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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

聖少女

 すでに差し迫っている日までに、なんとしてでもこの作家の本を一冊読んでおかなければならない、という自分のうちに起こった強迫観念から手に取った一冊。必要に迫られた読書というのは、時間ばかりがかかって遅々として進まないものだが、この本に関してはぜんぜんそんなこともなく、あっというまに読み終えてしまっていた。

聖少女 (新潮文庫)

聖少女 (新潮文庫)

 

倉橋由美子『聖少女』新潮文庫、1981年。


 もともと日本語で書かれている本を読むのは久しぶりなこと、のはずなのだが、どういうわけか日本人作家の本を読んでいる気がしなかった。読みづらい、というわけではなく、自分がこれまでに読んだことのない日本語で書かれている、という印象を持ったのだ。

「十二時。いま四月の夜の雨が降っています。舗道を女神のぬれた舌がなめています。その跡は黒くぬれて愛されたひとの肌のようになります」(47ページ)

「母はなにかを嗅ぎつけています。たとえばあたしがパパに買ってもらったもののリストを、ママはその灰色の大脳皮質にぎっしりと書きこんでしまったかもしれません」(49ページ)

 わたしが翻訳された日本語を読むときには、英語やフランス語の原文が、どんな姿だったのかを想像しながら読んでいるところがある。そして、その原文のかたちを読者に予想させないという点が、自分にとっての「良い翻訳」のひとつの基準を成している。これって原文はどうなっているんだろう? と頭を抱えるときは、たいていその表現の美しさにうっとりしているときなのだ。ところが、じつに倒錯したことに、倉橋由美子を読んでいる最中にも、これが起こった。原文はどうなっているんだろう? と、原文と向かい合いながら考えてしまったのだ。

「「現在この家のなかに住んでいる人間たちをごらんになってみる? あたし、御案内しますけど」未紀はまるで珍奇な動物の檻をみてまわろうという調子でそういった。住んでいるということばをぼくは棲んでいるときいた」(85ページ)

「植物同士の弱アルカリ性アガペーがぼくたちの接触した部分をとおして交流した」(190ページ)

 この小説の前半部は、交通事故によって記憶を失った少女のノートとして書かれている。この、「あたし」という一人称で書かれた文章が圧巻なのだ。なんだか、男たるものは絶対に見てはいけない、女の秘密を突きつけられているような感があって、妙なスリルがある。

「娘が男と親しみをかさねると、なによりも匂いが変ってしまうのだそうです。きょう、Mがそう指摘してくれました。恋人ガデキテカラアナタノ匂イハトテモ濃クナッタワ。マエニハアナタッテ風ミタイニナンノ匂イモモッテナカッタノニ、近ゴロノアナタニハ花トミルクト動物臭イ匂イガスル。それはあたしが化粧品や香水で自分の匂いをつくることをおぼえたからでもあります。いま、数種類の香水がドレッシング・テーブルにならんでいます。中世の錬金術師さながらに秘術をつくしてあたしの匂いを合成するのです」(50ページ)

 このノートに書かれた「あたし」の趣味を見ることで、倉橋由美子という人がどんな本を読んできたのかがうっすらわかった気がする。

「それでも二軒のお店で意外にもうかったため、翌年、つまりあたしが十六の年の夏には青山にまたひとつ、モンクという店ができました。このモンクはあたしが好きなようにつくったお店です。あたしのお城でした。シートは三十足らずの小さいカフェですが、小型車なら五台は駐車できる駐車場を横にもうけ、店内は中世の修道院風に、暗く陰惨に装飾しました。壁にはブリューゲル、ヒーロニムス・ボス、ポール・デルヴォー、パルテュス、チャペラ、サルヴァドール・ダリなどの複製画をかかげ、死神のもつ錆びた大鎌、一時間ごとに死刑執行人があらわれて囚人の首を斬りおとす仕掛のまがまがしい時計、各種の鞭、いばらの冠などを吊しました。できることなら鉄の処女をはじめとする中世の拷問器具をとりそろえたかったのですけれど」(38~39ページ)

