Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

書斎

 先日紹介した『愛書狂』『書痴談義』のあいだに刊行された、生田耕作白水社による、もうひとつのすばらしい共作。せっかくなので、三冊すべてを紹介することにした。

書斎 (1982年)

書斎 (1982年)

 

アンドルー・ラング生田耕作訳)『書斎』白水社、1982年。


 この三冊が書棚に並んでいるのを眺めるだけで、わたしの笑みは醜悪なまでに拡大する。いや、もっと真剣な蒐集家はむろん特装本で揃えるのだろうが、稀にオークションなどで見かけるそれらの豪華本の値段は、野心を奪うのに十分すぎるものだ。ほかの版でも読むことのできる一冊に、それほどの金額を費やす余裕はない。

 そんな浅薄な愛書家にとっても、ラングの文章はおもしろく読めるものだ。古書渉猟の姿勢について延々と書いているのは「フランスの愛書家たち」と同様、こちらの一冊は、よりたくさんの愛書家エピソードに彩られているように思えた。

「書物蒐集家の好みがいかに様々であろうとも、一点においてこれらはみな一致する――それすなわち文字の印刷された紙に対する愛情。エルゼヴィル版信奉者といえど、「夜遅く、コヴェント・ガーデン街のバーカー古書店から家までを引きずって持ち帰った、ボーモント&フレッチャーの二ツ折本(フォリオ)」に対するチャールズ・ラムの愛着に共感しうるのである。もっともそのラム、「私はシェイクスピアの第一フォリオ版全集など欲しくもなんともない」などと宣っているが、こうなると話は別だ。こんなことが言える愛書家はなにを言い出すか知れたものではない」(12ページ)

「古書店の棚に珍本稀書の類はほとんど見つからなくても、教訓だけは山のように得られる。朽ち果てた愛情、破れ去った友情、崩れ落ちた野心、すべての実例がこの見切り本の山の中に詰まっている。著者が誇りに胸をふくらませ、「師」と仰ぐ詩人へ、畏敬する批評家へ、互いに一目置いている友人へ宛てて献呈した本がここに流れ着く。批評家は頁すら切らず、詩人は指で乱暴に数頁を切っただけ、友人もやがて冷たい関係となれば、詩集は書斎の片隅へ放りやられ、終に運命の総整理の日に追い出されることになる。最近亡くなった博学な修道院長で、退屈な書物に対してボワロー並みの憎悪を備えていた人物の蔵書売り立ては、彼の文学関係の友人たちにとって目を覆いたくなる光景だった。その主教は献呈を受けた本に対して、等しく一つの公正な運命を与えていた。つまり彼はペーパーナイフを入れながら読み進むのを常としたために、「白い目印をつけながら」原生林を切り進んでいく開拓民さながらに足跡が辿れるのである。彼のペーパーナイフはおおむね三十頁までにその義務を終えていたのである」(26~27ページ)

 このあたりのエピソードは、アン・ファディマンによる愛すべき一冊、『本の愉しみ、書棚の悩み』を思い出させる。この本に紹介されていたチャールズ・ラムやバーナード・ショーの挿話を、読み比べてみたら楽しいだろう。

 昨今横行している「せどり」を生業としている人びとは、以下の一節を肝に銘じるといい。インターネット上での古本価格が異常に高騰しているのは、たいていは彼らの仕業である。

「蒐集によって金銭的利益を得るという問題に関しては、ヒル・バートン氏がその著『猟書家(ブック・ハンター)』において、すこぶる明快な発言をしているので、耳を傾けよう。「金が目的の世界では投機をしようが守銭奴になろうがご随意に……だが蒐集家には、よほど火急の必要に迫られでもしない限り、その宝物の一つなりとも断じて手放してもらいたくないものだ。また貨幣が発明されるまでの間、人類によって広く用いられていたと社会学者たちが教える、物々交換なる手段にも頼って欲しくない。蒐集家は市場での仕事を買い一本に絞ってもらいたい。教養ある趣味人が売ったり買ったり、良い結果が生まれようわけがない」」(17ページ)

 実践的な古書渉猟の手段は、ここでもおおいに語られている。ラングは書物の魅力を語るのがとても上手だ。古本屋に行きたくてたまらなくなる(ただし、この状態で行くとまちがいなく破産するので、ぜったいに行かない)。

