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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

本へのとびら

配架-本の本・文芸評論 評価-★★★☆☆(満足) いわゆる-児童文学

 すこし前、たしか去年のことなのだが、『ジブリの本棚』というDVDを購入した。とはいえ、目的はDVDよりも付録のほうにあって、このDVDには「宮崎駿が選ぶ岩波少年文庫の50冊」という、豆本サイズのたいへん魅力的な小冊子が付いていたのだ(ちなみに、DVD自体の内容もそれほど悪いものではなかったのだけれど、宮崎駿の対談相手としては阿川佐和子はいかにも物足りない人選だった)。そのときから、いつかその「50冊」をここで紹介したいと思っていた。今回ようやくそれが可能になったのは、岩波新書から、(ほぼ)同じ内容のインタビュー録が書籍として刊行されていることを知ったからである。

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

 

宮崎駿『本へのとびら 岩波少年文庫を語る』岩波新書、2011年。


 ブックリストを作るという行為は、いつだって負け戦だ。だれもが満足する完璧なリストなど、そもそものはじめから作れるわけがないのだから。数を絞れば入れられない書籍が出てくるし、網羅的であろうとすれば重箱の隅の隅までつつかなければならなくなる。今回の50冊という数字も、現行のものだけでも300点以上のタイトルを擁する岩波少年文庫というシリーズを考えると、いかにも少ない。だが、ブックリストというのは、いつだってたんなる「きっかけ」以上のものではないのだ。そのことを思いだせば、50という数字はすでに膨大なものである。

「きっかけは何でもいい。この順番に読もうなんていう、百名山みたいな発想も捨てればいい。何の気なしに読んでみたらとても面白かったということがあるはずですから、何かのきっかけになればいいなと思います」(76ページ)

 以下が、そのリストである。

宮崎駿が選ぶ岩波少年文庫の50冊〉
01.サン=テグジュペリ星の王子さま
02.サッカレイ『バラとゆびわ』
03.ジャンニ・ロダーリ『チポリーノの冒険』
04.E・ファージョン『ムギと王さま』
05.アレクサンドル・デュマ『三銃士』
06.バーネット『秘密の花園』
07.G・シャルク『ニーベルンゲンの宝』
08.コナン・ドイル『シャーロック・ホウムズの冒険』
09.ルイス・キャロルふしぎの国のアリス
10.マリー・ハムズン『小さい牛追い』
11.エルショーフ『せむしの小馬』
12.ファーブル『ファーブルの昆虫記』
13.水上勉日本霊異記
14.レフ・トルストイ『イワンのばか』
15.ローズマリ・サトクリフ『第九軍団のワシ』
16.A・A・ミルン『クマのプーさん
17.ローラ・インガルス・ワイルダー『長い冬』
18.ボードウイ『風の王子たち』
19.ジョーン・ロビンソン『思い出のマーニー』
20.ケネス・グレーアム『たのしい川べ』
21.H・ルイス『とぶ船』
22.K・M・ペイトン『フランバーズ屋敷の人びと1 愛の旅だち』
23.フィリパ・ピアス『真夜中のパーティー』
24.マーク・トウェイントム・ソーヤーの冒険
25.宮沢賢治注文の多い料理店 イーハトーヴ童話集』
26.ジュール・ヴェルヌ海底二万里
27.ノートン『床下の小人たち』
28.ヨハンナ・シュピリ『ハイジ』
29.K・チャペック『長い長いお医者さんの話』
30.アーサー・ランサムツバメ号とアマゾン号
31.エーリヒ・ケストナー飛ぶ教室
32.デフォー『ロビンソン・クルーソー
33.スティーブンスン『宝島』
34.モーリス・ドリュオン『みどりのゆび』
35.金素雲『ネギをうえた人』
36.蒲松齢『聊斎志異
37.ヒュー・ロフティング『ドリトル先生航海記』
38.サムイル・マルシャーク『森は生きている』
39.バーネット『小公子』
40.呉承恩『西遊記
41.E・L・カニグズバーグ『クローディアの秘密』
42.アストリッド・リンドグレーン『やかまし村の子どもたち』
43.J・R・R・トールキンホビットの冒険
44.アーシュラ・K・ル=グウィン影との戦い ゲド戦記1』
45.エリザベス・グージ『まぼろしの白馬』
46.カレル・ポラーチェク『ぼくらはわんぱく5人組』
47.ジャッドソン『ジェーン・アダムスの生涯』
48.エリナー・ドーリイ『キュリー夫人
49.セシル・デイ=ルイスオタバリの少年探偵たち』
50.M・M・ドッジ『ハンス・ブリンカー

