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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

フランスの愛書家たち

配架-フランス文学 評価-★★★★☆(大満足) いわゆる-複数作家・アンソロジー テーマ-愛書狂 翻訳家-生田耕作

 ずっと以前に購入して読まずにいたのを、たまたま本棚の整理をしていたら見つけたので、嬉々として手に取ってみた。そしてあっというまに読み終えた。

愛書狂 (平凡社ライブラリー)

愛書狂 (平凡社ライブラリー)

 

アンドルー・ラング他(生田耕作編訳)『フランスの愛書家たち』奢覇都館、1993年*。
追記(2014年10月18日):奢霸都館版が見つからなかったため、書肆情報・リンクはこれらの作品が収録された平凡社ライブラリー版『愛書狂』2014年。表紙だけは奢霸都館版のものを貼っている。


 そういえば以前にもオクターヴ・ユザンヌの『愛書家鑑』を紹介したことがあるが、あの本と同じくらい、何度でも読み返せるほど薄くて、装幀が美しくて、いつまでも持っていたいと思える一冊である。同じことを考えている人は大勢いると思うが、奢覇都館の出版物はいつかすべて揃えたい。わたしの場合、まだ十点ほどしか持っていないのだが、生田耕作が個人で立ちあげたこの伝説的出版社の刊行物は、愛書家たちの羨望と垂涎の的なのだ。古本屋でもかなりの高値がついていることが多く、なかなか手が出せないのも、心をくすぐる。とはいえ、この一冊は奢覇都館の刊行物でもかなり入手しやすいほうなので、最初の一冊として薦めておきたい。

 このたいへん薄い本のなかには、書物にまつわる三つの短篇エッセイ・小説が収められている。書物愛を持たない人にはまったく面白くもなんともない、まさしく「少数者のための文学」だろう。アンドルー・ラングによる最初の作品に、こんな文章があった。

「書物にたいする情熱は感情的情熱であるために、自分でそれを味わったことのない人たちにはなかなか理解してもらえない。感情は口で説明しにくいものだ。猟書家を理解しようとする場合、必ず頭に入れておかねばならないのは、彼にとって書物はなによりもまず「聖遺物」であるということ。敬愛する偉大な作家もまたいま自分が目の前にしているのと同じ本を手に取り、同じ活字の配列を眺めたのだと考えるのが楽しいのである」(ラング「フランスの愛書家たち」より、11ページ)

 ちなみに、奢覇都館の図書目録には、以下のすばらしい言葉がきまって記されているので、忘れず紹介しておきたい。

「低俗と量産の時代に、敢て問う誇り高き少数者の声。瓦礫文化の底から、埋れた結晶群の美を探る、<反時代的>コレクション。細心の編集と瀟洒な造本で贈る」

 以下、収録作品。

★★☆アンドルー・ラング「フランスの愛書家たち」
★★☆アレクサンドル・デュマ稀覯本余話」
★☆☆シャルル・ノディエ「ビブリオマニア

 アンドルー・ラングはご存じのとおり、最近まで東京創元社から刊行されていた『世界童話集』の編纂者としても知られる、スコットランドの詩人にして小説家、文芸評論家にしてアンソロジストである。わたしが生田耕作を敬愛してやまないのは、みずからの専門外である英語で書かれた文学作品を、なんのためらいもなく訳出してしまうところにもある。わざわざ英文学者たちにお伺いを立てていたら、これほど面白い作品を紹介することも叶わなくなってしまっただろう。勝手にやればいいのだ。出版社が英文学者以外に訳出をさせたくないというのなら、自分で出版社を立ちあげればいい。これこそが知識人のあるべき姿だろう。

 この「フランスの愛書家たち」には、タイトルのとおり、たくさんの愛書家たちが登場してくる。彼らのエピソードを眺めているだけで、笑いがこみあげてくるのは、自分も愛書家だからなのだろう。とりわけ、モリエールとナポレオンの逸話はとても興味深かった。

「『女房学校』をめぐる喧喧囂囂の文学論争の最中にばら撒かれた夥しい数の小冊子の最後をしめくくる『喜劇戦争』の著者はこう言っている「彼は古本が目に入ればぜったいに逃さない」と。スーリエ氏のおかげでモリエールの蔵書目録が発見されたものの、蔵書自体は姿を消してしまった。該目録には約350冊が記されている。しかし現在では同じ目方の金塊よりもはるかに値のはる薄汚い古本の山をモリエール未亡人ががらくたと見做して、(彼女らご婦人方の愛すべき欠陥であるが)始末してしまったものと考えられる。モリエールは240冊にも達するフランスおよびイタリアの喜劇台本を所有していた。これらから彼は自分に合ったねたを随時採取していたわけだ。他にもギリシャ・ローマの古典籍、歴史書、哲学論文、モンテーニュの『随想録』、『プルタルコス』、それに『聖書』も混じっている」(ラング「フランスの愛書家たち」より、20~21ページ)

