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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

人さまざま

 先日『ヘッセの読書術』を読んだときに、興味をかきたてられた一冊。アリストテレスの弟子にして同時代人、テオフラストスによる愛すべき小品。

人さまざま (岩波文庫 青 609-1)

人さまざま (岩波文庫 青 609-1)

 

テオプラストス(森進一訳)『人さまざま』岩波文庫、1982年。


 個人的には今までずっと「テオフラストス」と呼んでいたのだが、訳者による表記は一貫して「テオプラストス」となっていた。ちなみに綴りはラテン文字表記にすると「Theophrastos」。まさか別人とも思えないので、わたしなんぞがわざわざしたり顔で「テオプラストス」と呼ぶ必要もないだろう。「ソクラテス」にするか「ソークラテース」にするか、「ルキアノス」にするか「ルーキアーノス」にするかというのと、同じような問題だと思う。「テオフラストス」のほうが、英語やフランス語から借用した現代的な読みであることはまちがいないにしても。

 じつは先に知ったのはラ・ブリュイエールの『カラクテール』のほうだったのだが、あれはこの一冊からアイディアを得たものだったようだ。いや、アイディアを得たどころではなく、ラ・ブリュイエールはギリシア語からフランス語にこのテオプラストスの作品を翻訳しており、そこに付け加えるかたちで、自作の17世紀版「当世風俗誌」を発表していたのである。『人さまざま』という見慣れた邦題のせいか、ちっとも気がつかなかった。直訳すれば「性格論」とでもなるこの本の仏訳題は「Les Caractères」、ラ・ブリュイエールの『カラクテール』とまったく同じなのである。

「粗野とは、無作法きわまる無知と見られるだろう。そこで、粗野な人とは、およそつぎのようなものである。
 すなわち、田舎の混合酒をくらって、民会へ出かけてゆく。
 そして、香油の香りも、にんにくにゃあ及ばねえ、と公言する。
 そして、足にはぶかぶかの靴をおはきだ。
 そして、大きな声でおしゃべりをする」(第4章「粗野」より、24ページ)

「裁判の陪審員となれば、その評決をさまたげ、一緒に劇を観れば、その見物を、宴席を共にすれば、その食事を、それぞれ妨げるのだが、そのさい彼の言うことはこうだ。おしゃべりに沈黙せよというのは無理というものです、とか、この舌は、動きがなめらかでしてね、とか、たとい燕よりおしゃべりだと思われましょうとも、黙っているわけにはゆきませんよ、とか」(第7章「おしゃべり」より、36ページ)

 ここで語られているのは、紀元前4世紀頃の悪徳の数々である。目次を列挙するだけで、どんなに愉快な書物かがはっきりとわかるだろう。すなわち、「空とぼけ」「へつらい」「無駄口」「粗野」「お愛想」「無頼」「おしゃべり」「噂好き」「恥知らず」「けち」「いやがらせ」「頓馬」「お節介」「上の空」「へそまがり」「迷信」「不平」「疑い深さ」「不潔」「無作法」「虚栄」「しみったれ」「ほら吹き」「横柄」「臆病」「独裁好み」「年寄の冷水」「悪態」「悪人びいき」「貪欲」。訳語の選択も、もう絶妙の一言に尽きる。ほとんどが現代にも当てはまることも、見逃してはならないだろう。

「また、子供たちの養育係相手に弓や槍の勝負をいどむと、相手がさながらその心得をもっていないかのように、きまってこの自分から学ぶことをすすめる。
 さらにまた、風呂場でレスリングをやると、相当の心得があると見られたいばかりに、なんども腰をひねる技をやってみせる。
 また、女たちが近づけばいつでも、小声でハミングしながら自分で自分の伴奏をつけ、踊りの練習をやってみせる」(第27章「年寄の冷水」より、111~112ページ)

 テオフラストスによるそれぞれの定義もおもしろい。たまに絶妙で、たいてい中途半端なのだ。ときには語の定義を大きく逸脱しているものもあり、笑いが絶えない。たとえば、「無頼」について。

「また、食事をしている最中に、わしは薬草のエレボロスを服用し、嘔吐と通じで体を掃除してもらったことがありますが、わしの排せつ物の中の胆汁は、ここにあるスープよりも黒い色でしたぜ、などと、その様子をくわしく話す」(第20章「無作法」より、81~82ページ)

 それは最低です。さらには、「いやがらせ」。

「さて、いやがらせを定義するのは、むずかしいことではない。すなわち、いやがらせとは、露骨で、無作法きわまる悪ふざけである。そこで、いやがらせをする人とは、およそつぎのようなものである。
 すなわち、淑女に出逢うと、自分の外衣をまくしあげて、隠しどころを見せびらかす」(第11章「いやがらせ」より、51ページ)

