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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

読書について

 更新をやめてからおよそ一年が経ったので、これを機にブログを再開したいと思う。この一年間、本を読んでいなかったわけではもちろんないのだが、読書量はかなり減っており、選書傾向も以前とは幾分異なっていた。おかげで、以前なら気にも留めていなかった、本の外の世界で起きていることの価値に気がつけた面もあるのだが、そういった発見は同時に、わたしをもう一度本の世界へと駆りたてる推進力ともなった。つまり、良質な本を読むこと以上にわたしを満足させてくれることはなく、読書以上に価値のある時間の使い道などない、と気づいたのだ。その発見を報告するうえでは、今回紹介する本ほどうってつけの作品はないと思う。

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

アルトゥール・ショーペンハウアー(鈴木芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫、2013年。


 じつはこれまで読んだことがなかった。おまけにこの本は「じつは読んだことがないんです」と他人に告白するのをためらわせるだけのものものしさ、古典の風格とでも呼ぶべきものを備えている。とはいえ、言いわけがましくなるが、読もうと思ったことなら何度もあった。薄いので、それほど手に取りにくい本ではないはずなのだ。それでもわたしがこの年になるまでこの本を敬遠しつづけてきた理由は、思うにこの本のことが語られるときに必ず引用される本文中の言葉、以下の一文が放つ、ただならぬ気配のせいである。

「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ」(「自分の頭で考える」より、14ページ)

 有名な言葉なので、知っている人も多いと思う。この一文だけ切り離されてしまうと、まるで書物というもの全体が悪であるかのようで、読書家とはおしなべて物事を自分の頭で考えることができない連中、というように響く。これは読書好きのわたしとしては、とうてい認められない。わたしはそもそも、書物が個人にとって有益なものである、という確信を捨てることができないのだ。すると当然、「ショーペンハウアー、好きになれそうもないな。偉そうなこと言いやがって、このハゲ」となる。だからこれまで手に取れなかったのである。

 ところが、実際に読んでみると、これは書物そのものを否定した文章などではぜんぜんなく、むしろ乱読(もしくは濫読)によってそれぞれの書物の内容を反芻することをやめ、思考停止状態になることに対する警鐘だったのだ。上掲の文章ではじまる一節をまるまる引用すると、以下のようになる。

「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる。これは、一分のすきもなく完璧な体系とまではいかなくても理路整然たる全体像を展開させようとする、自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、ちがう精神から発し、ちがう体系に属し、ちがう色合いを帯びているので、決して思想・知識・洞察・確信が自然に融合してひとつにまとまってゆくことはなく、むしろ頭の中にバベルの塔のような言葉の混乱をそっと引き起こすからだ。他人の考えがぎっしり詰め込まれた精神は、明晰な洞察力をことごとく失い、いまにも全面崩壊しそうだ」(「自分の頭で考える」より、14~15ページ)

 この文章中にある「自分の頭で考える人」については、本章のこれ以前の節で明確に語られている。というか、ご覧のとおり章題がすでに「自分の頭で考える」なのだ。この本のページをめくっていちばん最初に目にするのが、以下の文章である。

「どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。なぜなら、ひとつの真実をほかの真実と突き合わせて、自分が知っていることをあらゆる方面から総合的に判断してはじめて、知識を完全に自分のものにし、意のままにできるからだ。自分が知っていることなら、じっくり考えることができる。だから私たちは学ぶべきだ。だが、とことん考え抜いてはじめて真に知ることができる」(「自分の頭で考える」より、8ページ)

 ここではふたつの「知識」が対比されている。「自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識」と、「じっくり考え抜いた知識」である。前者は乱読によってもたらされ、後者は自分の頭で考えることによって培われるものだ。

「多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ」(「自分の頭で考える」より、10ページ)

「学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ」(「自分の頭で考える」より、11ページ)

