Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

世界中が夕焼け

 あまりにおもしろい本を読むと、すぐに感想を書こうという気になれない。なんというか、きっと読み終えてしまったことを認めたくないのだ。感想を書くというのは、自分がその本に対して抱いている印象をかっちり固定化する、ということにほかならないのだけれど、もやもやと反芻している時間がだんだん愛おしくなってきて、いつまでもページのなかから抜け出せなくなってしまう。でも、この楽しさはだれかに伝えたい。ジレンマだ。この本に関しては、丸々一月以上もかかってしまった。それは、これが詩の本だということとも無関係ではないのだろう。

世界中が夕焼け―穂村弘の短歌の秘密

世界中が夕焼け―穂村弘の短歌の秘密

 

穂村弘・山田航『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社、2012年。


 とてもユニークな構成をしている本だ。これは山田航という新進気鋭の歌人が自身のブログ「トナカイ語研究日誌」に掲載していた「穂村弘百首鑑賞」という短歌評に、ほかならぬ穂村弘がコメントを付したものである(書籍で採りあげられているのは50首)。なんでも、「自作の短歌についての本を」と声を掛けられていた穂村が、自歌自註につきまとう「興醒め」を避けるためにこのような形式を採った、とのこと(しかし、こんなふうによほどの懐の広さが求められる本を平気な顔で作ってしまい、同時に山田航という若手の才能を世に知らしめる役割を買って出るなんて、やはり穂村弘は底が知れない)。

 そもそも、『本当はちがうんだ日記』やこのブログに掲載していない分も含め、わたしは穂村弘のエッセイならすでにかなりの量を読んでいた。それなのに、その本分である短歌に関しては、『短歌の友人』でこの定型詩の楽しみを教わっていたにもかかわらず、どこから手をつければよいのかわからない状態が続いていたのだ。じっさい、穂村弘の短歌はそのエッセイほどわかりやすくも単純でもないのである。気の利いた編集者が「自作の短歌についての本を」と声を掛けるのも頷ける。だが、そんな読者たちに向かって、山田航はこう書く。

「断言しよう。穂村弘が書いてきたエッセイはすべて、自らの短歌に対する膨大な注釈である。自分の歌はこう読んだらいいよという補助線であり、ヒントである。鋭く尖った表現形式で現代短歌にショックを与えた「改革者」としての自らの顔をあえて引っ込め、まったく押し付けがましくない方法で短歌の読み方を提示している。ということはだ。穂村弘の短歌を読まなくては、エッセイの真の魅力にも気付けないということだ。短歌を読まず、エッセイだけ読んで満足していてはいけないのだ。穂村弘歌人だ。短歌でなければ自分の心を表現できないと思ったから、歌集でデビューを果たしたのだ。どれだけのものを書いたって、すべては短歌へと還っていく。穂村弘が本当に心の底から叫びたいこと。それはもうすでに、短歌のなかですべて言い尽くされている。散文の本を何冊書こうが、それらはみな短歌の補足説明にすぎないのだ」(山田航「穂村弘の短歌を読む」より、11ページ)

 こうして『世界中が夕焼け』は幕を開けるのだ。なんたる高揚感! ページをめくると、まずこれから採りあげられる一首が表題のように書かれており、それに対する山田航の評が置かれている。そこに、その評に対する穂村弘のコメントが続くのだ。たとえば、

  終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて(13ページ)

 この一首に付された山田航の評はこうだ。

「この歌の妙味は、バスの降車ボタンに〈降りますランプ〉という名称をつけたところ。実際の降車ボタンは「止まります」と書かれている。〈降りますランプ〉としたのは単に字数を合わせるためではなく、「降ります」と優しく語り掛けるような暖かさが欲しかったのだろう。「ボタン」ではなく「ランプ」なのも、灯りをイメージさせるための配慮だ。誰もが日常的に目にしていながら名前を呼んでいないものに〈降りますランプ〉という名称をつけたことで、鮮やかな映像として歌世界のイメージが広がるのである」(山田、14ページ)

 この歌が良いということはくどくど説明せずとも自然に伝わってくるけれども、この三十一文字がなぜこれほどまでにあたたかく写実的な魅力を帯びているのかは、なかなか説明ができないだろう。ほんとうに、これが「止まりますボタン」だったなら、どれほどつまらないことだったか。シンプルに見えて、しかもじっさいに内容はとてもシンプルなのだけれど、それを伝える手段、つまり言葉の取捨選択は、じつはとても技巧的に行われているのだ。自身も歌人である山田航は、それぞれの言葉が持つ微妙なニュアンスのちがいを見逃さない。そこに穂村弘のコメントが付け加えられる。

