロッパ中に広めることが可能になったのである。

「この戴冠によって、ペトラルカの著作家としての名声と地位は全欧的規模で確立される。しかしかれは、この戴冠によってただ自分一個の名誉のみを追及していたのではない。これによって古代文化<再生>の運動そのものに強烈な衝撃をあたえることをも意図していたと思われる。事実、この戴冠式が、ほかならぬ「世界の首都」にして古代ラテン文化の中心地であるローマでとりおこなわれ、こうして古代の重要な文化的行事を花々しく復活させたことは、古代文化<再生>の運動そのものに市民権を認めさせることにもなったといえよう」(「文学的栄光の獲得」解題より、126ページ)

「ペトラルカを中心的指導者とする文学運動は、こんにちルネサンスヒューマニズム人文主義)と呼ばれているものにほかならない。結果的にみて、文学者ペトラルカの生涯はヒューマニズムの形成・成立の過程にほかならなかったと言っても過言ではなかろう。もちろん、ヒューマニズムは一朝にして成立したものではなく、原初(プロト)ヒューマニズムとよばれる先駆的動きは、すでに十三世紀末からイタリア北部・中部の諸都市にみられた。しかし、ヒューマニズムが十四世紀中葉から十五世紀初頭にかけて確立される過程で、ペトラルカのはたした役割は絶大であった。ヒューマニズム運動はまさに、かれの活動によって飛躍的進展をみ、強固な基礎を置かれる。かれが一般にヒューマニズムの真の父とみなされ、あらゆるヒューマニストの真の原型と呼ばれるのも、けっして理由のないことではない」(「解説」より、299ページ)

 桂冠詩人となり、ペトラルカはますます研究に没頭していく。彼の古典に対する愛を見ていると、ただならぬ親近感を覚える。心のうちで感じながらも言葉にできずにいたことを、みごとに言い当てられた気分である。

「書いているあいだは、自分に可能な唯一の方法でわが父祖たちとの交わりに熱中します。こうして、まことに喜ばしいことに、不運な生まれあわせでともに暮らさざるをえない現代の人びとのことを忘れるのです。そして懸命に努力して、かれらを避け、父祖たちに従おうとするのです。現代人は見るのもいやですが、父祖たちの思い出も、その偉業や令名も、信じられないほどの大きな喜びで私を満たしてくれます。これは万人周知のことだとしましても、生ける人たちよりもむしろ死せる人たちとともにいることを私がこんなに喜んでいるとは、多くの人には驚きでしょう。しかし、ほんとうのところは、美徳と名誉とをもって死んでいったあの古代人たちこそ生きているのであって、この現代人たちのほうは、歓楽や偽りの喜びに浮かれ、漁色や安逸のうちに惰弱となり、酒に溺れて懶惰となり、なるほど生きているように見えはしても、しかしそのじつ、なお呼吸しているとはいえすでに腐乱せる恐ろしい屍にほかならないのです」(「文体について」より、136~137ページ)

「多くの研究のうちでも、私はもっぱら古代を知ることに熱中しました。この現代はいつも気に入らなかったからです。ですから、親しい人たちへの愛によってひきとめられなかったなら、どれかほかの時代に生まれたかったといつも思ったことでしょうし、精神的にいつもほかの時代にはいりこむように努めて、この現代を忘れたがったことでしょう。そこで私は歴史家を好みました。しかし歴史家相互の不一致にも少なからず失望し、疑念がのこる場合には、ことがらの真実らしさか著者の権威がみちびくところに従いました」(「後世への書簡」より、266ページ)

 宮下志朗が『痴愚神礼讃』に寄せて、「少なくとも世俗の人間に関するかぎり、この「書斎」もまた、ルネサンスの発明といえるのではないのか」と書いていたのを思い出す。書物との対話こそが、ユマニスムの根幹を成しているのだ。そしてみずからの愛書家ぶりを吐露するところまでくると、ペトラルカに対する親近感は最高潮に達する。そう、そう、そうなんだよ! と思わず手を叩いてしまうほどだ。