 これは、自分の頭で考えずに本の内容を鵜呑みにすること、つまり批判精神なき読書に対する警句である。同じことが次節ではより明確に語られる。

「読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ。おまけに多くの書物は、いかに多くの誤った道があり、道に迷うと、いかにひどい目にあうか教えてくれるだけだ。けれども創造的精神に導かれる者、すなわちみずから自発的に正しく考える者は、正しき道を見出す羅針盤をもっている。だから読書は、自分の思索の泉がこんこんと湧き出てこない場合のみ行うべきで、これはきわめてすぐれた頭脳の持ち主にも、しばしば見受けられる。これに対して根源的な力となる自分の思想を追い払って本を手にするのは、神聖なる精神への冒瀆にひとしい。そういう人は広々した大自然から逃げ出して、植物標本に見入ったり、銅版画の美しい風景をながめたりする人に似ている」(「自分の頭で考える」より、11~12ページ)

 つまり、重要なのは「羅針盤」なのだ。ちなみにこの文章は旧来の岩波文庫版の表紙を飾っている。光文社版とは翻訳がすこし異なるが、いわく「読書とは他人にものを考えてもらうことである」。前掲の有名な言葉同様、自分の頭で考えるということの重要性を訴えている、という文脈を無視してしまっては、読書という行為そのものが悪であるかのように受け取られかねない。これは正直、出版社が悪いと思う。引用するからには文脈を考慮すべきなのに、この一文のみを抜き出したことで、ショーペンハウアーの思想そのものに対する誤解、つい先日までわたしが抱えていた勘違いを生みだしてしまっているのだ。わたしのように早とちりな人間が、ほかにいないとは言い切れないではないか。彼は書物そのものを悪と見なすような人間ではまったくなく、問題となっているのは書物といかに付き合っていくかということなのだ。それは以下の一節を見ても明らかである。

「自分で考える人は、まず自説を立てて、あとから権威筋・文献で学ぶわけだが、それは自説を強化し補強するためにすぎない。しかし博覧強記の愛書家は文献から出発し、本から拾い集めた他人の意見を用いて、全体を構成する。それは異質な素材を寄せ集めて作られた自動人形のようなものだ。これに対して自分で考える人は、生きた人間を産み出しているにひとしい。すなわち思索する精神が外界からの刺激で受胎し、それが月満ちてこの世に生まれ出たようなものだ」(「自分の頭で考える」より、13ページ)

 自分で考える人というのは、自分に関心のない書物を手に取らないはずだ。それは、自分の考えようとしていることと合致しないのだから。ところが乱読家は、内容に関心がなくてもその本を読破するために手に取る。そうなると無論「羅針盤」も働きようがなく、結果として「自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識」が蓄積され、「頭の中にバベルの塔のような言葉の混乱をそっと引き起こす」のである。このような状況に対する警告が、上に挙げた有名な句なのだ。書物それ自体が悪いものであるなどとは、どこにも書かれていないのである。最初にまるまる引用した、「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ」という言葉ではじまる一節の、さらに続きを引いてみよう。

「この状態は、多くの学者に見受けられる。そのため、良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、学のない多くの人のほうがすぐれている。学のない人は、経験や会話、わずかな読書によって外から得たささやかな知識を、自分の考えの支配下において吸収する。
 まさしくこれを学問の世界で思想家も行っている。ただし、もっと大規模だ。つまり思想家はたくさん知識が必要なので、たくさん読まねばならないが、精神がはなはだ強靱なので、そのすべてを克服し、吸収し、自分の思想体系に同化させ、有機的に関連づけた全体を、ますます増大する壮大な洞察の支配下におくことができる。思想家自身の考えは、オルガンの根音となる低音のように、つねに全体を支配し、決して異質な音にかき消されたりしない。これに対して、単なる博覧強記が取り柄の場合には、すべての音色がいわば音楽の切れ端のように迷走し、基音がもはやまったく聞き取れない」(「自分の頭で考える」より、15ページ)

 はじめの一節を読むと、エラスムスの言葉を思い出す。「賢人は古代の書物のなかへ逃げこんで、そこから学びとるものはたんなる屁理屈だけ。愚者のほうは、現実や危険に接していって、私の考え違いでなければ、ほんとうの分別というものを身につけます」(『痴愚神礼讃』78~79ページ)。言葉は違えど、語られているのは同じことではないか。世に賢人と呼ばれている人間は数多いが、ショーペンハウアーは彼らを大多数の「学者」と少数の「思想家(思索家)」に分類する。そしてこの対比は、じつはサイードが『知識人とは何か』で語っていた図式にもそのまま当てはまるのだ。このとき使われていた言葉では、「思想家」は「知識人」、「学者」のほうは「専門家」だった。まったく同様に、ヘッセは「真の読書家」と「乱読者」を明確に区分している。「よい本とよい趣味の敵は、本を軽蔑する人や字の読めない人ではなくて、乱読者である」(『ヘッセの読書術』52ページ)。興味のある方は、以前わたしがこれらの本を紹介したときの記事をのぞいてみてほしい。あまりの関連の強さに、ちょっとびっくりすると思う。