「古書はしばしば文学的<聖遺物>であり、別種の聖遺物が宗教信者にとってそうであるように、文学愛好家にとっては神聖かつ貴重な品物なのである。むかし著者が手にした本、それと同じものを自分も手にしたい、これが愛書家心理というものだ。駈け出し作家当時のモリエールが、「おお、はじめて印刷に付されたとき、<作者>はなんと瑞々しいことか」と記したとき、彼の目の前にあった本だと思うからこそ、『才女気どり』の初版本にたいして宗教的歓喜を感じるのである。偉大な作家の生前に出版された版はいずれもこの魅力を備えている、そしてわれわれを著者の精神に近づけてくれるような気がするのである」(39ページ)

「なかでもブレイクの『無垢の歌』の初期刊行本は、愛書家が入手する望みを抱きうる最も魅力的な本の一つである。執筆、挿絵、印刷、彩色、装幀、すべて著者の手で行われており。ブレイクの詩句は、小鳥や、花や、羽根をあしらった縁飾りで囲まれ、すべて柔かな神秘的色彩でいろどられ、この世の印刷術が産み出したものというより、妖精の国のオベロン王の書斎に並んでいた本のように思える」(149~150ページ)

 とはいえ、このあたりの外観や成立年代によって付加された書物の魅力というのは、ずっと日本で暮らしている人には馴染みの薄いものだろう。というより、ヨーロッパという土地が異常なのだ。あそこには、すべてがある。いや、少なくとも、すべてがある、と考えられる可能性があるのだ。ヨーロッパの古本屋を一度でも巡ったことのある人なら、あたまが痛くなるまで頷いてくれることだろう。

「植民地は蒐集家の住むべき場所ではない。私の出会ったオーストラリアの或る愛書家などは、メルボルンですばらしい掘り出し物したと有頂天になって喜んでいたが、その古版本というのが――なんとポート・ジャクソンの歴史だと言う! 貧しい獲物としか思えない。その点ヨーロッパでは街での余暇を常に探索に使えるし、「希望」という名の輝かしい幻が絶えず愛好家を誘い出して止まない」(21~22ページ)

 第二章に入ると、ちょうどウィリアム・ブレイズの『書物の敵』に描かれていたような、書斎という空間を構築するにあたって留意すべきさまざまな問題が論じられるようになる。とりわけ、シミ(染み、蠧、紙魚)に対する歴史的な憎悪はすさまじい。じつにさまざまな文人が、あらゆる手段で、この正体不明の生きものを攻撃しているのだ。

「詩女神(ミューズ)の災厄、隙間に潜むページ喰い、
 詩女神(ミューズ)の果実を腐らせ、学問の辛苦を損ねんと、
 なに故に、おお、真黒き蛆虫よ、
 かかる悪事をなしに生れしや?
 なに故に妬み深き努力もて
 汝自身の穢らわしき姿を刻むや?」
(黒いシミに対するエヴェナスの警句詩、61~62ページ)

「シミは製本屋の使う糊が好物だが、ダランベールの付記によれば、アブサン酒が苦手らしい。ブレイズ氏はまた今出来の悪質紙は紙魚すら見向きもしないことを発見している」(63~64ページ)

 さらには、蔵書を人に貸し出すことの危険性について。わたしはけっして人から本を借りない。読み終えた本はなるべく手もとに残しておきたいし、ページの隅を折ったりもするからだ。その分、人に貸すこともしない。ほとんど手に入れることのできなくなってしまった稀覯本の類は例外だが、そういう貴重な本を貸しても安心していられる相手というのは、めったにいるものではない。

「人に本を貸して報いられることなどない。徒に本を汚されるばかりで、ド・クインシーや、コールリッジのように、なにかを学び取ってくれるような借り手はめったにいない。となると「優しい労りを期待して預けられた本でも、鬘に鏝を当てるようなぞんざいさで手垢まみれにし、頁のすみっこを折り曲げた」ジョンソン博士ですら、まだしもましなほうと言わざるをえない」(69ページ)

「Tel est le triste sort de tout livre prêté,
 Souvent il est perdu, toujours il est gâté.
 貸した本の悲しい宿命はいずれも同じ、
 しばしば失われ、常に損われる」
(ピクセレクールの書斎の鴨居の上に刻まれた対句、71ページ)