「私は書物に飽きることができないのです。しかも私は、おそらく必要以上に多くの書物をもっています。ところが、ほかの事物におけると同様のことが書物においても生じるのです。すなわち、欲求の充足はいっそう貪欲をかきたてるのです。それどころか、書物にはなにか特別のものがあります。――金銀、宝玉、豪華な衣服、大理石の邸宅、みごとな耕地、絵画、飾りたてた馬、その他この種のものがあたえてくれるのは、ものいわぬ表面的な快楽です。ところが書物は、われわれを心底から楽しませてくれ、対話し、助言し、あるいきいきとした深い親密さをもってわれわれと結ばれあうのです。しかも書物は、それぞれが読者の心にはいりこむばかりか、ほかの書物の名前をも忍びこませて、相互に欲望をかきたてあいます」(「古代文化<再生>のために」より、159ページ)

「書はそれ自体、それぞれの魅力をあからさまに示していますが、しかも他の書物の魅力をもひそかに深く蔵していて、両者が互いに増幅しあうのです」(「古代文化<再生>のために」より、161~162ページ)

 上に引いたのはなんと、古典収集を依頼するために友人に書き送った手紙から採ったものである。すばらしい、の一言に尽きる。他人に迷惑までかけてこそ、真の愛書家だ。書物に対する愛を熱烈に語ったうえで、こんなことまで書いているのだ。

「こうしたことを述べたかったのも、私の収集欲の弁解のため、また、こんなに多くのすぐれた仲間を慰めるためです。そこで、ご好意にあまえてお願いしたいのですが、だれか文学に通じた信頼できる人たちに依頼していただけませんか。トスカナ中をさがしまわって、修道院や学識者の書架をあさり、私の渇きをいやしてくれるようなもの、あるいはかえって刺激するようなものを見つけてほしいと。
 ところで、私がつねづねどんな湖沼で魚をとり、どんな茂みで獲物をとらえているかをご存じとはいえ、あなたがしくじったりなさらぬよう、私がとくに欲しがっているものを列記して同封します。あなたの熱意をいっそう掻きたてたくてお知らせしますが、私はイギリスやフランスやスペインの友人たちにも同様の依頼をしました。誠意と熱意において彼らに劣ると思われないよう、どうかご尽力ください。さようなら」(「古代文化<再生>のために」より、164ページ)

 この「欲しがっているものの列記」が気になってしかたない。それにしても、こうしてペトラルカが収集してくれたおかげで、もしくはペトラルカによってだれかが収集させられたおかげで、現代のわたしたちが読むことのできる書物もあるのだな、と思うと、感謝してもしきれない。ありがとう、ペトラルカ。

「再発見や復元の努力をともなう古典収集。これによってペトラルカがめざしていたのは、古典古代の人間性や文化をいきいきと現在によみがえらせることであった。そうして古代文化を、われわれ自身の生の糧とし、新しい創造のエネルギー源とすることであった。要するに古代文化の<再生>である。このような意味での再生によってのみ、過去の文化は、生きた真の伝統となりうるのである」(「古代文化<再生>のために」解題より、157ページ)

 書物への愛は、あらゆるかたちを採って開陳されている。先にも引いたキケロに宛てた手紙などは、その典型だ。キリスト教以前の著者に宛てたファンレターである。

「あなたのすぐれた著作は、たしかに、たくさん残っています。読みきれないどころか、かぞえきれないほどです。あなたの仕事は、その世評きわめて高く、その名声は大きく、とどろきわたっています。しかし、それを研究する人たちは、きわめてまれです。時代そのものの不運のせいか、天分の愚鈍や貧弱のせいでしょう。あるいはむしろ、ほかのことに心をかりたてる貪欲のせいでしょう。こうして、あなたの著作は、そのいくつかが失われてしまいました。とりかえしのつかないようにかどうかは、むろんわかりませんが、しかし、いま生きているわれわれにとっては、たぶん失われてしまったのです。私には大きな悲しみであり、現代にとっては大きな恥辱、後世にたいしては大きな不正です。じっさい、われわれの天分をなおざりにして、なんら有益なものを後世に贈り伝えないだけでは、まだ充分に恥辱とは思われないかのように、われわれは、まことに残忍で許しがたい怠慢によって、あなたがたの労苦の成果を無残にも損なってしまったのです。じっさい、私があなたの著作において嘆くゆえんのものは、ほかのすぐれた人たちの多くの著作にも生じたのです」(「古代人への書簡」より、153ページ)

 このキケロの例にも見られるように、ペトラルカの手紙の宛先は、じつにさまざまである。古代人、友人たち、教皇、皇帝、そして後継者たち、後世の人びと、さらには自分自身。この宛先の多彩さからも、ペトラルカがどんなに書簡という文学形式の地位を高いところに置いていたかが推察される。