「自分の頭で考える真の思索家は、君主に似ている。直接判断を下し、自分の上に立つ者を認めない。彼の判断は君主の決定のように、みずからの絶対的力に由来し、彼自身が直接下したものだ。換言すれば君主が他人の命令にしたがわないように、こうした真の思索家は権威をうけいれず、自分でたしかめたこと以外、認めない。これに対して、さまざまな世論や権威、偏見にとらわれた凡庸な脳みその持ち主は、法律や命令に黙々としたがう民衆のようだ」(「自分の頭で考える」より、21~22ページ)

 つまり、サイードのあの輝かしい言葉、「迎合するまえに批判せよ」(『知識人とは何か』64ページ)は、19世紀にはすでに放たれていたのだった。

 さて、ここまでエラスムス、ヘッセ、サイードと名前を連ねてきたが、じつはこの本を読みながらもっとも頻繁に思い出したのはヴァレリー・ラルボーだった。そう、あの不朽の名作、『罰せられざる悪徳・読書』である。というのも、この本は最初の「自分の頭で考える」を過ぎると、人はどのような本を手に取るべきなのか、という話題に移っていくのだ。

「私たちが本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ」(「読書について」より、145ページ)

「悪書から被るものはどんなに少なくとも、少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読みすぎることはない。悪書は知性を毒し、精神をそこなう」(「読書について」より、145~146ページ)

「良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるのだから」(「読書について」より、146ページ)

 では、良書とはいったいどのような本のことなのか。ショーペンハウアーはまず、個々の本が持つ名声の理由に目を向けている。考えられるのは「素材」と「表現形式」のふたつである。

「有名な本なら、それは素材のおかげか、表現形式のおかげか、よく区別しなければならない」(「著述と文体について」より、41ページ)

「読むに値する本が書かれ、それが素材のおかげでなければないほど、すなわち素材がよく知られた陳腐なものであればあるほど、書き手の功績は大きいということになる。たとえばギリシアの三大悲劇詩人は、みな同じ素材を取り上げ、それに手を加えている」(「著述と文体について」より、41ページ)

「素材によって効果をねらう悪しき傾向に拍車をかける企ては、作品価値を表現形式で問うべき領域、すなわち文学の領域では、どうあっても排すべきだ」(「著述と文体について」より、43ページ)

 この「素材」と「表現形式」というのは、たとえば文学においては「ストーリー」とその「語り口」と言い換えることもできるだろう。奇抜なストーリーで世に知られている作品は数多いが、そういった作品を実際に読んでみると、たいていの場合、じつは読む必要がなかったということを教えてくれるだけだ。反対に、さもすでに読んだことがことがある気がするほど「あらすじ」をよく知っているような古典作品、たとえば『ロミオとジュリエット』『若きウェルテルの悩み』『ドン・キホーテ』などは、実際に読んでみると驚くほど多くのものをもたらしてくれる。これは、シェイクスピアゲーテセルバンテスといった作家の語り口に価値がある証拠で、彼らの手にかかればどんなストーリーでも「読むに値する」ものになるということである。

「精神の産物、著作の価値をさしあたり評価するのに、必ずしもその書き手が「何について」「何を」考えたかを知る必要はなく(そうしたら全作品を通読せねばなるまい)、まずは「どのように」考えたかを知れば、じゅうぶんだ。この「どのように」考えたか、つまり思索の根っこにある特徴と一貫したクオリティーを精確にうつし出したのが、文体だ。文体はその人の全思想の外形的特徴であり、「何を」「何について」考えていようとも、つねに同じはずだ。それはいわば、どんな形にも練りあげてゆくことのできるパン生地のようなものだ」(「著述と文体について」より、60ページ)