「小学校にはいったときからずっとあたしは模範的な優等生でした。わるいことをして叱られたことはただの一度もありませんし、なにかをきかれて知らなかったことも数えるほどです。あたしはすべすべした美徳の卵として学校生活をすりぬけてきたわけでした。しかしもし気まぐれな女教師がいてあたしの制服をめくりあげてみることをおもいついたとしたら、彼女はフランス製のスリップやブラジャーを身につけたあたしを発見したでしょうし、鞄のなかをさぐってみれば、美徳の不幸やビリティスの歌、ときにはマドモアゼルOの物語などがあらわれて肝をつぶしたことでしょう」(61ページ)

 喫茶店の名前「モンク」は、おそらくマシュー・グレゴリー・ルイスの小説から採ったものだろう。画家の名前にポール・デルヴォーまで挙がっていることに驚いた。彼が挿絵を描いた、あるベルギーの作家の小説を、わたしはフランスでずっと探し続けていたのだ。それにしても「あたし」の読書の傾向が、サドとピエール・ルイスとポーリーヌ・レアージュでは、いくらなんでもわかりやすすぎる。これらの作家の小説を読んだことのある人たちに、なにか典型的なイメージを抱かせようとしているとしか思えない。つまり、それを裏切るつもりでいるのではないか、という警戒心を起こさせるのだ。

「人間にはけっして理由がわからないから悪いことなのでしょう。理解しがたい禁止が掟というもので、その禁じられたものが悪と名づけられるのでしょう?」(161ページ)

「すすんで罪を犯すことは、聖女になるみちかもしれませんわ」(164ページ)

 そもそもの語り手「ぼく」がノートのページをめくることで、読者も彼女の秘密を知っていくのだが、ときどきノートの文章のあいだに「注釈」が挟まれ、「ぼく」が顔を出してくる。その奇抜な小説構造を見ながら、おお、まるで『トリストラム・シャンディ』のようだ、などと考えた。だが、そんな思いつきがつまらない詮索でしかないことはすぐに証明される。ノートはやがて終わり、物語はもっとずっと複雑になっていくのだ。

「未紀の容貌やからだつきや服装を描写することになんの意味があるだろう? 未紀に多くのことばを貼りつけて読者のまえにつれだそうとする小説家に呪いあれ、だ。ぼくなら、むしろ未紀を透明にして読者のまえからかきけすためにことばを使いたい。とにかく、未紀は、みえなくてもいい、そこに存在していることさえ信じられればいいのだ」(6ページ)

「ひとはなんのために小説を書くのでしょうか? 小説家は、小説を分泌せずにはいられないという業病を金銭とむすびつけることによって生きている人間で、あたしには理解できない種類の人間に属しますが、素人の場合は、自分の生に意味づけしたいという衝動から手記のようなものを書き、それがごく自然に変質して小説となるのでしょう。つまりかれらにとって、小説はあきらかに認識の一手段です」(268~269ページ)

 物語は次第に、書くという行為そのものに対する議論として広がっていく。行為の性格自体が、小説を読むうえでの重要な要素となっていくのだ。

「三時ごろまで書きつづけて興奮したまま眠ったが、朝まで頭のなかを蟹の行列がはいまわっていた。なんとかしてそいつを原稿用紙のうえに追いだし一匹一匹を四角い容器にとじこめようとするが、うまくいかず苦しい。おきあがるとまず机のうえの原稿をみた。ぎごちない字がならんでいて、不毛の地の畑に種をまいたあとをながめるようだった。収穫期はほど遠いという感じが絶望の棘となってぼくを刺す。なぜぼくはこんなものを書きはじめたのか? ゆうべ、ぼくの目のまえには一瞬にしてできあがった小説が全長四十メートルもあるディノザウルスの図体をしてころがっていた、とみえたのは幻で、よくみると、肉は腐りおちてがらんどうの骨骼ばかり。いやそれさえもあくびの息のひと吹きで吹きはらわれて形をとどめない。手に握りしめているのは一片の鱗にすぎなかった。これに魔法をかけてふたたびあの全体をつくりだすにはどうしたらいいか、おそらく小説という怪物を成育させる術は、これに時間の餌を喰わせる以外になさそうである。つまりはこれからぼくが生きる時間でこの怪物を養い、最後はこのぼくが小説に化けてしまうこと。そうと心をきめれば全速力で書きつづけるだけである」(171~172ページ)