「ランプの色も、紫と断定するのにもちょっと勇気が要りました。終バスというのは「終」とつけただけでニュアンスが出るので、便利な言葉ですよね。終電は日常的に使う言葉だけれど、終バスはそこまでじゃない。でも言われれば誰もがわかるという、そういうレベルの言葉です」(穂村、16ページ)

 言葉のおもしろさ、魔力を感じずにはいられないではないか。一首と真摯に向き合うことの楽しさをこれほどまでにわかりやすく教えてくれる本を、わたしは知らない。

  風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり(79ページ)

「この歌の最大のポイントは、初句の破調である。わざわざ「風の」という言葉を付け加えてやや不自然な字余りをつくっている。この歌を音読するとき、「風の」の部分はさらっと弱く流すような感じになる。この弱さが重要であり、それこそが「風の交叉点」のイメージを音韻的にも形作っている。さらにただの交叉点ではなく「風の交叉点」とすることで閉塞感のある都市風景がいっきに開けたものとなる。ぱあっと世界を広げていく効果がこの破調にはある。「風の交叉点」という広々としたイメージの中で対比として「全治二秒の手傷」を置くことで、広すぎる世界の中でわずかな傷に苦しむ己のちっぽけさに気づくのである」(山田、80ページ)

「短歌はその形に合わせるためだけに定型が機能するんじゃなくて、定型を崩す時にも、その本来あるはずの枠が機能する。とにかく定型を守るってことだけが重要なんじゃないんですよね。それがあるということが重要。そのルールというか定型意識そのものが」(穂村、82ページ)

 さらにおもしろいのは、山田航の評が必ずしも作者穂村弘の意図を反映していないということだ。もちろん、作者の意図にはないことをその歌から読みとったからといって、それがまちがいなわけではない(そもそも正解などないのだから)。解釈は何通りあってもいいのだ。いっそ、多ければ多いほどいい。

  春を病み笛で呼びだす金色のマグマ大使に「葛湯つくって」(197ページ)

マグマ大使手塚治虫の漫画で、少年がもつ笛によって呼び出されるヒーローである。ただし穂村がイメージしているのは1966年に放映された実写版であろう。実際に見たことはないが、かなり派手で大仰な登場シーンなのではないだろうか。それが堂々と現れた末に求められるのが「葛湯つくって」であるという漫画的なずっこけ具合がこの歌のポイントなのであるが、真に描こうとしているのはその裏にある男の情けない意地っ張りさであろう。強いマグマ大使だって、いなくなった恋人の代わりになんてなりえない。本当は恋人のつくった葛湯を求めているのである。「春を病み」という過度に詩的な表現からずっこけた地点に着地するこの歌には、弱さを見せたがらない男の情けなさが込められているように思う」(山田、198ページ)

「恋人を求めてるという山田さん評ですが、それは僕の意識にはなかったですね。むしろ季節を歌うということ、この「金色のマグマ大使」っていうのは、春なんですよね。春の風邪の体感。山田さんの読みでは〈私〉のメンタルがわりと青年のイメージだけど、もうちょっと幼児的な感覚のつもりでした」(穂村、199ページ)

 この本のタイトルにもなっている「世界中が夕焼け」という言葉は、以下の一首から。

  校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け(17ページ)

「現実には世界中が同時に夕焼けであることなどありえないわけだから、これは世界がまだ小さい人の感覚だよね。子供って自分の家しか知らないし、小学生ぐらいだと自分の町しか知らない。もうちょっと大きくなっても沿線のキーステーションが一番大きい駅だと思ってるみたいなことで、その世界の広さって年齢とか経験に比例するから、この人はまだ世界を知らないわけです。今自分が夕焼けのなかにいるから「世界中が夕焼け」であるという。でも、世界を知ってしまったあとには表現できない思い込みや抒情ってあると思う。「世界中が夕焼け」っていうことはありえないって知ってしまったら、もうそういうふうには表現できない。でも、実際には感覚として「世界中が夕焼け」ってことはあるわけで。世界をリアルに知ることがすべての詩をよりよくするわけじゃなくて、逆に書けないことができてしまう、知らないから書ける、みたいな面もあるんじゃないですか」(穂村、20ページ)