「皇帝の位に登ったときナポレオンは、この騒然たる治世の中から文学を産み出させようとして空しい努力を重ねた。彼自身が無類の小説好きときており、常に目新しいものを追い求めたが、不幸にも、その時代の新作小説までがどうしようもない駄作ぞろいだった。図書係バルビエは、皇帝の行く先々へ新刊読み物の包みを送るよう命令されており、小説本の嵩だかい荷物がドイツ、スペイン、イタリア、ロシアへまでもナポレオンの軍隊の後を追いかけるのだった。征服者を喜ばせることは容易なわざではなかった。本を読むのは馬車の中で、そして、二、三ページ目を通してみて、退屈なものは窓から外へ投げ捨ててしまうのだった。お伽噺の「親指太郎」が撒いていった白い小石ではないが、小説本を手がかりに彼の後をつけることも出来たかもしれない。気の毒なバルビエは、日に二十冊も要求する小説熱に応じきれず、とうとう音を上げてしまった。二年前の小説をごまかして押しつけてみたが、ナポレオンはどれにもみな目を通しており、王者の軽蔑を露骨に示して、二度と手に取ろうとはしなかった」(ラング「フランスの愛書家たち」より、26~27ページ)

 それから、革命期に愛書家たちを襲った悲劇の数々には目も当てられない。フランスにおいて豪奢を極めた装幀技術が災いして、書物は貴族趣味の象徴と見なされるようになってしまったのである。フロベール『感情教育』のなかで、画家のペルランが放った、「へえ、革命ね。芸術がどこにある? 史上最低の時代だ!」という言葉が思い出される。

「大革命の間は、立派に装幀された本を好むというだけで、自分は貴族であるということを宣言するようなものであった。コンドルセにしても、このことが因で、真の革命家ではなくただの教養人にすぎないことを暴露するきっかけになったのである。王室印刷所から刊行されたホラチウスの小型美本を焼き捨てておきさえすれば、断頭台上の露と消えずにすんだであろうに」(ラング「フランスの愛書家たち」、25~26ページ)

 ラングに限ったことではなく、ここに収められた三つの作品は、時代によってはかなり実践的な古書渉猟マニュアルとなっただろう。それぞれの作品に共通して登場する、セーヌ河岸の「ブーキニスト(bouquiniste、露天古本屋)」は、パリを観光したことがある人なら見たこともあると思う。今となっては怪しい土産物などで客引きをしている店がほとんどだが、そのいかがわしいがらくたの山の奥には、たくさんの古本が並んでいるのだ。わたしもG. Brunoの『Le tour de la France par deux enfants』の初版本の複製を、たったの8ユーロで購入した記憶がある。今となってはサン・ミッシェル界隈にその「古本屋街たる地位」を譲ってしまった感があるが、往時のセーヌ河岸は一キロ以上にわたる古本屋の行列となっていたそうだ。

「並みの資産に生まれ合わせた蒐集家たちは、猟書のやり方までが<狩り立て>に似ている金持ち連中とはもともとしっくりいきようがない。「河岸」の均一本の棚を覗き込み、文学的真珠を探し求めて埃りまみれの箱の中へ潜り込む、野生の獲物をねらう見すぼらしい狩人こそ我らの仲間である。これら熱心な連中は朝早くから目を覚まし、一般の通行人が立ち寄る前に露天古本屋(ブーキニスト)へと急ぐ。他の狩猟同様、この場合も早朝がいちばん良い時刻である。夏場だと、朝の七時半から露天古本屋・廉価本業者たちは、前の晩に仕入れた本、没落した家庭から流れ出た代物や、図書館の放出品を並べにかかる。昔気質の古本屋は自分の扱うガラクタ品の値打などまったくといっていいほど気にしていない。仕入れの費用に見合うわずかな利潤が得られればこと足れりとしているからだ。精力的で事務的な古本屋だと、年間十五万冊は商うと見ていい。この厖大な数の中には、「サザビー」や「ドルーオ館」(パリの有名な競売所)でイスラエルの子らと渡り合う資力のない市井の蒐集家のための落ち穂が、きっと混じっているにちがいないのである」(ラング「フランスの愛書家たち」より、31~32ページ)