 それでは、このような価値、すぐれた「文体」はいかにして培われるのか。

「すぐれた文体であるための第一規則、それだけでもう十分といえそうな規則は、「主張すべきものがある」ことだ」(「著述と文体について」より、65ページ)

「真の思想家はみな、思想をできる限り純粋に、明快に、簡明確実に表現しようと努める。したがってシンプルであることは、いつの時代も真理の特徴であるばかりでなく、天才の特徴でもあった。似非思想家のように、思想を文体で美々しく飾り立てるのではなく、思想が文体に美をさずけるのだ。なにしろ文体は思想の影絵にすぎないのだから。不明瞭な文章や当を得ない文章になるのは、考えがぼんやりしている、もしくは混乱しているからだ」(「著述と文体について」より、65ページ)

「重厚で内容豊かな、そもそも書くに値する思想があれば、素材と内容にことかかず、そうした思想は文法や語彙のうえでどこをとっても完璧な文章を十二分に満たし、空疎で無意味、軽率な箇所はまったくないばかりか、つねに簡潔で簡明的確な文体となる。いっぽう思想はそこにわかりやすく、ぴったりの表現を得て、優美に伸びやかに展開する」(「著述と文体について」より、104ページ)

 つまり、「書くべきテーマ」を持つ作家だけが、すぐれた文体を持つことができる。書物とは常に作家の「書くべきテーマ」を反映しているはずのものなのだが、近代的な出版の仕組みが商業的に完成されていくにつれて、「書くべきテーマ」を持たない作家が本を書くという事態が頻繁に起こるようになってしまった。著作で生活費が稼げるようになったからである。

「報酬と著作権保護のための複製禁止は、根本的に文学を堕落させる。書くべきテーマがあるから書く人だけが、書くに値することを書く」(「著述と文体について」より、33ページ)

「どんな作家でも、かせぐために書きはじめたとたん、質が下がる。偉大なる人々の最高傑作はいずれも、無報酬か、ごくわずかな報酬で書かねばならなかった時代の作品だ」(「著述と文体について」より、33ページ)

「ドイツ国内でも国外でも、今日の文学は悲惨をきわめるが、その元凶は本を書くことでお金をかせげるようになったことだ。お金が要る者は、猫も杓子も、机に向かって本を書き、読者はおめでたくもそれを買う。その付随現象として、言葉が堕落する」(「著述と文体について」より、33~34ページ)

 さて、19世紀のドイツが「悲惨をきわめる」のなら、現代の日本はいったいなんと表現すればいいのだろう。わたしはもうすぐ10年も日本の出版業界に身を置いている人間だが、「書くに値すること」の書かれている本が、客観的に見てもあまりに少ない。たとえば明日刊行される予定の100冊の本のうち、手に取ってみたいと思える本が1冊あるかないかというのは、悲惨をとっくに通り越しているではないか。毎月新刊を出すような「売れっ子作家」がごろごろいるが、まっとうな作家であれば1年に1冊以上の本を書けるはずがないのだ。原稿というのはそれ以上推敲の余地がないと判断されたときにだけ出版社の手に渡るべきなのであって、ヴァレリーはそれさえも「諦め」と表現していた(『ヴァレリー文学論』21ページ)。つまり、世の「売れっ子作家」たちは毎月推敲を「諦め」ており、「読者はおめでたくもそれを買」うのである。

「読者の注意と関心をつねに惹きつけておこうとしたら、永遠に価値あるものを書くか、さもなければ休みなく新しいものを書き続けなければならない。後者の道を選べば、書くものは悪くなるいっぽうだ」(「著述と文体について」原注より、123ページ)

 身近な例に、文庫本がある。毎月各社から600点以上も刊行されているが、大半はまるで大量生産工場がどこかにあるのではないかと思われるような時代小説、ライトノベル、陳腐なロマンス、陳腐なミステリーである。これらは本のかたちをしているが、じっさいはただの紙クズだ。そして、こういった紙クズが書店を埋め尽くしているという状況は、そのまま出版業界全体のモラルの低下を表していると言えるだろう。われわれの一生はあまりにも短く、読むべき本はあまりにも多いのだから、本来ならこんなものにかかずらっている時間はないはずなのだ。自然破壊云々と言う前に、この状況をなんとかしないことには、紙クズは増える一方で、良質な本を読みたいという人々の欲求は肩すかしを食らいつづけることだろう。それが書物一般に対する人々の期待さえも裏切っているのだから、これはもう立派な犯罪である。

