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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ジョカストとやせ猫

 ワールドカップなどを言い訳に本を手に取らない日々が長く続き、その後仕事が忙しくなってしまったため、文学とは控えめに言ってもまったく無縁な生活をしばらく送っていた。そんなある日、といっても一昨日のことだが、今すぐ小説を読まなければ自分はおかしくなってしまう、という危機感を抱き、日本から運んできたこの本をおそるおそる開いた。小説風のなにかなどではなく、自分が敬愛し、全幅の信頼を寄せる作家の作品がどうしても必要だったのだ。

アナトール・フランス小説集〈12〉ジョカストとやせ猫

アナトール・フランス小説集〈12〉ジョカストとやせ猫

 

アナトール・フランス(佐藤正彰・杉捷夫訳)『アナトール・フランス小説集 第12巻 ジョカストとやせ猫』白水社、2000年。


 小説を読むことで自分の思考が鋭敏になっていく感覚には、おそるべきものがある。自然科学や哲学、または文芸評論や作家の伝記などは、本自体が読者の理解を求めて語り掛けてくるため、忙しい日々でもさしてなにも考えずに手に取ることができるが、小説となると、そうはいかない。本のなかにある世界に沈んでいく必要があるので、読者には読みはじめる前からある種の準備が求められるのだ。現代に欠けているのは、こういったページを開く前の深呼吸であると思う。

 また、あくまで個人的な意見ではあるが、それは物語の展開が予想を拒むか否かという点とはあまり関係が無く、ひとたび物語が始まれば、わたしは物語の展開をさして予想したりせず、ただ物語を念頭に置きつつ、目の前に立てつづけに現れる一行を追いかける。彫刻が自身の造形美について語りはしないのと同様、小説も読者に対しては沈黙を守ったまま、ただ美しい細部を披瀝していくのだ。だから観衆であるわれわれは、彼らの魅力を見逃さぬよう、鋭敏でなければならない。ページを開く前に深呼吸が求められるのはそのためだ。音楽を聴きながら、携帯電話をいじくりながら本を開いたところで、なにも見つけられはしないのである。

 作中の物語がどのように進行していくかというのはさして重要ではなく、現代の作家の多くはこの点で倒錯している。重要なのは作家がなにを語っているかではなく、いかに語っているかなのだ。最近は本の宣伝文句で「ラストの衝撃!」などと書かれていることがあるが、それは物語の進行以外に取り立てて見せるものがないと出版社が自ら告白しているようなもので、そんな紙クズはそもそも手に取る必要がない。重要なのは「あらすじ」を書こうとしたときに決まって削除される部分のほう、すなわち細部なのである。

 アナトール・フランスがこういったことを雄弁に語らせてくれるのは、彼がまさしく深呼吸をしたあとに読みたい作家だからであり、読者の鋭敏な感覚なしには魅力を十分に理解できない作家だからである。だが、これこそが芸術だと、わたしは信じて疑わない。この本のタイトルを見ると、まるで「ジョカストとやせ猫」という長篇小説が収められているようだが、じつは「ジョカスト」と「やせ猫」という二作の中篇小説である。最初の「ジョカスト」は、以下のようにはじまる。

「――まあ、ロングマールさん、あなたはポケットに蛙を入れていらっしゃるの? おおいやだ。
 ――ええ、僕は部屋に帰るとこのなかの一匹を板の上にはりつけにして、腸間膜を露出し、それをごく細いピンセットでもって刺激してやるのです」(「ジョカスト」より、7ページ)

 小説を読みたい、というわたしの欲求、ページを開く前の深呼吸は、じつはもうすでに十分報われている。さらに以下の会話が続く。

「――ひどいことをなさるのね。さぞ苦しがるでしょうね、その蛙は。
 ――冬はたいしたこともないのですが、夏はずいぶん苦しみますよ。その場合もし腸間膜が前もって何か傷害を加えられて炎症を起こしていれば、苦痛は激痛になって、心臓がとまってしまいます。
 ――何のためにそうやってかわいそうな動物をいじめたりなさいますの?
 ――苦痛の実験的理論を立てるのです。ストア派の連中は自分の言ってることがわかっていないし、ゼノンは馬鹿者であったということを、僕は証明してやるのです」(「ジョカスト」より、7ページ)

 こいつはいったいなにを言ってやがるんだ、というのが正常な反応であり、それこそがアナトール・フランスの求めているものでもある(と思う)。しかもあとあと判明することであるが、この「蛙の実験」、物語とはまったく関係がない。この箇所を読んだとき、わたしはもう息ができなくなるほど笑ってしまって、小説を読むことの喜びをこれ以上ないほど味わった。こんなに人を食った書き出しは、そうそうない。しかも物語と関係がないなんて! これは昨今の物語至上主義に対する、確固とした勝利宣言である。