「ここは古書の洪水だ。だけどよりにもよってなんという古本ばかり! ここ一月間新聞や雑誌で賞めそやされた作品が、一つ残らず顔を揃えている。どれもみな編集局か出版社の倉庫からここへ、見切り本の箱の中へ、間違いなく確実に飛び込んでくるのである。哲学者、歴史家、詩人、小説家、あらゆる種類、あらゆる判型の著者たちが、どれほど華々しい宣伝も役立たず、不滅の名声へ至り着く寸前の煉獄で立ち往生し、いずれもみな蔑まれ、書店の棚からセーヌ河の手摺りへ、この深き「黄泉の河」の縁へ居場所を移し、思い上がった己れの跳躍の確実な末路を、次第に黴つきながら、見つめつづけているのである」(ノディエ「ビブリオマニア」より、73~74ページ)

 デュマの『回想録』からの抜粋、「稀覯本余話」はげらげら笑って読んだ。愛書家の定義がすばらしい。

「「ところで、きみは<ビブリオマニア>という言葉を知っていますかね?」
 「ギリシア語は知りません」
 「自分が知らないということを知る。ものを学び始めるには何よりもその心掛けが大切です。愛書狂(ビブリオマニア)とは(<ビブリヨン>つまり書物という言葉、それと<マニア>熱狂という言葉とが語源で)、人類、両足動物、つまり人間の一変種です」
 「わかりました」
 「羽のない、二本足の、この生物は、普段はセーヌ河岸や並木通りを彷徨し、古書店の陳列棚があれば必ず立ち止まり、そこにあるすべての本に手を触れます。たいてい長すぎる外套に短かすぎるズボンといういでたちで、きまって踵のちびた靴をはき、頭には脂じみた帽子、そして上衣の下、ズボンの上に紐でしばりつけたチョッキを着込んでいます。彼を見分ける目印の一つとして、めったに手を洗わないということも挙げられます」」(デュマ「稀覯本余話」より、45~46ページ)

 古本屋をまわっていると、すでに持っている本や、たいして関心のない本まで手に取っていることが、よくある。まさに「そこにあるすべての本に手を触れ」るのである。ちなみに、以上のことを解説しているのは、次の作品の著者たるシャルル・ノディエ本人だ。ノディエの作品のほうは詰めこみすぎというか、短い作品のなかにあまりにもたくさんのことが書かれていて、情報過多、読むのに疲れた。史料価値は凄まじいものだろうけれど。

「ラドヴォカのあの豪勢な店構え。まさしく堕落した現代文学のガリオ・デュ・プレだね。間口のひろい活動的な本屋で、もっと良い時代に生まれてくればよかったんだが、情けないことに昔の本に犠牲を強いて、無闇に新刊本ばかり増やすことにかかりきっとる。コットン紙と、でたらめな文章と、ごてごて飾り立てた挿絵がご贔屓で、くそ面白くもない小説本、当世はやりの詩集を売り出すことしか考えちゃおらん、まるでフランスはロンサール以後にも詩があり、モンテーニュ以後にも散文があるみたいだ!」(ノディエ「ビブリオマニア」より、77ページ)

 とりわけ、注釈に書かれたラブレーの評価が関心を惹く。『第一之書』たる『ガルガンチュア』の第十三章を指して、彼は、「この章のなかに「人智の要約が含まれている」と言っている」そうだ(ノディエ「ビブリオマニア」注より、100ページ)。話題になっている章のタイトルは、「尻を拭く妙法を考え出したガルガンチュワの優れた頭の働きをグラングゥジェが認めたこと」。ちなみに宮下志朗訳では、「グラングジエ、ある尻ふき方法を考案したガルガンチュアのすばらしいひらめきを知る」である。

「Macte anino, generose puer(高貴な若者よ、智恵において肥れ!)」(ノディエ「ビブリオマニア」より、78ページ)

 愛すべき人びと、愛すべき書物である。白水社から刊行されている『愛書狂』というアンソロジーも、この本との関係が深い一冊なので、近いうちに紹介したい。

愛書狂 (平凡社ライブラリー)

愛書狂 (平凡社ライブラリー)

 


<読みたくなった本>
Gabriel Naudé, Advis pour dresser une bibliothèque

Pierre Gustave Brunet, Les Fous littéraires

ラ・ブリュイエール『カラクテール』

カラクテール―当世風俗誌 (上) (岩波文庫)

カラクテール―当世風俗誌 (上) (岩波文庫)

 
カラクテール―当世風俗誌 (中) (岩波文庫)

カラクテール―当世風俗誌 (中) (岩波文庫)

 
カラクテール―当世風俗誌 (下) (岩波文庫)

カラクテール―当世風俗誌 (下) (岩波文庫)

 

シャルル・ノディエ『ノディエ幻想短篇集』

ノディエ幻想短篇集 (岩波文庫)

ノディエ幻想短篇集 (岩波文庫)