 ところで、ヘミングウェイ『移動祝祭日』のなかで、登場人物にこんなことを言わせている。「いまの時代にいちばん欠けているのは、野心をまったく持たない書き手と、本当に素晴らしい、埋もれたままの詩だと思うんだ。もちろん、どうやって暮らしていくかという問題もあるけどさ」(『移動祝祭日』203ページ)。くだらない時代小説などと並べるのはためらわれるが、こういった「野心」という心情は、通俗小説にはけっして分類されない純然たる文学の書き手たちとも無縁ではない。その文学的野心の変遷を追ったのがロラン・バルト『零度のエクリチュール』なので、興味のある方は手に取ってみてほしい。ちなみに、わたしがその野心をまるで感じなかった20世紀以降の作家は思いつくかぎりたったの3人、フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』)、ヨシフ・ブロツキー『ヴェネツィア』)、それからエステルハージ・ペーテル『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし』)の3人だけである。野心の有無が文学にどう作用するのか、というのは、また別の問題だが。

 ショーペンハウアーに戻ろう。通俗小説というのはラルボーが書いていたとおり、「≪永遠の忘却≫という恐ろしい判決によって」ごく近いうちに歴史から姿を消すのだから、わざわざ相手にする必要もない(『罰せられざる悪徳・読書』35ページ)。「誠実な人間として、いかさま師たちの裏をか」くことのほうが重要である。

「評論雑誌は、現代の無責任な三文文士の書きなぐりや、なおもますます大量に出回る無用の悪書に対して清廉潔白、公正かつ厳正な態度で判断を下して、その防波堤になるべきだ。書く力も資格もない者が書いた冗文や、からっぽ財布を満たそうと、からっぽ脳みそがひねり出した駄作は、書籍全体の九割にのぼる。評論雑誌は当然、それらを容赦なくこらしめ、書きたい気持ちにまかせてペンを走らせる詐欺まがいの売文行為を阻止しなければならない。それなのに著者や出版業者とのさもしい馴れ合いから、それらを奨励し、読者から時間と金を奪っている」(「著述と文体について」より、49ページ)

「社会では、いたるところにうごめく頭の鈍い能無しに対して寛容でなければならないが、この寛容の精神を文筆の世界にも持ち込むのは、あやまりだ。というのも文筆の世界において、かれらはあつかましい侵入者であり、悪をそしるのは、善に対する義務だからだ。何ひとつ悪とみなさない人間にとって、善もまた存在しないからだ」(「著述と文体について」より、51ページ)

 そもそも、新刊や話題になっている本を読まなければならない理由など、どこにもないのだ。出版業界、なかでも大出版社のほとんどは、広告などありとあらゆる商業的な方法を用いて出たばかりの本を賞讃し、読者の興味を掻き立てようと躍起になっているが、それは彼らが企業として販売部数を伸ばす必要に駆られているからに過ぎない。そして、そういったときの大袈裟な賞讃の対象が、「素材」ではなく「表現形式」だった試しがあるだろうか。それは先にも引いた「素材によって効果をねらう悪しき傾向に拍車をかける企て」の極みとでも呼ぶべきもので、とくに文学においては許されるものではないのだ。

「いちばん最近語られた言葉はつねに正しく、後から書かれたものはみな、以前書かれたものを改良したものであり、いかなる変更も進歩であると信じることほど、大きな過ちはない。真の思索家タイプや正しい判断の持ち主、あるテーマに真剣に取り組む人々はみな例外にすぎず、世界中いたるところで人間のクズどもがのさばる。クズどもは待ってましたとばかりに、例外的人物の十分に熟考した言説をいじくり回して、せっせと自己流に改悪する」(「著述と文体について」より、37ページ)

ヘロドトスによると、ペルシア王クセルクセスは、雲霞のごとき自陣の大軍を見て、百年後にはこの中のだれひとり生きてはいまいと考え、涙ぐんだという。書籍見本市の分厚いカタログを見て、早くも十年後にはもはやこの中の一冊も命脈を保っていないと考えると、泣きたい気持ちにならない者があるだろうか」(「読書について」より、143ページ)

