緋色の研究
久しぶりに推理小説でも読もう、と思いたち、手に取った一冊。光文社から刊行されている『新訳シャーロック・ホームズ全集』の第三巻にして、「ホームズシリーズ」の記念すべき長篇第一作。
アーサー・コナン・ドイル(日暮雅通訳)『緋色の研究』光文社文庫、2006年。
光文社で新訳といえば当然「古典新訳文庫」のほうが先に浮かんでくるが、じつはこんな全集も刊行している。文庫にもかかわらず装幀がすてきで、立派な表紙は触りごこちもいい。思わず本棚に揃えてしまいたくなるようなシリーズなのだ。ぜひほかの作家のものも出してもらいたいな、と思う。たとえば、チェスタトンの「ブラウン神父シリーズ」とか。
「そのホームズという男は、ぼくから見るとちょっと科学的に過ぎるというか――つまりその、冷血といってもいいくらいなんです。たとえば、新しく発見した植物性アルカロイドの効き目をためすためなら、友人に一服盛ることも辞さないような。もちろん悪意があるわけじゃなく、正確な効能を知りたいという純粋な研究心からですがね。いや、それよりも、研究のためなら自分でも飲んでしまうでしょう。とにかく、厳密で正確な知識を得ることに対して、ものすごい情熱をもっているんです」(16ページ)
この『緋色の研究』では、シャーロック・ホームズとワトスン博士との出会いが描かれている。探偵小説史にその名を刻んだ黄金コンビは、この作品で初めて世に出たのである。
「「じつにおもしろい! 彼を紹介してくれて、どうもありがとう。『人間が研究すべきは人間なり』というじゃないか」
「じゃあ、あの人をじっくり研究してください」スタンフォードは別れ際にそう言った。「ただし、たいへんな難物だと思いますよ。まあ、あなたが研究するより、逆に研究されることのほうが多いんじゃないでしょうかね」」(24ページ)
シャーロック・ホームズのシリーズは、基本的にワトスン博士の回想録という体裁を採っている。そのため語りは主観的な一人称、これによってドイルは、探偵小説に必要な疾走感を倍加させているように思えた。訳文が明快なのももちろんだが、じっさい、驚くほどあっというまに読めてしまうのだ。
「この男にたまらなく好奇心をそそられ、自分のことは何ひとつ話そうとしない彼の口をなんとか開かせようとどれほど苦労したか、あらいざらい語ったら、わたしは救いようがないおせっかい者だと思われてしまうだろう」(26ページ)
ホームズがちらほら吐く名言を拾っていくのもおもしろい。犯罪に関するものが多いのはもちろんだが、それ以外でも印象的な言葉がたくさんある。
「ぼくが思うに、そもそも人間の頭というのは小さな屋根裏部屋みたいなもので、自分が選んだ知識だけをしまっておくところだ。ところが、愚かな連中はガラクタみたいな知識までここに大事にしまいこむから、かんじんの必要な知識がはみだしてしまったり、ガラクタとごちゃごちゃになって、いざというときに取り出せなかったりする。そこへいくと熟練者は、脳という屋根裏部屋へはちゃんと細心の注意を払いながら知識をしまうんだ。自分の仕事に役立つ知識のほかは、いっさい入れない。それだけでもたいへんな種類にのぼるから、あらゆる知識を完璧に整理しなくてはならない。
そもそもだね、この小さな部屋が伸縮自在の壁ででもできているかのように、いくらでも伸びたり広がったりすると考えるのがまちがいなんだ。どんどんつめこんでいけば、新しいことをひとつ覚えるたびに古いことをひとつ忘れるというときが、必ずやってくる。だから、無用の知識はどんどん忘れて、有用な知識のじゃまにならないようにすることが、きわめて重要なんだよ」(28ページ)
「もし犯人がつかまれば、これひとえに両刑事の努力のおかげ。つかまらなければ、両氏の努力のかいもなく、ということになる。『表が出ればおれの勝ち、裏が出ればおまえの負け』というわけさ。あの二人は何をやっても褒められる。まさに、『ばか者を尊敬する大ばか者がつねにいる』というやつだな」(87ページ)
犯罪に関する言葉は、挙げようと思えばいくらでも出てくるだろう。