「あなたの場合は、何しろおからだが華奢でいらっしゃるし、ちょっと触れても響く弦のような神経をもっていらっしゃるから、苦痛に対してはほんとにいい音の出る楽器で、八オクタ―ヴの鍵盤のようなものです。苦痛のほうでいつでも好きなときに最も手の込んだすばらしい変奏曲を弾くこともできるでしょうね」(「ジョカスト」より、9ページ)

「彼の愛情は霧雨のようであった。聞こえもせず、見えもせず、やもうともせず、そしてしみ入って、心まで冷やす、こうした雨なのだ」(「ジョカスト」より、41ページ)

 人物造型の巧みさにも言及しておきたい。「ジョカスト」の主人公のひとりであるエレーヌと、その父親であるフェレール氏の描き方は特にすばらしく、息を飲むほどだ。

「娘にとってフェレール氏は神様であった。しかし神々と同じで、彼はたまにしか姿を現わさなかった。一日じゅう留守で、遅く帰って来るのである」(「ジョカスト」より、29ページ)

「彼女はものぐさで、何もしないでいることが好きであった。それに何もしないということが彼女にとって一番無難なことでもあったのだ。フェレール夫人は娘の無言の彷徨は気にとめなかったが、それに引きかえ、すこしでも子供らしい笑い声を立てたりすると、すぐさま小言を浴びせかけられてしまうのであった」(「ジョカスト」より、29~30ページ)

 多感な時期に沈黙することを強いられていた彼女は、成人しても物静かな女となっている。また、訴訟代言人である父親のフェレール氏は、貧乏をおして娘を金のかかる修道院へと送り、母親の死後は毎週木曜日に修道院を訪問していたのだが、その裏には困窮を娘に悟らせないための涙ぐましい努力があった。多少ちぐはぐなところのある人物ではあるが、読者は必ずや彼に好感を持つことだろう。

「何の役にも立たずにほっつきまわったあらゆる歩道、切ない思いをして上ったあらゆる階段、鼻先で閉め立てられたあらゆる戸口、ときとしては場末の舞踏場の熱いぶどう酒の鉢の前まで客を追いまわした揚句の果てに、すっかり泥にまみれてカフェのテーブルの片隅で書いたあらゆる手紙、こうした一切に倦み疲れた、この怪しげな訴訟の野良犬のような男は、毎週木曜日になると、服にブラシをかけ、ぴかぴか磨き立て、手袋をはめ、剃刀をあて、白い下着をつけて、ダーム・デュ・カルヴェールの応接室に現われるのであった。このときの彼は幸福そうな様子で、すがすがしい顔つきをしていた。血の気のない大きな頬もまったくおあつらえ向きであった。オートゥイユ修道院の院長サント・ジュヌヴィエーヴ教母は彼を非常に鄭重に扱った。一番上級の寄宿生のなかの二人が、寝室で彼の夢を見た。
 エレーヌはパパを崇拝しきっていた。
 また実際のところ、フェレール氏は彼なりにすこぶる英雄的であったのだ。一文もなかったある日には、彼は仲間のひとりから、机の上にあったアルフレッド・ミュッセの詩集を借りた。「これで、百度目になるけれど、もう一度読み返してみたい」と彼は言った。その足で河岸の古本屋にこれを売りに行って、それで手袋を買い、翌日は受付の修道女の前で無造作にボタンをかけたのである」(「ジョカスト」より、30~31ページ)

 それから、終盤に登場する新聞記者のブテイエも、たいして重要な人物ではないのだが、その描写は忘れがたい。アナトール・フランスを読んでいると、新人物が登場してくるたびに楽しみがある。

「彼は非常に多忙であった。自分の生活のなかの多くの時間は鉄道で過ごしていた。他に使えばもすこし楽しくも使えた時間であろう。彼はフランスじゅうのあらゆる都会で銅像の除幕式を行ない、大統領に従って水害地方に赴き、貴族社会の結婚式に列席し、ネアブラムシによるぶどうの病害に関する各種の講演を聞き、一切を見ていて、そしてこれほど好奇心のない人間はいない。彼が興味のもてるものは世界じゅうにただ一個所しかなかった。それは彼が一件の小さな家と一艘の小舟を持っているシャトゥの地だけである。彼はこの自分の小さな家と小舟のことしか気にかけていないのだ。それなのに全世界のことに気を配らなければならなかった。一軒の工場も彼がいなくては焼けることができないのだ」(「ジョカスト」より、82ページ)