 それは変態です。

 ほとんど類語ともとれるような、似たような語がたくさん並んでいることにも注意したい。訳者がそれぞれの区別に苦心しているのもなんだか笑える。たとえば、「無作法」の以下の一節。

「いま眠りについたばかりの人のところへ、その人と無駄話をしたいばかりに這入っていって、呼びさます」(第20章「無作法」より、81ページ)

 これに付された訳注がすばらしい。

「同じようなへまは、たとえば「いやがらせをする人」も「頓馬な人」もやるが、前者は「わるふざけ」の気持から、後者は「一種の善意」からやることが多い。これに対して「無作法な人」は、まったくの無知にもとづく」(第20章「無作法」の訳注より、83ページ)

 同じような例は「けち」と「しみったれ」と「貪欲」の定義にも見られる。まじめな顔して「しみったれ」とか言うなよ。

「この章の「けち」と第22章の「しみったれ」、および第30章の「貪欲」とは、相互に重なる共通点があり、明確な区別は困難である。「しみったれ」と「けち」とはほとんど重なるが、テオプラストスの例からすると、強いて言えば、「しみったれ」の方は、いくぶん公的な事柄にかかわることが多く、出費の額が大きいときの「けち」とも見られる。しかし両者とも、「人をだます」ようなことはしない。これに対し、「けち」と「貪欲」の相異はむしろ明白で、「けち」は出費を惜しむが、「貪欲」は、収入を、恥ずべき仕方で、それも人をだますぐらいは平気で、あるが上にも増やそうとする悪徳」(第10章「けち」の訳注より、49ページ)

 この真剣さがたまらない。

 ところでテオフラストスといえば、個人的にはすぐに、ある一冊の本を連想する。ジャリの『超男性』だ。あの小説の後半部の筋書きを思い出そう。そう、われらが「超男性」は、ほかでもないこのテオフラストスの記述に基づき、一日に可能な性交回数の記録を更新しようとするのではなかったか。超男性とその友人たちは、ギリシャ神話や『コーラン』、『千一夜物語』の例を挙げた末に、テオフラストスが伝えたとされるインド人の記録、すなわち七十回が歴史上の最高記録であると認定するのである。

 ところが、である。残念ながら『人さまざま』のなかには、このような記録を語った文章はどこにも見出せなかった。テオフラストスの作品でほかに残存しているものは『植物誌』くらいなので(まさか!)、多くの断片か、ディオゲネス・ラエルティオスやアテナイオスといったほかの作家たちによる伝承に拠るのかもしれない。訳者による「解説」には、こんな一文があった。

「その断片(114)に、「愛は無為閑居の魂の病」というのがある。二百を超える膨大なる著作を書いた人にふさわしい言葉であり、またその言葉を証明するかのように、生涯妻帯せず、浮世の煩事に乱されることをさけた。かつて彼は、レスボス島とテネドス島の人たちが行う「美人コンテスト」にふれて、「生まれつきの偶然にのみ依存する美しさなどは、名誉に値するものではない。思慮分別が加わってこそ、美は善きものとなる。さもなくば、放埒へ導く危険物だ」、と語ったと伝えられるが(アテナイオス「食通たち」、第13章、610a-b)、その生涯の独身も、人柄の冷たさというよりは、人間の美しさの本質をよく理解した人の、賢明な拒絶ではなかったか」(「解説」より、146ページ)

 アリストテレスの弟子でもあるという点から、テオフラストスがエピクロス的な快楽主義を唱えるはずもない。上掲の引用文は、その証明ともとれるものだ。では、あの記録はいったいどこから? ジャリの創作、というのがいちばん説得力のある答えかもしれないが、断片や他作家の著作をあたって、しつこく探してみたいと思う。

 古代ギリシアの風俗を知るのにうってつけの一冊であると同時に、古代ギリシアも現代も、人はそんなに変わっていないということが確認できる小品だった。とても薄い本なので、興味を持った人はぜひとも手にとってみてほしい。

人さまざま (岩波文庫 青 609-1)

人さまざま (岩波文庫 青 609-1)

 


<読みたくなった本>
ラ・ブリュイエール『カラクテール』

カラクテール―当世風俗誌 (上) (岩波文庫)

カラクテール―当世風俗誌 (上) (岩波文庫)

 
カラクテール―当世風俗誌 (中) (岩波文庫)

カラクテール―当世風俗誌 (中) (岩波文庫)

 
カラクテール―当世風俗誌 (下) (岩波文庫)

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アテナイオス『食通たち』

食卓の賢人たち (岩波文庫)

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アリストテレス『ニコマコス倫理学

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

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ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

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キケロ『善悪の最高なるものについて』

キケロー選集〈10〉哲学III―善と悪の究極について

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キケロトゥスクルム談義』

キケロー選集〈12〉哲学(5)

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