 それぞれの書籍の紹介ページには、宮崎駿による短い推薦文が付されていて、それがとても心愉しい。個人的に印象深かったのは、『ハイジ』に寄せられたものだ。この文章からはアニメーターとしての矜持、というものを見てとることができる。

「アニメより原作を本で読んだ方がいいという人がいます。ぼくも半分位そう思っていますが、この作品はちがうと思っています。見、読みくらべてみて下さい。ぼくらはいい仕事をしたと、今でも誇りに思っています」(34ページ)

 選書の基準や、その過程での懊悩については、インタビューのほうに詳しい。ケストナー

「『聊斎志異』もそうです。これも本編は膨大な量があって、あやしい、色っぽい話が山ほどあるんですよね。それはほとんど少年文庫でははずしてありますから、これを読んでも『聊斎志異』を読んだことになるわけじゃない。でも入り口として読んでおくのはわるくない。今回は入れなかった『今昔物語集』なんかもそうですね。これはさんざん悩んで入れなかった。『聊斎志異』や『日本霊異記』を読む人なら、『今昔物語集』くらい、いつか必ず自分で読むだろうと決めて、はずしました」(79ページ)

ケストナーは『飛ぶ教室』を入れました。『ふたりのロッテ』という声がうちの奥さんからも飛んできたりして、どれを選ぶかほんとうに悩みましたが、やはり『飛ぶ教室』を読んだときの感動が自分に残っていたんですね」(80ページ)

 選者の読書遍歴についても大いに語られていて、これがとてもおもしろい。久しぶりにドストエフスキーを読みたくなった。

ドストエフスキーの『罪と罰』は正座するような気持ちで読みましたが、『地下生活者の記録』になったら、自分が解剖されているような感じで、読み進められないんです。息もできない感じでした。
 必読書のはずの「カラマーゾフ」まで進めなかった。似たような経験が何度かあって、結局、僕は大人の小説には向いていない人間だということを思い知らされました。何でこんな残酷なものを人は読めるのだろう、と疑問に思ってしまってね。児童文学のほうがずっと気質に合うんです」(70ページ)

「戦争に関するものはずいぶん読みましたが文芸書の棚には行きませんでした。流行りものも避ける傾向にありました。ベストセラーというのはしょせん文化の泡沫みたいなものだという意識があってね。なぜそういう意識が自分にあったのかは分からないんですが」(71ページ)

 そんな宮崎駿にとっての、「児童文学」なる語の定義は以下のようなものだ。先日紹介した『絵本を抱えて部屋のすみへ』に書かれていた、「子どもの本の基本」と比べてみたらおもしろいかもしれない。

「要するに児童文学というのは、「どうにもならない、これが人間という存在だ」という、人間の存在に対する厳格で批判的な文学とはちがって、「生まれてきてよかったんだ」というものなんです。生きててよかったんだ、生きていいんだ、というふうなことを、子どもたちにエールとして送ろうというのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけだと思います」(163ページ)

 ところで、リストを見ればすぐにわかるとおり、名前が挙げられている作品のなかには、岩波少年文庫でなくても読めるものが多々ある。ヴェルヌやデフォー、スティーヴンスンなどなど。このリストにすこし物足りなさを感じるのは、他社からも優れた翻訳が出ているこれらの作品が、50冊という限られた冊数の一部を占めてしまっているからにちがいない。なにせ、岩波少年文庫というシリーズには、ぜったいに岩波少年文庫でなくてはならない、という作品がいくつもあるのだ。リストにも含まれているものを挙げれば、『クマのプーさん』、『たのしい川べ』、それから『ムギと王さま』に『小さい牛追い』などなど。そう、石井桃子の翻訳書だ。

石井桃子さんという人は、子どもたちの本にとって、なんと言うか尊敬せざるを得ない、別格カンペイタイシャ(官幣大社)の人ですね。石井桃子さんが訳した、といったらもう読まざるを得ない。石井さんが翻訳したことで日本に生き残っている本はずいぶんあるんです」(85ページ)

「僕は石井さんにお会いしたことはありません。会いに行けるはずないじゃないですか、そんな偉い人に。おそろしくて。偉い人のところには会いに行けない(笑)。
 石井さんは厳しい人だったろうと思ってました。僕なんか会えばすぐ見抜かれて、「へなちょこが」って言われそうでおそろしかったのです」(87ページ)

 石井桃子が訳したことで、名作に数えられるようになった作品がいくつもあるそうだ。たとえばエリナー・ファージョンなど、本国イギリスではすでに忘れ去られているらしい。そもそも、岩波少年文庫を創刊したのだって石井桃子だ。絵本や児童文学の文章にはごまかしが利かない。その分、作者や訳者の責任は重大である。