 この「ジョカスト」の物語にはある悲劇的な恋が含まれており、上掲の「霧雨」もそうだが、恋情を語る魅力的な一文もたくさん秘められていた。

「彼は彼女を愛していたのだ。しかしそれを彼女に打ち明けるくらいならば、舌を噛み切ってしまったことであろう」(「ジョカスト」より、37ページ)

「散文には不足しない彼の独身生活のなかで、彼女はただひとつの詩であった」(「ジョカスト」より、62ページ)

「彼らはひと言も愛の言葉を交わしはしなかった。けれどもただの一息も燃え上がらない息はなかった。彼らは呼吸をするのに骨が折れた。何か息苦しい甘美な液体のなかを泳いでいるような気持であった。彼女はどうも暑いと言った。彼は彼女の手をとって、ほんの心持ち握ったが、彼女は手を引っ込めなかった。彼らは自分たちが何をしているのかわからなかった。そして二人とも死んでしまいたかった」(「ジョカスト」より、109ページ)

 150ページにも満たない短い作品ではあるが、何度も読み返したい傑作である。

 さて、二作目の「やせ猫」はというと、これは「ジョカスト」よりも一層自由に書かれた感が強く、あるかなきかの大筋以外には展開などほとんどない、作家の書きたかったことをふんだんに詰め込んだような作品である。つまり大歓迎。

「――サント=リュシ君、まず第一に、私は君に宣誓をしておかなければならん。われらは主義主張にかけては確固不抜の信念をもっている。折ることはできるかもしれないが曲げることはできない鉄の男だよ」(「やせ猫」より、158ページ)

「ラバヌは信条告白を行なった。彼はアリストクラシーを愛しているというのだった。アリストクラシーが強く、壮大で、暴力を用いてくれることを望むというのだった。アリストクラシーだけが芸術を栄えさせてくれた。武断的な貴族の残忍で洗練された風習が今ではなつかしく思い出させるというのだった」(「やせ猫」より、166ページ)

 これは「ジョカスト」よりもさらに短いというのに、登場人物はじつに多彩で、政治思想家、彫刻家、詩人、自然科学者、哲学者、画家などが、思い思いに自らの思想を開陳していくため、読んでいる自分まで芸術家の都にいるような錯覚を覚えるほどだ。パリにはすべてがあるが、ありとあらゆる観念が遠慮仮借なく押し寄せる空気、というのは、この都にしかないもののように思える。

「ディヨンが自分の雑誌のために論文の寄稿を頼むと、モラリストはなかなかうんとは言わなかった。ラバヌが言った。
 ――この男の『パイドン』に関する注釈をのせ給えよ。僕のアトリエの壁に木炭で書いてあるんだ。写し取らせたらいいだろう。もっとも僕の部屋の壁をいきなり印刷所へ運ぶほうがいいというなら格別だがね」(「やせ猫」より、180~181ページ)

「――思想が進歩するにつれて芸術は凋落する。ギリシアでも、アリストテレスの時代にはもはや彫刻家は存在しなかった。芸術家は一段劣った存在だ。彼らは身重の女に似ている。どういうふうにということを自分では知らずに子供を生み落とすのだ。プラクシテレスがそのヴィーナスを作ったのは、アスパシアの母親がアスパシアを生んだのと同じことだ。まったく自然に、まったく愚鈍にね。アテネやローマの彫刻家どもはヴィンケルマン師を読んではいないからね。彼らは美学を少しも解さず、パルテノンのテセウス像を作り、ルーヴル宮のアウグストゥス像を作ったのだ。頭のある人間は、美しいものも偉大なものも作りはしない」(「やせ猫」より、196ページ)

「だしぬけに、彫刻家が、親指で空を切ったと思うと、こう言った。
 ――あのものを目で見て我慢のできるものにする手段がひとつあるな。
 あのものというのは凱旋門のことだった。
 ――その手段は簡単だよ。しかし、今にわかるが、誰も考えつかないことだよ。といって、あの建物の裾に、古靴直しと、代書屋と、フライドポテト屋をふんだんに開業させればそれで足りるのだがね。フライドポテト屋は煙を出すので大いに役に立つのだ。そういう露天の店は猛烈に汚くしておかなければいけない。無茶な看板やぶざまな絵を描いた目じるしを出させておくのだ。そういう店をこしらえる連中に記念碑の石を剝ぎ取ることを許すのだ。ことに、角の石を取らせると具合がいい。角がとれてよほど柔らかみが出てくるからね。そうした石をとった跡にできた孔はシャベルで土を押し込んで塞ぐといい。そのなかにぶなの実や樫の実を播くのだね。ぶなや柏が、いろいろの高さのところに、緑の茂みを作り、灰色の表面の単調を破るだろう。石材のなかへ根を延ばすから、趣のあるうねり方をした亀裂を生じるだろう。蔦かずらの類がたくさん入用だがね、こいう蔓延植物にはこと欠かないよ。石の上にでも生えるからね。風と鳥が、石の割れ目の土ぼこりのなかに、古い石壁の好きなにおいあらせいとうやそのほかたくさんの禾本科の植物の種を播くだろう。湿気の好きなゆきのした、いちご、あめりかづたなどが自然に生え、ぐんぐんふえるだろう。建物の頂きには鳩小屋ができて凹凸が生じる。燕は天井の下に巣を作るだろう。カラスの群れが、山ねずみや野ねずみの死骸につられて、日が暮れると、軒蛇腹の上に襲いかかるだろう。そうなれば、こういう具合に懸命な注意をもって管理される凱旋門は、詩人たちから眺められ、画家から写生され、美術品と見なされることができるようになる。おい、給仕、ビールを一杯!」(「やせ猫」より、241~242ページ)