 そもそも「校庭」という言葉が、子どものころは毎日口にしていたのに大人になった途端に使わなくなる言葉であることにも注目したい。「校庭の」という初句がすでに、主体が子どもであることを教えてくれているのだ。同じようなものでは、たとえば「男子」や「女子」という性別を表す言葉も、大人の日常的な語彙としては認められないだろう(最近は「メガネ男子」や「女子力」というような使い方もするけれど)。

 それから、曇り。

  超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り(111ページ)

「これは僕のイメージではやっぱり、個としての人間の尊厳みたいなものですね。天気予報って人間が頑張って、神のサイコロ遊びみたいな天気を当てようとしてるんだけど、なかなか当たらない。まして超長期天気予報なんていうのは当たりっこない。だけど、人間はその方向に頑張るしかないみたいなところがあって、かつ、一億年後は生きてないわけです。でも、生きてなくても誕生日はあるだろう。僕が死んだあとも、五月二十一日は僕の誕生日だろうっていう。その永久欠番性ですよね。さっきの魂の唯一無二性を認め合う関係になぜ興奮するのかってこととも関わるんだけど、人は永久欠番だろうみたいな。一回生まれたら、死んでもいなくなっても、その人が生まれなかったことにはならない。消えないってことですね。その尊厳の表現として、これはやっぱり嵐とか晴れとかじゃダメ。ドラマ性のある天気ではダメなんです。稲妻とか、まして虹とか出るのは最悪で。やっぱりここは「曇り」じゃなきゃ。しかも、「一億年後の誕生日 晴れ」とかのほうが音数は合うわけ。「一億年後の誕生日 虹」とか。「曇り」って字余りで、音ももやつくし、イメージももやつくんだけど、ここに神様に対する人間の尊厳の申し立てというか。曇りってね、なんかこう……。やっぱり虹とか晴れって神の恩寵みたいなイメージ。でも、人間はやっぱり曇りなんだと思う、存在として。曇りの時が重要というか。そんな人間観です」(穂村、114ページ)

 これはもう、穂村弘の言葉以上になにも付け足すことができない。「虹とか出るのは最悪」。曇り。

  A・Sは誰のイニシャルAsは砒素A・Sは誰のイニシャル(125ページ)

「「A・Sは誰のイニシャル」という言葉が繰り返されているが、先に出てくるものと後に出てくるものとではメジャーキーとマイナーキーのように響きが違う。砒素という言葉が同じものを転調させてしまったように感じるのだ。これは言葉というものが持っている力をあらためて思い知らせてくれる一首である」(山田、127ページ)

 ふたりのコメントを読むことで、はじめて響きはじめた歌も多い。とくに忘れられないのが、以下の一首。

  指さしてごらん、なんでも教えるよ、それは冷ぞう庫つめたい箱(85ページ)

 普通に歌が並んだ歌集を読みながら出会っていたとしたら、自分はまちがいなくこの一首を気にも留めずにページをめくっていただろう。それほど自分の趣味とはかけはなれた歌のように思えるのだ。それなのに、いまやこの歌がこの本のなかでもいちばん強く印象に残っている。忘れられない。

「「なんでも教えるよ」と言っていながら、まず教えるものは見ればわかるような冷蔵庫。しかも「冷ぞう庫」なんてひらがなまじりの表記でいまいち頭が悪そうな上に、「つめたい箱」というあまりにもそのまんまな解説が付される。しかし冷蔵庫を「つめたい箱」と言い換えることには確かにポエジーが漂っている。誰もが気付いているけれど当たり前すぎて見落としてきた言葉のはたらきを再認識させるのも詩の役割だ。冷蔵庫を「つめたい箱」と言い換えるだけで、つめたい箱という不自然な存在と、それに依存して生きている人間の姿がありありと浮かんでくる。大げさな物言いで当たり前のことを言ってみるのは、子どもが無邪気に社会の真理を言い当ててみせるようなものだ。曇りのない目だからこそ見えてくるものがある。これは「純粋な瞳の持ち主」を仮構した歌なのだろう」(山田、86ページ)

 とてもとてもいい歌のように思えるのだ。しかも、その理由がまるで説明できないのである。自分でもわからないのだが、この歌がどうしようもなく気に入ってしまった。突き刺された。これは、まさしくプンクトゥムだった。「私が名指すことのできるものは、事実上、私を突き刺すことができないのだ。名指すことができないということは、乱れを示す良い徴候である」(ロラン・バルト『明るい部屋』65ページ)。