 ところで、この本にはフランス語やラテン語の原文が随所に盛り込まれているのだが、その訳文がいちいちすばらしいことも書いておきたい。たとえば以下のコルネイユからの引用。

「Ce visage vaut mieux que toutes vos chansons(あの面立ちには、きみとこの店に置いている楽譜全部を合わせたってかなわないよ)」(112ページ)

 逆さに読んだところで、最後の「chansons」が「歌」ではなく「楽譜」を指しているとは、この短いフランス語の一文からはわからないのだ。生田耕作がこの一文を訳すために、コルネイユの作品に直接あたったことが証明されている。当たり前の努力なのかもしれないが、そういう基本をけっしてなおざりにしないのが、この翻訳者のすばらしいところだ。

 それから、愛書家の敵として、女性も紹介されている(わたしの意見ではありませんよ、念のため)。例外的に書物愛を抱く女性もいるということを述べながら、ラングはこんなふうに続けていた。

「大ざっぱに言って、蒐集家の憧れの的である書物に対して女性は烈しい憎しみを抱いている。第一に、女性は書物を理解できない。第二に、女性には書物の持つ神秘的魅力が妬ましい。第三に、書物は金がかかる。古ぼけたむさくるしい装本や、読みづらい字が並んでいるだけの黄ばんだただの紙切れとしか思えないものに大切な金が消えていくのを見るのは、婦人にとっては耐えがたい。かくして古書目録を目の敵にする婦人も現われ、世の亭主族は新たに本を手に入れても密輸入なみの工夫をこらさないことにはわが家の国境を越えられない仕儀に立ち至る。やむなく結婚した男の多くはエルゼヴィル版を蒐集するようになる。これだとポケットにも楽に収まる。二ツ折判では密輸も一苦労だ」(97~98ページ)

 ああ、まさしくこれはおれのことだ! と思った人も多いのではないか。かく言うわたしにも経験がある。同居している女性に「これ以上本を買ってはいけない」と言われ、ポケットの中に新刊の文庫本を忍ばせて「わが家の国境を越え」ようとしたことが、一度ならずあったのだ。千円にも満たない新刊の文庫本でさえこのていたらくなのだから、エルゼヴィル版となってはいったいどれほどのスリルを味わえるのだろう。いつかやってみたいものだ。

 ほかにもたくさんの名言が散りばめられている。ジェームズ一世による以下の言葉は、とりわけ忘れがたい。

「オックスフォード大学図書館の書棚に鎖で縛りつけられたい」(ジェームズ一世の言葉、49ページ)

 本好きという連中は、その愛情の対象が秘める叡知にもかかわらず、馬鹿ばっかりである。いや、無邪気と言ってもらいたいものだ。どんな老獪な賢人にしたって、愛書家であるかぎりは、無邪気な子どもとなりえるのである。エラスムスに馬鹿にされそうだけれども。

「一冊の本は表情の絶えず変化する一人の友人にたとえられる。病み上がりに読んだときと、数年後ふたたび読んだときとでは、読み手の内部の変化にともなって本も必ず変化している。人の趣味や考え方の発展につれて、本も異った様相を呈する」(29ページ)

「学問の道を志す者はだいたい金とは縁が薄い。人を使い、金に飽かせて買い漁るお大尽連に太刀打ちできようわけがない。しかし、まこと必要とする作品を追い求めつづけるならば、いつの日か貴重なコレクションとなって実を結ぶだろう。自分の好みにいちばん適った、かつ自分の研究にいちばん役立つ書物を選んで漁る限り、道を大きく踏み誤ることはないはずだ」(168ページ)

 チャリング・クロスでもセーヌ河岸でもいい、ヨーロッパの古本屋をまわりたくなった。アムステルダムで見かけたオクターヴ・ユザンヌの稀覯本が、まだ売れていなければいいが。

書斎 (1982年)

書斎 (1982年)

 


<読みたくなった本>
ウィリアム・ブレイズ『書物の敵』

書物の敵

書物の敵

 

Sir Walter Scott, The Antiquary

The Antiquary (Oxford World's Classics)

The Antiquary (Oxford World's Classics)