「無数の悪書は、この世界に生い茂る雑草のようなもので、小麦から養分を奪い、小麦を枯らしてしまう。すなわち悪書は読者から、本来なら良書とその高尚な目的に向けられるべき時間と金と注意力をうばいとる。また悪書はお金めあて、官職ほしさに書かれたものにすぎない。したがって役に立たないばかりか、積極的に害をなす。今日の著書の九割は、読者のポケットから手品のように数ターレル引き出すことだけがねらいで、そのために著者と出版社と批評家は固く手を結んでいる」(「読書について」より、143~144ページ)

 最近出たばかりの、それもあなたがその作者の「表現形式」の価値を知らないような本を手に取るということは、常にギャンブルだ。そのギャンブルの賭け金となっているのはほかならぬあなた自身の「時間と金と注意力」であり、しかもそのギャンブルは、そもそも実践する必要性がない。そんな危ない橋を渡らなくても、100年以上前から読み継がれている良書が世界には満ちあふれており、そのほとんどをわれわれはまだ読んでいないのだから。

「できれば原著者、そのテーマの創設者・発見者の書いたものを読みなさい。少なくともその分野で高い評価を得た大家の本を読みなさい。その内容を抜き書きした解説書を買うよりも、そのもとの本を、古書を買いなさい」(「著述と文体について」より、38~39ページ)

「あらゆる時代、あらゆる国の、ありとあらゆる種類のもっとも高貴でたぐいまれな精神から生まれた作品は読まずに、毎年無数に孵化するハエのような、毎日出版される凡人の駄作を、今日印刷された、できたてのほやほやだからというだけの理由で読む読者の愚かさと勘違いぶりは、信じがたい。むしろこうした駄本は、生まれたその日のうちにさげすまれ、うち捨てられるべきだ。いずれにせよ数年後にはそのような扱いをうけ、過去の時代のたわごととして、永遠に物笑いの種になるだけだ」(「読書について」より、147ページ)

 おそるおそる開いてみたショーペンハウアーではあったが、読み終えるころには我が意を得たりと拳を握りしめるようになっていた。いちばん最初に引いたとおり、読書という行為そのものが有害なのではない。問題はなにを読むか、どのように読むか、ということで、さらには「読まない」という選択肢を知ることなのである。

「読書しているとき、私たちの頭は他人の思想が駆けめぐる運動場にすぎない。読書をやめて、他人の思想が私たちの頭から引き揚げていったら、いったい何が残るだろう。だからほとんど一日じゅう、おそろしくたくさん本を読んでいると、何も考えずに暇つぶしができて骨休めにはなるが、自分の頭で考える能力がしだいに失われてゆく。いつも馬に乗っていると、しまいに自分の足で歩けなくなってしまうのと同じだ」(「読書について」より、139ページ)

「たくさん読めば読むほど、読んだ内容が精神にその痕跡をとどめなくなってしまう」(「読書について」より、140ページ)

「読んだものをすべて覚えておきたがるのは、食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ。私たちは食物で身体をやしない、読んだ書物で精神をつちかう。それによって現在の私たちができあがっている。だが、身体が自分と同質のものしか吸収しないように、私たちはみな、自分が興味あるもの、つまり自分の思想体系や目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。目的なら、だれでも持っているが、思想体系めいたものを持つ人は、ごくわずかだ。思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ」(「読書について」より、149ページ)

 ショーペンハウアーはまた、思索という行為についても大きく紙幅を割いている。ほとんどは読書と関連して語られたことであるが、はっとさせられる文章がたくさんあった。彼の本職が哲学であることを忘れてはいけない。もっと彼の著作を読んでみたいと思った。

「思索家の奮闘、尽力をいぶかしく思う人がいるかもしれない。問題そのものをよく考えたいなら、ほんの少し自分の頭で考えるだけで、ほどなく目標に達するように思えるからだ。だが、思索は私たちの意志と無関係なので、それは少しばかり違う。いつでも座って本を読むことはできるが、考えるとなると、そうはいかない。つまり思索は人間のようなものだ。いつでも好きなときに呼びにやれるわけではなく、あちらが来てくれるのをじっと待たねばならない。外からの刺激が、内なる気分や心の張りと、なごやかに首尾よく出会うと、あるテーマについて自然に考えられるようになる。こうした思索は、博覧強記の愛書家には決して経験できない」(「自分の頭で考える」より、17~18ページ)

