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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

神様 2011

 どこから書名を知ったのかも定かではないが、珍しく母が欲しがって、先日ジュンク堂池袋本店に寄った際に、土産として買ってきてあげた本。一読した母に薦められ、手に取ってみた。

神様 2011

神様 2011

 

川上弘美『神様 2011』講談社、2011年。


 川上弘美が「神様」という短篇小説を書いたのは1993年のことらしく、今年になってそれを書き直した「神様 2011」を発表したそうだ。なんと50ページにも満たない、普通なら規格外なほど薄い本なのだが、とてもユニークな構成をしている。続編というわけでもない、作家自身による書き直しが加えられた同じ小説が、続けて掲載されているのだ。

「くまは、雄の成熟したくまで、だからとても大きい。三つ隣の305号室に、つい最近越してきた。ちかごろの引越しには珍しく、引越し蕎麦を同じ階の住人にふるまい、葉書を十枚ずつ渡してまわっていた。ずいぶんな気の遣いようだと思ったが、くまであるから、やはりいろいろとまわりに対する配慮が必要なのだろう」(「神様」より、5~6ページ)

「そのくまと、散歩のようなハイキングのようなことをしている。動物には詳しくないので、ツキノワグマなのか、ヒグマなのか、はたまたマレーグマなのかは、わからない。面と向かって訊ねるのも失礼である気がする。名前もわからない。なんと呼びかければいいのかと質問してみたのであるが、近隣にくまが一匹もいないことを確認してから、
 「今のところ名はありませんし、僕しかくまがいないのなら今後も名をなのる必要がないわけですね。呼びかけの言葉としては、貴方、が好きですが、ええ、漢字の貴方です、口に出すときに、ひらがなではなく漢字を思い浮かべてくださればいいんですが、まあ、どうぞご自由に何とでもお呼びください」
 との答えである。どうもやはり少々大時代なくまである。大時代なうえに理屈を好むとみた」(「神様」より、7ページ)

 最初の「神様」はとてもユーモラスな、「心暖まる」というのはこういうことをいうんだろうな、という気持ちにしてくれる作品である。なにせ、くま、だ。しかも「少々大時代な」。

「くまは袋から大きいタオルを取り出し、わたしに手渡した。
 「昼寝をするときにお使いください。僕はそのへんをちょっと歩いてきます。もしよかったらその前に子守歌を歌ってさしあげましょうか」
 真面目に訊く。
 子守歌なしでも眠れそうだとわたしが答えると、くまはがっかりした表情になったが、すぐに上流の方へ歩み去った」(「神様」より、13ページ)

 この作品を読んだ直後には、ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』や、アーヴィングの『ガープの世界』と並べて、くま文学セレクションを構築できるぞ、などと考えた。そして、続く「神様 2011」にページをすすめ、そんな気持ちはどこかに吹き飛んでしまった。「2011」という年号に、あまりにも鈍感だったのかもしれない。だが、今年はまだ2011年で、だれもがこの鈍感さを共有していることだろう。2011年が終わったとき、「2011年」という年号は、だれにとっても特別なものとなる。「あのこと」のせいで。きっと川上弘美はそのことに気がついていたのだ。

 コミカルで牧歌的だった作品は、一瞬にして姿を変えてしまっていた。たとえば、以下の一節。

「遠くに聞こえはじめた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。たくさんの人が泳いだり釣りをしたりしている」(「神様」より、9ページ)

 これが、「神様 2011」では、以下のように加筆されている。

「遠くに聞こえはじめた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。誰もいないかと思っていたが、二人の男が水辺にたたずんでいる。「あのこと」の前は、川辺ではいつもたくさんの人が泳いだり釣りをしたりしていたし、家族づれも多かった。今は、この地域には、子供は一人もいない」(「神様 2011」より、28ページ)

 牧歌的な風景は、もうどこにもない。牧歌的であるどころか牧歌と呼んでもよかったほどの作品が、暴力的なまでに、その魅力を失っているのだ。ほんの些細な変更しか加えられていないのに、それが原作の詩情をどこまでも奪い去っている。逆説的なことではあるが、「あのこと」がどれだけ多くのものを奪い去ってしまったのかが、ここにくっきりと浮かび上がっている。これ以上、本文を引用する必要もないだろう。

「2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様 2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。この怒りをいだいたまま、それでもわたしたちはそれぞれの日常を、たんたんと生きてゆくし、意地でも、「もうやになった」と、この生を放りだすことをしたくないのです。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから」(「あとがき」より、44ページ)

 この本を、外国語に翻訳してもらいたいな、と思った。これほど端的に、現在の日本の心性を表した本は、そうそうないだろうから。この川上弘美の仕事を最後に、これ以上、増えないで欲しいとも思う。自分たちを悲劇的に見せることなく、あの事件がどんなに大きな変化をもたらしたのかを伝えるには、彼女がこれまでに書いた最高に牧歌的な作品を、台無しにする必要があったのだ。あの日の恐怖を思い出して、涙が止まらなくなってしまった。

 わたしは3月11日に日本にいなかった分、だれもが感じた恐怖に対する実感が乏しい。でも、きっとそれとはまた別種の、大切にしていたものをすべて失ってしまったのではないか、という恐怖を感じた。東京は被害が少ないと知ったときの安堵と、安堵した自分に対する嫌悪感、家族を失った友人に対して「がんばって」としか言えなかったことなど、できれば二度と思い出したくないことばかりが蘇ってくる。でも、そういった内面的な変化は、この国の人びとに共通のもので、けっしてニュースにはならないものだろう。日本に関わりのあるたくさんの人たちがどんな変化を被ったのか、世界の友人たちに、もっと知って欲しいと思った。

神様 2011

神様 2011