「私は長い沈黙のうちに瞑想にふけりました。人間は愚かにも、みずからのもっとも高貴な部分をなおざりにして、さまざまなことに気を散らし、むなしい眺めにわれを忘れては、内部にこそ見いだせるはずのものを外にもとめているのだと」(「自然と人間との再発見」より、77ページ)

「私はほんとうにだれだったのか。幸運の星のもとに生まれていたのか。
 しめされた道をたどる私の旅は 速かったのか遅かったのか。
 要するに、この死すべき肉体の 私はいかなる客人であったのか」
(「自己自身への書簡」より、217ページ)

 この「自己自身への書簡」をあげて、訳者はほかのユマニストたちへの繋がりを示唆してくれている。

「作品全体をおおう深いペシミズムと無常感、自己の魂の救いをもとめる切なる願いと祈り、これらもみなペトラルカ文学に特徴的なものである。のみならず、自己自身への書簡という形式そのものがすでに、さきの古代人宛書簡とおなじく、いかにもペトラルカらしいといえよう。この形式も、かれにみられる強い自己意識や不断の自己省察と深く結びついていると思われる。このような自己意識や自己省察も、のちにモンテーニュに典型的にみられるように、ヒューマニズムの特質の一つをなしている」(「自己自身への書簡」解題より、205~206ページ)

 さらには「後世への書簡」も、文学史的関心をそそられるものだ。

「この書簡体自叙伝はむろん、王侯との親交を正当化するための弁明書としてのみ受けとられてはならない。この作品にはさまざまな動機が内在している。後世人宛に書簡を書くこと自体、後世の人びとによせる強い関心を示している。この関心は、著者の名声欲や名誉欲とも別物ではないであろう。また、自己の諸作品がもつ独自の価値についての自覚、自己自身や自己の生がもつ独自性についての意識も、そこには働いている。こうした関心や意識はルネサンスの、そして一般に近代の、自伝文学の著者たちに共通して見られるものであろう。その意味でもこの自叙伝は、ルネサンスの自伝文学の原型をなし、文学史的にも独自の位置を占めている」(「後世への書簡」解題より、258ページ)

 教皇庁に対する態度についても、無関心ではいられない。エラスムスほどの痛烈さはないものの、それでもペトラルカは教皇庁を批判している。当時の教皇庁は、歴史用語で言うところの「アヴィニョン捕囚」の状態に置かれていて、その権威の失墜をペトラルカは生涯にわたって嘆き、状況を打破しようとしない教皇を批判していた。アヴィニョン捕囚の時期は1309年から1377年まで、ペトラルカの生没年は1304年から1374年なので、教皇庁はペトラルカのほぼ全生涯にわたって、本来あるべきローマではなく、アヴィニョンに置かれていたことになる。ローマ、さらにはイタリア全体の再生を常々願っていたペトラルカにしてみれば、教皇の不在ほど彼を悲しませる材料もなかったのだ。

「私はいま心身ともに苦しんでいます。現在の私から、おだやかなこころよいことばは何ひとつ期待しないでください。にがい泉から甘い流れが湧き出ることはできません。当然のことながら、病める胸の吐く息は悪臭をおび、怒れる心の発することばは激越です」(「教皇庁批判」より、224ページ)

 それから、イタリア・ユマニスム運動を代表するもう一人の作家、ボッカッチョとの関係。晩年になってミラノに居を定めたペトラルカに対し、ボッカッチョが辛辣な批判を加えたことが伝えられている。群雄割拠状態であった当時のイタリアの様子が察せられるエピソードである。

フィレンツェの友人たちは詩人にたいして、あるいは困惑を隠さず、あるいは非難の声をあげた。なかでも親友ボッカッチョは、すぐ詩人に書簡を送り、きびしくその行動を批判した。ボッカッチョはヴィスコンティ大司教を残忍非道な「暴君」ときめつけ、詩人が暴君の友となったことを非難する。そして詩人に、暴君の桎梏をのがれて以前のような自由な生活にもどることをもとめる」(「文学と政治のはざまで」解題より、230ページ)