「自分の頭で考える思索家は、真剣で、直接的に根源的なものを取り扱うという特徴があり、自分の考えや表現をすべてみずから検証してゆく。これに対して博覧強記の愛書家は、なにもかも二番煎じで、使い古された概念、古物商で買い集めたがらくたにすぎず、複製品をまた複製したかのように、どんよりと色あせている。型どおりの陳腐な言い回しや、はやりの流行語から成る彼の文体は、他国の硬貨ばかり流通している小国を思わせる。すなわち自分の力ではなにも造り出せないのだ」(「自分の頭で考える」より、20ページ)

 また、さらにこれらと関連して、執筆、すなわち思想を言語化することについても語られていた。思考を言葉によって固定化することの弊害は、なにかを書こうとしたことのあるひとならばだれしもが経験していることだろう。

「思想本来の息吹は、言葉になるぎりぎりの点までしか続かない。その時点で思想は石化し、あとは死んでしまう。だが太古の化石化した動植物と同じように、末永く保たれる。思想本来のつかのまの生命は、水晶が結晶化する一瞬にも比せられる」(「著述と文体について」より、44ページ)

「思索が言葉を見出すと、たちまち奥深いところにあった切実さと厳粛さが失われる。思索はなにか他のもののために存在しはじめると、私たちの中で生きることをやめてしまう」(「著述と文体について」より、44~45ページ)

「思考は、頭から紙に降りてゆくのは容易だが、紙から頭に上がるのはそれよりはるかにむずかしく、手持ちのありとあらゆる方法の手助けがいる。これがうまくゆくと、そこに記された言葉は、完成した油絵作品のように、純粋に客観的に作用する。これに対して主観的な文章はあやふやな印象を与え、それは壁の染みにも劣る。染みなら、一般の人にはただの染みでも、たまたま想像力を刺激されて図柄に見える人がひとりぐらいいるかもしれないが……」(「著述と文体について」より、105~106ページ)

 そして、みずからの思考を明確に伝えるためには、まずは上掲のとおり確固たる「書くべきテーマ」を持つことが第一規則であるが、言葉を過剰に用いないこと、また的確な比喩を駆使することなどが語られていた。比喩については、ここに引用したいくつかの文章だけでもショーペンハウアーがどれだけ意識的であったかを教えてくれていると思う。

「どんな作用も度を過ぎれば、ほとんど初めねらったのと反対の結果をまねく。たしかに言葉は思想をわかりやすくするのに役立つが、その効用はある点までだ。その限度を越えて、やみくもに言葉を積み上げてゆくと、伝えるべき思想はどんどん明快さを失ってゆく。この限界点を見極めるのが、文章表現のかんどころであり、判断力のつとめだ。よけいな言葉はみな、本来の目的を真っ向から阻むからだ。この意味でヴォルテールは「形容詞は名詞の敵だ」と言っている。だが多くの書き手が言葉を過剰に用いて、思想の貧しさを隠そうとしているのは言うまでもない」(「著述と文体について」より、74ページ)

「比喩は認識の強力な推進力となる。だからこそ意外性に富み、しかもぴったりの比喩を駆使できれば、深い理解力のあかしとなる。アリストテレスも言っている。「ずばぬけて偉大なのは、比喩を見出すことだ。言い換えれば、これだけは他人から学べるものではなく、天賦の才のしるしだ。すぐれた比喩を駆使するには、同質性を見抜かねばならないからだ」(『詩学』)」(「著述と文体について」より、117ページ)

「言葉は芸術作品であり、芸術作品として客観的に受け止められるべきだ。したがってすべて規則にかない、ねらい通りに表現されていなければならない。どの文も、主張すべきことが客観的に明白で、実際に証明されうるものでなければならない。言葉は人それぞれの主観的なものにすぎないと考え、自分が思っていることは他人が推測してくれると期待して、文法の格をまったく表示しなかったり、過去をすべて未完了過去で表したり、前つづりを除去したり……等々のお粗末な表現をすべきではない」(「著述と文体について」より、120ページ)