「どの歌が注目されて人に知られていくかは、作者も選ぶことができない」(穂村、52ページ)

 穂村弘は偶然性の大切さについても語っている。これがとてもおもしろい。

「誰かに引用されるとか、とり上げられて褒められるって、すごく「選べない」ことなんだよね。だから、そこで他者の判断やその偶然性にチップを張るというのは、けっこう重要なことで、そういう偶然性を排除しちゃうと、新しい地名が全部「ナントカが丘」になっちゃうみたいな現象が起きたり、ペンネームに全部「月」っていう言葉が入ってくるみたいな現象が起きたり、人間の意識の幅ってあまりないんだよね。だから、子供の名付けの話で、出産後に、友だちが初めてお見舞いに来てくれて、その時、友だちがエリカの花を持ってきてくれて、その赤ちゃんが初めて見た花がエリカだったからえりかという名前にしたみたいなエピソードを聞くと、非常に腑に落ちるというか、そういう偶然性ですよね。それは、まさに祝福じゃないですか。そうすると、その子はそのあとエリカの花を見るたびに、自分が祝福されてこの世に生まれてきたっていうことを追認するということになる。人間はやっぱりそういう偶然性に守られないとまずいと思うんです。頭の中で考えたすごくかっこいい名前とかかっこいい地名が、逆に無意味でダサい感じがするのは、その偶然性に対する感度を欠いているからだという気がしますね。だから、表現の場合、どこまでも自己責任の追求というのもある反面、その偶然性に対するオープンマインド感がないといけないから、相反するベクトルが作業の中に要求されるということがある」(穂村、52~53ページ)

「なんか今の流行りの名前とか地名って、そういう恐れをすごく欠いていると思う。そうなると、やはり凡庸なところに人間の創作力は着地するなっていうことを経験的に思うんですよ。だから、単純だけど親の名前を一字取るとかね、そういうのってやっぱり、選べない条件を呑むということですよね。もともと人間はいつ死ぬかわからないという、最大のマイナス条件を呑まされてるわけで。でも、それが人間のすべての意味性を支えていて、それが輝きや尊厳をやっぱり支えているという構造がある。スポーツの選手とかが体調が万全だった時にかぎって負けたりするじゃない。漫画の描き手も描きたいものを好きなように描いていいってなった時、最高傑作は案外生まれないとか。こわいけど面白いよね」(穂村、53ページ)

 すこし、ウリポ的なことを言っているようにも思える。たとえば『煙滅』に見られるように、ジョルジュ・ペレックはある種の規制(リポグラム)を自らに課すことによって、逆に表現の幅を膨らませることに成功した。もっとも、これはかなり極端な例だが。

 また、《海光よ 何かの継ぎ目に来るたびに規則正しく跳ねる僕らは》という歌には、こんなコメントが寄せられている。

「ここにあるのはただ時折跳ねるだけで何も起こらない時間。そういう時間ってあんまり表現されないというか。さっきの中途半端な髪型がとくに着目されないように、無視されるみたいなことがありますよね。無意味で退屈なゾーンとして。でも、そこに意味の力点を置きたいような気持ちがありますね。主体性のありかみたいなことです。まあ、徒労ということとかね。丸山健二の昔の本で『風の、徒労の使者』というのがあって、いいタイトルだな、と思いました。「徒労の使者」ってすごくいい言葉ですよね。徒労に終わる、の徒労。徒労って神様にはないゾーンなんですよ。肯定的な意味でです。
 ある種のエンターテインメント小説や映画が好きじゃないのは、そういうゾーンを全部捨象してしまうからで。エンターテインメントって作り手が神様だから、神様にとって意味のあるところだけを記述するから、そういうゾーンは全部排除されちゃうんだよね。だけど、そうじゃないものがやっぱり面白い。アニメーションなんかでも、昔の『ルパン三世』とかって、そういう部分が多く描写されていた。例えば、冒頭でいきなり峰不二子が歌を歌いながらシャワーを浴びていて、隣の部屋でソファーに寝転んだりして、けだるい感じでルパンと次元がなんかぼんやりしていて、しばらくしてから次元が「ちっ、嫌な歌だぜ」って言う――というような描写があるけど、これは無駄なゾーンの話で意味がない。物語の本筋とは別に関わりがないし、「嫌な歌だぜ」と言わせるためにわざわざ峰不二子に歌わせることは意味がないわけだけど、だからこそ、すごく意味を感じる」(穂村、220~221ページ)