「最晩年のペトラルカが自己のヒューマニズム運動の後継者としてもっとも嘱望していたのは、ボッカッチョとルイージ・マルシリであろう。たしかに、ペトラルカはボッカッチョに抜群の天分を認めていたし、ボッカッチョもペトラルカを師として友として敬愛していた。しかしペトラルカの眼には、ボッカッチョはどちらかといえば自己のヒューマニズム運動の世俗面の代表的継承者と映り、マルシリは宗教面の継承者と映っていたのではあるまいか。もちろんボッカッチョもマルシリも世俗文学と宗教文学の双方に通じていた。が、ボッカッチョは世俗的市民であったし、マルシリはアウグスティノ会士だったのである」(「後継者への書簡」解題より、251ページ)

 ペトラルカの知識はおそろしいものだが、そのイメージは近寄りがたい碩学の徒というのではぜんぜんなく、むしろ知識欲に溢れ、その体験を人と共有することを喜ぶ、書物を愛する一読者というものだった。この親近感は忘れがたい。

「自慢ではありませんが、私はけっして現代の人びとほど時間を粗末にしたことはありません。しかしまた、けっして充分に尊重してもいませんでした。私はただの一日も空費したことがないと言いたいところですが、じつは多くの日を空費しました。いな、残念なことに何年も。しかし少なくとも、こうは言ってよいでしょう。私の記憶しているかぎりでは、それと意識しないで空費した日は一日もない、と」(「文学と政治のはざまで」より、236ページ)

 わたしたちは生涯に何冊の本を読めるのだろう。ここには書物を愛する人ならだれもが考える、おそろしい質問が隠されているように思える。一年に百冊だとして、自分が六十歳まで生きられるとしても、たったの六千冊だ。時間が足りない。あと三千五百冊。ああ、時間が足りない!

「抒情詩人、叙事詩人、古典学者、歴史家、弁論家、哲学者、宗教作家、地理学者……。著作家としてのペトラルカはこのすべてであり、またそれ以上であった」(「解説」より、289ページ)

 この本を手に取ったことで、自分のうちにぼんやりとあったユマニスムという言葉の意味が、いっそう複雑になった。いったいどこまで広がっていくのだろう。少しおそろしい気もするが、たまらなくわくわくする。書物を読む喜びに溢れた一冊だった。

ペトラルカ ルネサンス書簡集 (岩波文庫)

ペトラルカ ルネサンス書簡集 (岩波文庫)

 


<読みたくなった本>
ペトラルカ『わが秘密』

わが秘密 (岩波文庫)

わが秘密 (岩波文庫)

 

ゲーテ『詩と真実』
→「ゲーテはその自叙伝を『詩と真実』と名づけた。つまりそれは「つくりものとほんもの」「うそとまこと」にほかならないのである。そしておよそ自叙伝は、どれほど誠実な<客観的>叙述をめざしても、じっさいにはそうでしかありえないであろう。だが、「つくりもの」であり創作であることは、けっして「まこと」を伝えることを妨げるものではない。ヴァントゥウ登攀記もまた、まぎれもなくペトラルカの「詩と真実」である」(「自然と人間との再発見」解題より、60ページ)

詩と真実 (第1部) (岩波文庫)

詩と真実 (第1部) (岩波文庫)

 
詩と真実 (第2部) (岩波文庫)

詩と真実 (第2部) (岩波文庫)

 
詩と真実 (第3部) (岩波文庫)

詩と真実 (第3部) (岩波文庫)

 
詩と真実 (第4部) (岩波文庫)

詩と真実 (第4部) (岩波文庫)

 

アウグスティヌス『告白』

告白 I (中公文庫)

告白 I (中公文庫)

 
告白 II (中公文庫)

告白 II (中公文庫)

 

キケロ『最大善と最大悪』

キケロー選集〈10〉哲学III―善と悪の究極について

キケロー選集〈10〉哲学III―善と悪の究極について

 

ウェルギリウスアエネーイス

アエネーイス (西洋古典叢書)

アエネーイス (西洋古典叢書)

 

ウェルギリウス『農耕詩集』

牧歌/農耕詩 (西洋古典叢書)

牧歌/農耕詩 (西洋古典叢書)

 

ボッカッチョ『デカメロン』

デカメロン(上) (講談社文芸文庫)

デカメロン(上) (講談社文芸文庫)

 
デカメロン(下) (講談社文芸文庫)

デカメロン(下) (講談社文芸文庫)

 

ソプロンの喜劇作品
ルイージ・マルシリの著作