 それから、個人的に見過ごすことができなかったのは、ショーペンハウアーのフランス語に対する敵意だ。19世紀ドイツではフランス流の振る舞いがもてはやされていたようで、ショーペンハウアーはこの風潮を、それはもうあからさまに嫌悪している。彼の舌打ちが聞こえてくるようで、これらの箇所はにやにやしながら読んだ。

「フランス語はボキャブラリーが乏しいせいで、前置詞〈pour〉がドイツ語の四つか五つの前置詞の役割を一手に引き受けているが、やはり同じような理由からドイツの三文文士たちは、〈gegen〉〈um〉〈auf〉や他の前置詞を置くべきとき、あるいはまったく置かなくてよいときまで、この〈pour〉に相当する〈für〉を置く。フランス語の〈pour, pour〉を猿真似したいだけだ。前置詞〈für〉が六回使われていたら、そのうち五回は誤用されているほど、はなはだしい」(「著述と文体について」より、81ページ)

「ドイツ語以外の主なヨーロッパ言語はギリシア語やラテン語の方言にすぎないのに、そちらを称えようとするなんて、ばかげているではないか。ドイツ語はギリシア語やラテン語に劣らない、みごとな文章を書くことのできる比類なき言葉だ。だからこそドイツ語は、他のヨーロッパ言語とは比べものにならないほど気品があり、格調高い」(「著述と文体について」より、101ページ)

「気取ったフランス人の国民的うぬぼれは何世紀も前からヨーロッパじゅうのお笑い種になっているが、その極みがかれらの言語観だ。大学で用いられる『比較文法入門、三つの古典語学習の手引き』(エグル編、第五版、1857)では、第三の古典語としてフランス語をあげている。もっともみじめなロマンス語の隠語、このうえなくひどくラテン語を不具にした言語が第三の古典語とは! このみすぼらしい言語がギリシア語やラテン語と並ぶ「古典語」とは! ヨーロッパじゅうが高笑いして、あらゆる気取り屋の中でも、もっとも恥知らずな連中の鼻っ柱をくじいてやろうではないか」(「著述と文体について」原注より、134~135ページ)

 いつもながらものすごく長く書いたが、ここで紹介したことがこの本のすべてではもちろんない。自分でじっさいに読んでみて、ショーペンハウアーの思想に直接触れてみてほしい。あなたは必ずや、ここにわたしが引用した文章以上のものを持ち帰ることだろう。ちなみにわたしはこの本を、飛ばした部分もあるものの、三度続けて読んだ。以下の文章がわたしにそうさせたのである。

「重要な本はどれもみな、続けて二度読むべきだ。二度目になると、内容のつながりがいっそうよくわかるし、結末がわかっていれば、出だしをいっそう正しく理解できるからだ。また二度目となると、どの箇所も一度目とはちがうムード、ちがう気分で読むので、あたかも同じ対象をちがう照明のもとで見るように、印象も変わってくるからだ」(「読書について」より、149~150ページ)

 おかげで引用したい文章が膨大になってしまったわけだが、削った文章はさらに多い。そのすべてを記憶に留めておくことはできないと釘を刺されたばかりなので、いまはいさぎよく諦め、次に読み返すときの楽しみにしたい。この本はきっと何度も読み返す。

「この世が真に考える生き物に満ちあふれているとしたら、あらゆる種類の騒音がかくも無制限にゆるされ、野放しにされることも、ありえないだろう」(「自分の頭で考える」より、26ページ)

「本を買うとき、それを読む時間も一緒に買えたら、すばらしいことだろう」(「読書について」より、149ページ)

「哲学は文学史の根音をなし、それどころか他の歴史、すなわち政治史へも響き渡り、そこでも根底から意見を導いてゆく。哲学は世界を支配する。したがって真の正しく理解された哲学は、最強の実質的な力でもある。だがその影響はたいそうゆるやかだ」(「読書について」より、152ページ)

 こんなに高揚する読書はじつに久しぶりのことだった。

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 


〈読みたくなった本〉
池内紀『リヒテンベルク先生の控え帖』

リヒテンベルク先生の控え帖 (平凡社ライブラリー)

リヒテンベルク先生の控え帖 (平凡社ライブラリー)