 この何度も登場するラバヌという彫刻家は、主人公ではなく、劇中でなにか特別重要な役割を果たしているというわけですらない。そもそもストーリー自体があってないようなものなのだが、彼のような人物の発言がアトリエやカフェ、酒場にて何度も繰り返され、気づけばページが大いに進んでいるのだ。

「――恋愛は、互いに会ったことのない二人の人間のあいだではじめて絶対なものとなりうる。二つの魂は永久の別居のなかにおいてでなければ完全な調和の状態にありえない。孤独が決定的な情熱の必要欠くべからざる条件である」(「やせ猫」より、239ページ)

「――かわいそうなものだ、あのモラリストは、と、ラバヌは叫んだ。あんな立派な考えを抱いたことはこれがはじめてだが! 脳味噌のなかに燐が一粒あれば、天才人なんだがね! 何しろ燐が二粒ある。これが不幸のもとさ」(「やせ猫」より、240~241ページ)

 題にもなっている酒場「やせ猫」に集まった芸術家たちが、詩人の主導で雑誌を創刊するという企画を立てるのだが、詩人が見つけてくる印刷屋の描写がまた傑作である。

「ディヨンは、サン・タンドレ・デ・ザール区の舗装もはがれているようなどこかの通りに、破産しかけているような印刷屋を見つけてきた。その印刷屋の主人がどうでもいいといったような暗い顔でその雑誌の印刷を引き受けてくれた。この印刷屋は頭の禿げた顔色の蒼い小男だった。その顔つきは風にあおられる燃えつきたろうそくの名残りの炎を思わしめるものがあった。この男の商売は惨憺たる状況にあった。絶望に瀕した印刷屋だった。しかし、とにかく印刷屋だった」(「やせ猫」より、199ページ)

 フロベール『感情教育』などが好きでたまらない人には、一読をおすすめしたい小品である。「いかに豊かな才も、それを十全に開花させる場所とては世に一つしかない。パリだ!」(フロベール『感情教育』上巻、156ページ)。この言葉はアナトール・フランスの時代にも十分通用するのである。また、『神々は渇く』なども併読してみると面白いと思う。

「しめった煙草の匂いが部屋の空気を重くしていた。何度も屈折したために力のつきた暗緑色の光が、汚れたガラス越しに、やっとこさ室内に流れ込んでいた」(「やせ猫」より、249ページ)

 文学がいかに自分の生活を豊かにしてくれるものであるのか、痛感した。どうにかしてアナトール・フランスに感謝の気持ちを伝えたい気分だ。この感覚を、忘れないようにしたい。

アナトール・フランス小説集〈12〉ジョカストとやせ猫

アナトール・フランス小説集〈12〉ジョカストとやせ猫

 


〈読みたくなった本〉
『ギリシア詞華集』
「彼女はごく小さい頃から、思いやりの深い繊細な心の子供であった。自分にわかる苦しみにはすべて憐れみを覚えた。彼女は貧しい子供たちにボンボンや紙の人形などをやった。かつて一羽の雀を籠に飼って非常にかわいがっていたのに、それが戸にぶつかって潰されてしまったことがあった。この雀は彼女にとって悦びと苦しみの種となっていた。「プラクソーはその蝉のために墓を建てぬ。これによりかの乙女は人の死するを知りたるなり。」ギリシア詞華集の詩人はイオニアの少女にこう語らせている。エレーヌは雀の死んだとき何かぼんやりとしてしまって当分のあいだはずっとその状態が続いたのであった」(「ジョカスト」より、28ページ)

ピエリアの薔薇―ギリシア詞華集選 (平凡社ライブラリー)