 これは、『とるにたらないものもの』をあげたときにも散々書いたけれども、「無駄なものほど美しいものはない」ということの典型だろう。単なるエンターテインメントと文学とのちがいは、こんな細かなところに潜んでいるように思える。

 また、カメラを引くよりもクローズアップをしたほうが短歌的にうまくいく、ということも、おもしろく思った。これも、細部に注目することの重要性と無関係ではないだろう。リアリティは細部に宿るのだ。

  フーガさえぎってうしろより抱けば黒鍵に指紋光る三月(161ページ)

「この歌の背景としては、ビジュアル的には先行する映画とか漫画とかでね、何か女性が一生懸命やってるものをさえぎるという感覚への憧れがあるんだけど、短歌ではカメラを引いてしまうとうまくないから、最後に「黒鍵に指紋光る」というクローズアップが必要なんです。映画とか映像では見えないから、そこまでは。だけど、既視感がありますよね。これはやっぱり映画とか漫画とかでインプットされてるんだと思う」(穂村、165ページ)

 ところが、同じようにクローズアップの手法を採っているように見える一首では、穂村はむしろカメラを引いているつもりだという。

  ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。(93ページ)

「山田さんの読みでは、〈掲出歌の場合、語りかける対象はどんどん縮小している。「まみ」の視界が狭まっており、小さなものしか見えなくなっていっていることがわかる。〉とあるんだけど、僕の感覚ではね、これカメラが引いていって――神の目とか宇宙飛行士の視界とかああいう感じなんですよね。だから、はじめは日常の「夜」とか「霜柱」とかなんだけど、「カップヌードル」は日常なんだけど感覚的にはカメラを引いて神が地球の表面を眺めてるようなイメージで、そこには干からびたちっちゃいエビがいて、しかも熱湯をかけられちゃうみたいな。人類の宿命性みたいなイメージ。わりと宗教的なイメージの歌なんですね。男性のロジカルなSFとは違った意味で、女性の中にそういう宇宙感覚みたいなものを感じることがあって『手紙魔まみ』にはよく出てきます」(穂村、96ページ)

 個人的にはこのコメントを読んでもなかなかカメラを引いていくように考えられず、どうしても寒い夜に一軒だけ明かりの点いた家のなかで、女の子がカップヌードルを準備している風景が連想されてしまうのだが、どちらにしてもおもしろい。

 女性のエキセントリシティに対する関心は、いたるところで告白されている。

  赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書(31ページ)

  「なんかこれ、にんぎょくさい」と渡されたエビアン水や夜の陸橋(159ページ)

  体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ(151ページ)

「僕は女性のエキセントリシティというか妖精性みたいなものに対する執着が強いので、別な歌で《やわらかいスリッパならばなべつかみになると発熱おんなは云えり》というのがだいぶあとにあるんだけど、それもエキセントリックなことを言っていて、やわらかいスリッパを鍋つかみにするという冒涜性は、普通の状態では言えなくて、発熱した時、ややチューニングがずれて、それを口にできるという。突拍子もないことを言う女性像というものを繰り返し歌っています。
 そういう女性が突拍子もない世界のカギを持っていると考えていて、そして、そっちに真実があるという発想だから。僕には男性が構築した株式と法律と自動車とコンピュータの世界に対する違和感があるから。だから、女性がいつも自分を違うところに連れていってくれる、そして、そのカギになるのはエキセントリックな発言だ、ということです。ほかにも《「土星にはチワワがいる」と歯磨きの泡にまみれたフィアンセの口》とか」(穂村、154~155ページ)

 印象深いのは、以下の一首。

  つっぷしてまどろむまみの手の甲に蛍光ペンの「早番」ひかる(209ページ)

「掲出歌は「早番」という仕事にかかわるモチーフがある。忘れないように手の甲に蛍光ペンでメモをする。その行為の幼さと、「早番」という内容の苦さが混ざり合ったことで不思議な感覚を生んでいる。コケティッシュな仮面をかぶった「まみ」がときおりのぞかせる生活者としての姿。そこには微妙な痛々しさがはらまれている」(山田、210ページ)