「たんに奇妙に見えるだけのことと、本当の謎とを混同してはいけない。最も平凡な犯罪が最も謎めいて見えることはよくある。つまり、平凡な犯罪には推理の糸口となるような際立った珍しい特徴がないからだ」(110ページ)
「こうした問題を解くときにいちばん重要なのは、言うなればあと戻りの推理ができる能力だ。これはじつに有効で、しかもかんたんな方法なんだが、世間じゃあまり活用されてないね。日常生活では未来へ向かって推理するほうがはるかに役立つ場合が多いから、過去へあと戻りする推理のほうはどうしてもなおざりにされてしまう」(206ページ)
ところで、この小説は二部構成になっているのだが、第二部の内容には心底驚いた。それまでのホームズとワトスンは姿を消し、一見まったく別の物語がはじまるのである。それでも疾走感は第一部のときと変わらず、コナン・ドイルの筆力を感じるとともに、それを感じとってもらいたいという著者の野心すら感じた。魅力的ではあるのだが、ひとつの作品にここまで盛り込む必要があったとも思えない。もっと手を加えて、別の作品に仕上げることもできただろうに。ヴィクトリア朝イギリスの雰囲気を求めて手に取った読者は、ここで大いに裏切られることだろう。
「裁判官と陪審員と死刑執行人の三役を、自分ひとりで務めようと決心したのです」(190ページ)
ところで、探偵小説の黄金時代を築いたホームズとワトスンは、この作品の冒頭で、以下のような会話を繰り広げている。ドイルがいかにこれらの先達を意識していたかがわかって、文学史的な観点からも、とてもおもしろいと思う。
「「なるほど、説明を聞くとじつにかんたんだな」わたしの顔がゆるんだ。「エドガー・アラン・ポーのデュパンを思い出すよ。あんな人物が現実にいるとは思わなかったね」
ホームズは立ち上がってパイプに火をつけた。「もちろん褒めたつもりでぼくとデュパンを比べたんだろうが、ぼくに言わせればデュパンはずっと落ちるね。十五分も黙り込んでおいて、おもむろに鋭い意見を吐いて友人を驚かすなんてやり方は、薄っぺらでわざとらしいことこのうえない。確かに分析的才能はちょっとしたものだが、決してポーが考えていたほどの大天才じゃないよ」
「ガボリオーの作品は読んだことがあるかい? ルコックなら、きみの理想の探偵像に近づくかな?」
ホームズはいかにも腹立たしげに、ふんと鼻を鳴らした。「ルコックなんて哀れな無器用者さ。とりえはただひとつ、動物的なエネルギーだけ。ぼくはあの本を読んで気分が悪くなった。要するに、身元を明かさない犯人の正体を突き止めるだけの話じゃないか。ぼくなら二十四時間で解決できるところを、ルコックは半年もかかっている。あんなもの、“探偵たるものこうはすべからず”っていう教則本にでもすりゃいい」」(38~39ページ)
それから「訳者あとがき」に登場したアンドルー・ラングの名前には、たいへん驚かされた。世間的にほとんど無視された『緋色の研究』は、ラングによって賞讃を受けていたというのだ。さすがである。おまけにクリストファー・モーリーの名前まで挙がっていて、最近の読書と繋がる部分がたいへん多かった。
「人生という無色の色の束には、殺人という緋色の糸が一本混じっている。ぼくらの仕事は、その糸の束を解きほぐし、緋色の糸を引き抜いて、端から端までを明るみに出すことなんだ」(72ページ)
のちのち効果的な役割を果たすのかと思われた要素が完全に黙殺されていたりして、正直ちょっと物足りない部分もあったのだが、慣れない疾走感に身を委ねてページを繰るのは心地よかった。また時折読んでみたい。
<読みたくなった本>
コナン・ドイル『失われた世界』
エミール・ガボリオ『ルルージュ事件』
- 作者: エミールガボリオ,´Emile Gaboriau,太田浩一
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- 作者: アリストテレース,ホラーティウス,松本仁助,岡道男
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