「子どもたちにとっての遊びの世界って、現実と空想の境目がないんですよ。空間にも時間にも束縛されていません。中川李枝子さんは、それをそのまま受けとめて、そのまま書ける人なんです。子どもというのはほんとうにばかなことをする。何回も泣かせたりして、でも最後は手をつないで帰る。反省しているのかどうかも分からないけれど、今は仲良く手をつないで帰る。いい話ですね。
 空間と時間にしばられ原因と結果ばかりに気をとられて、自我で世界を読み解こうと思っている人間たちは、『いやいやえん』の世界に出逢うと、どうしていいか分からなくなってしまう。自我というのは、だいたい周りの、両親や兄弟や友人たちに対する反発でつくられている。『いやいやえん』はそういうのがないレベルのものだから、自分の自我にもとづいて、これはくだらないとかいいとか言っている人たちは、手も足も出ません」(92ページ)

「日本の場合は、翻訳文学にけっこう力があるから、翻訳者がほんとうにいろいろ才能を発揮して心を込めてやってくれると、ディープな読者を獲得するんですよ。
 『ゲド戦記』のアースシーの世界なんか、確実にそうです。清水真砂子さんの翻訳がなかったら、とっくに消えていると思う。清水さんの選んだ言葉が、日本で衝撃的な力を持ったんです。「風の司」とか「物の真の名前」とか、何かドキドキするんですよ。「ハイタカ」もそうですよね。胸のときめく名前です。原名の「スワローホーク」なんていう、野球のチームが混ざったような名前だったらいやになっちゃうでしょう(笑)。そういう言葉の力が、あの翻訳にはありますね」(95~96ページ)

 思えば、『ゲド戦記』も『床下の小人たち』も、岩波少年文庫から刊行されているのだ。『借りぐらしのアリエッティ』を制作した理由も、とても興味深い。

「つまり、みんなが小人になっちゃったんですよ。世界にたいして無力になって、一円でも安いほうがいい、なんていうつまんないことのために右往左往している。見ている範囲もほんとうに狭くなってきた。歴史的視野とか人間のあるべき姿とかの大きな主題が、健康とか年金の話にすりかえられてしまいました。煙草をやめるとか、メタボがどうとか、どうでもいいことばかりです。
 『床下の小人たち』は、第二次大戦を経験したイギリスの困難な時代を背景にして書かれていますから、物質的なことも含めた、生きていくうえでの困難さを描いてる。このままでは映画にはできない、でも、別な意味の困難さが今の時代にはふくらんでいる。だから、今なら映画になるかもしれないと思ったんです」(104ページ)

 児童文学に付されたさまざまな挿絵について書かれた文章も、この本の魅力のひとつだ。『たのしい川べ』を読み返したくなる。

「挿絵というのは、もう決定的に大きいですね。
 ちゃんとした挿絵画家がいて挿絵が描かれた時代が、19世紀のイギリスやフランスにはあったんです。その伝統を継いで、ペンでちゃんとした挿絵を描いている本というのは、やはり今も魅力があります」(106ページ)

「イギリス・ヴィクトリア時代の童話集のシリーズ(アンドルー・ラング世界童話集)には、面白い挿絵がたくさん入っています。イギリスの挿絵の全盛時代はこのころです。当時の一流の画家たちが挿絵を描いている。それを見せる意味もあるだろうということで、復刻されたものだと思います」(115~116ページ)

 著者自身が絵を描くひとだからか、絵を見る視点、というか角度が、とてもおもしろい。アンドルー・ラングの『世界童話集』が欲しくてたまらない。

「たとえば、頭がたくさんある竜を描くのでも、その首のつけ根が生物学的にはいったいどうなっているのか、ヨーロッパ人のようにあいまいにできない民族と、日本人のようにすぐ放棄してしまう民族がいるんです。ラングの童話集では、正確かどうかは分からないにしても、頭が七つある蛇だったら、ちゃんと七つの首のつけ根が描いてあります。日本人だったら、ヤマタノヲロチの正確な絵を描くのはあきらめますよ。描けない。こんなところから首が八つも出ているのは気持ち悪い、って。でも彼らは描くんです。それに、説得力があるんです。なるほど、こうやって七つ頭がついているのか、って僕は感心したんですけどね」(120~121ページ)

「じつは作者ル=グウィンの表現を読むと、どうも映像としてはごくふつうの竜なんですよ。しっぽが長くて、塔のようにそびえたつ、と書いてある。それはたいした高さじゃないな、と(笑)。面白くないんですよ、なんだか。だから形にしたくないんです。
 何でもかんでも描かなきゃいけないということでもないし、何でも描かないで想像させればいいっていうものでもない。分からないことっていっぱいあっていいんですね。同時に『星の王子さま』はあの絵がなかったら……。両方あるんですね」(123ページ)