「小説って、あなたが事実ということばで考えているものに対して、あるパラドクシカルな関係をもつものなのよ」(200ページ)

 途中にあらわれる認識論めいた議論も面白い。デカルトサルトルが読みたくなった。

「でも記憶とはどういうことなのでしょう? たとえばあたしはただひとりの女友だちであるMさん(とMさん自身がいいましたから、これはほんとうなのでしょう)についての記憶がありません。Mさんをおぼえていません。Mさんについての記憶がないということは、Mさんが存在しないということとおなじです。それなのに、Mさんはいま存在していて、アタシガMヨ、といいます。うす気味がわるく、怖くなってしまいます。Kさんについても、そのほかのひとたちについてもおなじこと。名前も重さもない亡霊のようなひとたちがあらわれて、めいめい自分が存在していたことをあたしになっとくさせようとします。まるで前世のことをきいているみたいですけれど、みんなが口をそろえていうからには、きっとこのひとたちのほうが正しいのでしょう。このひとたちはこれまでも存在していたし、だからこそいまも存在しているのでしょう。まちがっているのはあたしのほうなのでしょう。記憶を失ったということは、あたしを失ったということでした」(96~97ページ)

 ところで、「長篇小説とは完結するものである」という池澤夏樹の言葉がある。わたしはこの小説を読んでも、確固たる完結の印象、つまり「読了の向こう側」を見ることはできなかった。ただ物理的に最後のページまで読み終えたというだけのことであって、ここになにかを書こうとするのも、言わば読みかけの小説に対してなにかを言おうとしているような、負け戦的な感覚が拭えない。そもそも、たった一冊の小説を読んで、作家についてなにか説得力のあることを言おうとすること自体が間違っているのだ。ストーリーの展開を逐一追いながら、どう見ても重要きわまりない文章を引いて、謎解きを試みることもできたはずだが、それはまさしく詩に対するつまらない解釈のようなもの、つまりこの小説をこれから読もうとする人には毒にしかならず、すでに読んだ人にはあまりにも独断的な意見と映るようなことだろうから、いっそのこと完全に放棄してしまったほうがよほど好ましいと思った。そんなことより、ここに書かれた美しいことばに目を向けるべきだろう。

「あなたは、完全に明晰な状態で自分の意志によって発狂してしまうことを考えたことはありませんか?」(277ページ)

 われながら、内容のあることはなにも書いていない。だが、重要なのはなにが書かれているかではなく、どう書かれているかだろう。これほど感想を書く気が起こらない本も珍しかった。もっと読んでみたい。

聖少女 (新潮文庫)

聖少女 (新潮文庫)

 


<読みたくなった本>
倉橋由美子『暗い旅』
→「ある日、彼女の留守中に三冊のノートが部屋から紛失した。そのノートの内容は未完の(彼女にとって作品はいつも未完なのだが)小説だった。二人称で書かれたかれとあなたに関する仮説としての小説で、作家はそれをBlue Journeyという名でよんでいた」(179ページ)

暗い旅 (河出文庫)

暗い旅 (河出文庫)

 

サルトル『存在と無』
→「あのBlue Journeyのなかのかれが小説そのものまでnéantの穴のなかにひきずりこんで完全に消滅してしまったのね」(180ページ)

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

 
存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫)

存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫)

 
存在と無―現象学的存在論の試み〈3〉 (ちくま学芸文庫)

存在と無―現象学的存在論の試み〈3〉 (ちくま学芸文庫)

 

ラブレー『ガルガンチュア』
→「ぼくにとって本は食物とおなじ程度に必要であり、一日に平均二○○ページは活字を食べないとたちまち精神の栄養失調をおこすのだ。さて、ぼくの手はまだ一○円貨をにぎっていたのだった。そのときぼくは一軒の古本屋の店先に立ってガルガンチュアとパンタグリュエルでも万引きすることを思案していた。あれはぜひとも手垢でよごしてみたい本である。ただしぼくのみつけたラブレーの全四冊は厳重に縛られて店先のショウケースにはいっており、これを万引きするのは白昼刑務所から囚人を脱走させるよりもむずかしい」(244ページ)

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)