 そもそも、なにか忘れてはいけないことを手の甲に書く、という行為は、個人的には女性に特有の所作のように思え、男性がやっているところは見たことがない。つっぷしてまどろんでいるのに翌日は「早番」ということも悲劇的で、なんともいえない哀愁がある。

  目が醒めたとたんに笑う熱帯魚なみのIQ誇るおまえは(227ページ)

「山田さんの評では、熱帯魚はIQが低いっていう感じの読み方になっていて、もちろんそうなんですが、それ以前に、熱帯魚のIQは測定不能だってことなんですよね。それでIQっていうのも、この世のある種の決まりでね。貨幣価値とか株式とか法律とかと同じように、なんかよくわかんないけどIQってものがあって、それが知能を示すっていうんだけど、本当なのかなっていう感じがすごくあるんです。だから、そこからの逸脱なんですよね。それでは測りえないものがあるだろうというようなことを、一番IQ測れなさそうなものは何か、熱帯魚かな、と。それは僕が女性に対してミステリアスなものを求めるということとリンクしていて、この世の価値判断の外にあるものとして女性を描くという、まあ、いつものパターンなんです」(穂村、230ページ)

 彼女たちのエキセントリシティが散文のなかでは不自然になりがちだという点も、興味深く読んだ。

「散文で時代設定が昔だったり、設定がSFでないと持たないものがあるように、韻文なら持つってことがあるんですよね。非常にエキセントリックな魂を散文の中で書くとどうしても不自然だけど、韻文の中では「ゆひら」の一瞬持てばいいわけで、パラパラ漫画みたいなものですよね。その一瞬一瞬が鮮烈にリアルに感じ取れればね。現実の女性というよりも自分の側の傾向、メンタルな偏りの問題で。だから、女も一人の人間として傷つきながら汗をかき生きているという観点からはNGなんですよね」(穂村、230~231ページ)

 なんとなく、ボリス・ヴィアン『日々の泡』を思い出した。もちろん、クロエのことだ。彼女は散文のなかにあっても、エキセントリシティ(というか言葉としては妖精性のほうが近い)を持っていたように思える。「まみ」ほどの派手さはないし、そもそもあの小説ではすべてがエキセントリックなのかもしれないけれど。ひさしぶりに読み返したくなった。

 気に入った歌は、ほかにもたくさん。

  オール5の転校生がやってきて弁当がサンドイッチって噂(61ページ)

  ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検(103ページ)

  トナカイがオーバーヒート起こすまで空を滑ろう盗んだ橇で(120ページ)

  冷蔵庫が息づく夜にお互いの本のページがめくられる音(135ページ)

  外からはぜんぜんわからないでしょう こんなに舌を火傷している(148ページ)

  置き去りにされた眼鏡が砂浜で光の束をみている九月(162ページ)

  呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる(167ページ)

  ティーバッグのなきがら雪に投げ捨てて何も考えずおまえの犬になる(237ページ)

  裏側を鏡でみたらめちゃくちゃな舌ってこれであっているのか(251ページ)

 穂村弘の歌集が読みたくてたまらなくなった。これまではなんとなく避けていたというのに。山田航の第一歌集『さよならバグ・チルドレン』も先月ついに刊行されたので、こちらも早く読んでみたい。言葉に対する讃歌、すばらしい読書体験だった。何度も読み返したい。

世界中が夕焼け―穂村弘の短歌の秘密

世界中が夕焼け―穂村弘の短歌の秘密

 


〈読みたくなった本〉
江戸川乱歩『黒蜥蜴』
「将棋とか数学とか、ものすごく高度な次元になると、真価がわかる人は世界に数人みたいになっていきますよね。そうなった時、その真価を知る者というのは、ある意味恋人とか奥さんよりもすごい魂の共有性がある。究極的には世界でたった一人しかその人の真価を見抜くことができないほどの天才を考えた場合、その二人はもう運命の二人だと。で、それが探偵と怪盗の場合、敵対関係にあるから、絆はより強い。『黒蜥蜴』なんてわざとそれを意図して女賊と明智小五郎で、二人は敵対関係で黒蜥蜴は明智を殺そうとするんだけど、実は明智が生きていることを知った時、歓喜の声を出すみたいな、そういう関係性ですね」(穂村、88ページ)


 なお、新刊JPのサイトに、ふたりへのインタビューが掲載されている。これがまた、たまらなくおもしろい。「カルピスの原液」!