 そして、話題は挿絵の魅力から、映像にあふれた現代の問題点へと移っていく。カルヴィーノの指摘を思いだした。すなわち、イメージの文化における個人の想像力の未来(『アメリカ講義』、167ページ)。

ヴィクトリア朝のころは挿絵が輝いていた時期ですから、ほんとうに面白い。ただ、単にカットとして入っているのとちがって、絵にも物語が描いてあるから、今となっては読み方に努力がいります。
 現在は、写真も映像もあふれかえっていますから、一枚の絵を丹念に読みとる習慣を失っているんだと思います」(126ページ)

「ラングの挿絵だって、読みとるには、いまや努力がいるということです。立ちどまって絵のすみずみまで読みとく人はあまりいないでしょう。油絵を展覧会場のきまった照明で見るのとちがって、自然光――といっても間接光ですが――で見る機会があると、天候や時刻の変化で、色や質感がどんどん変化して、絵そのものが生きているようで驚きます。その変化こそその絵画の深さであったりするんです。液晶の正面で検索するのとは全然ちがう世界があるんですよ。同時に、ラングの挿絵だって、ずいぶん、分かりやすくしてあって、闇の領域に属していたイメージを分かりやすく絵解きしてしまったとも言えるわけです」(130ページ)

 わたしは、文学にしか表現できない光景がある、と信じて疑わないタイプの人間なので、宮崎駿の希望が書物に向かっていくのを喜びながら読んだ。

「電気がとまり、映像がとどかなくなり、情報がなくなったりすれば、当然ひどく不安になり、病気になり、死んでしまうかもしれない。それでも世界はあるんです。このややこしくも複雑な世界で生きていくにはいっぱいはいらないけど、本があってほしい。この世界について書いた本があるといいなと思います。但、『資本論』のようにむずかしくなく分かりやすい本が(笑)」(132ページ)

 子どもたちに書物を与えることの意味について発せられた言葉は忘れがたい。この一節を紹介することなしには、この本についてなにかを語ったことにはならないだろう。わたしはこの一節から、『ヘッセの読書術』を思いだした。

「本には効き目なんかないんです。振り返ってみたら効き目があったということにすぎない。あのときあの本が、自分にとってはああいう意味があったとか、こういう意味があったとか、何十年も経ってから気がつくんですよ。
 だから、効き目があるから渡す、という発想はやめたほうがいいと思っています。読ませようと思っても、子どもは読みません。親が一生懸命本を読むと子どもは読まなかったり、お兄ちゃんが一生懸命読むと妹は読まなかったりね。本を読んでさえいればいいというものでもない。本ばっかり読んでいる子というのは、ある種のさびしさがあるからですよ。外で遊んでいると忙しいですからね。
 ですから、本を読むから考えが深くなる、なんていうことはあまり考えなくてもいいんじゃないでしょうか。本を読むと立派になるかというとそんなことはないですからね。読書というのは、どういう効果があるかということではないですから。それよりも、子どものときに、自分にとってやっぱりこれだという、とても大事な一冊にめぐり逢うことのほうが大切だと思いますね」(145~146ページ)

 インタビュー録というもともとの性格もあって、話題は多岐にわたる。悪く言えば、まるでまとまりのない本である。それでも、ジブリの映画が好きなひとや、児童文学を愛するひとには、楽しく読めるにちがいない。気軽に手に取れる一冊なので、ときどき読み返したくなるかもしれない。

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

 


〈読みたくなった本〉
カレル・ポラーチェク『ぼくらはわんぱく5人組』
「今回選んだ少年文庫のなかにあるカレル・ポラーチェクの『ぼくらはわんぱく5人組』は、同じ風のなかで書かれたのだと思います。ぼくはジェイムズ・ジョイスの『ダブリンの人びと』にどこか通ずるところのあるこの作品に、よく分からないところがあると書きましたが、放射能をはらむ風が窓の外の樹々を吹き荒れているのを見ているうちに、今、もう一度『ぼくらはわんぱく5人組』を読まなければならないと思いました。ポラーチェクがアウシュヴィッツで殺されたとき、この原稿はある出版社の机のなかにかくされていたのです。
 この作品は「やり直しがきく話」という僕の考える児童文学の範囲をはるかに超えるものを含んでいるようです。この本を薦めてくださったのも中川李枝子さんです。僕は文学作品としてもっと正確にこの本を読み下さなければいけないと思うようになりました」(152ページ)

ぼくらはわんぱく5人組 (岩波少年文庫)

ぼくらはわんぱく5人組 (岩波少年文庫)