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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ふふふん へへへん ぽん!

 先日訃報に接したばかりの、モーリス・センダックの作品。江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』に紹介されていて、読みたくなったもの。

ふふふんへへへんぽん!?もっときっといいことある

ふふふんへへへんぽん!?もっときっといいことある

 

モーリス・センダック(神宮輝夫訳)『ふふふん へへへん ぽん! ――もっといいこときっとある――』冨山房、1987年。


 正直なところ、江國香織の推薦文があまりにも魅力的だったため、そこにわたしがなにか新しいことを付け加えられるとは思えない。というわけで、この記事はたんなる愛情表明になるだろう。これまでも、それ以上のものを書いた試しはないのだが。

 センダックといえば『かいじゅうたちのいるところ』や『まよなかのだいどころ』が有名だが、江國香織が「いちばん好きだ」と名前を挙げていたのは、この『ふふふん へへへん ぽん!』だった。この絵本は、こんなふうにはじまる。

「はじめ、ジェニーには なにもかも そろっていました。2かいには まるい まくらが、1かいには しかくい まくらが ありました。くしが ひとつと ブラシが ひとつ、のみぐすりが ふたつ、めぐすりが ひとつ、みみの くすりが ひとつ、たいおんけい 1ぽん、それから さむいときに きる あかい けいとの セーターが 1まい。そとを ながめる まどが ふたつ。しょくじの おわんが ふたつ。かわいがってくれる ごしゅじんも いました」(3ページ)

 そう、ジェニーには「なにもかもそろっている」のだ。その内訳として示される品々のささやかさといったら! ジェニーは犬である。そして彼女(ちなみに雌)は、以下の決意表明とともに、すべてを捨てる。

「なにもかも そろっているよりも もっと いいこと きっと ある!」(5ページ) 

 このたくましさ。まるで『若い藝術家の肖像』のスティーヴン・ディーダラスのようだ。もちろん、ディーダラスのように理論武装をしているわけではないが、ジョイスが紙幅を費やして語っていたことの一端が、この数行に端的に表れている。ジェニーは、「ここではないどこか」へ向かう必要性を、微塵も疑っていないのだ。ジェニーの強さはここにある。そしてその強さは、すべてを失ったあとにもなお、彼女にこう言わせる。

「なにも ないって つまらない。もっと いいこと きっと ある!」(39ページ)

 幸福な日常を捨てて旅に出たら、外の世界の厳しさにあてられることでみずからの幸福に思いあたる、という結末が導かれそうなものだ。じっさい、ほとんどの児童文学はそんなふうにして、日常のすばらしさを教えつつ、幸福な帰還というハッピーエンドに自然にたどりつく。だが、『ふふふん へへへん ぽん!』は、そうではない。ジェニーは戻ってこないのだ。それがこの本を特別なものにしていると思う。

 もっと未熟な作家が書いていたら、センチメンタルな描写であふれてしまっていたにちがいない。悲しみを伴うはずの物語が底抜けに明るいものとなっているのは、軽々しいといっていいほど軽い筆致のおかげだ。それは神宮輝夫の訳文にも反映されていて、海外文学の翻訳ではなかなかお目にかかれない軽妙なオノマトペが、ふんだんに散りばめられている。

「ジェニーは、なかで あかちゃんが ねむっている、きんの とめがねが ついた くろい かわの カバンを もって、ながい ろうかを とことこと げんかんへ むかいました。バターいろだった まどは、まめスープいろに うすぐらくなっていました」(31ページ)

「ライオンが、まえあしの かたっぽで かべを おすと、ひみつの ドアが ぱくっと ひらきました」(37ページ)

 物語の最後、念願の「しゅえんじょゆう」になったジェニーは、かつての飼い主に向けて手紙を出す。その最初の二行が、ほんとうにもう、たまらない。

「こんにちは。
 おわかりと おもいますが、わたしは もう おたくへ もどりません」(69ページ)

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 江國香織が書いていたとおり、すばらしい本だった。

ふふふんへへへんぽん!?もっときっといいことある

ふふふんへへへんぽん!?もっときっといいことある