読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

雑記:速読なんてクソくらえ

配架-雑記・ブックリスト

f:id:nina313:20141003134622p:plain

 昔からよく言われてきたことだが、わたしは本を読むスピードが速いらしい。そういうことを言ってくる人たちは大抵、それを羨んでいるような調子で語りかけてくるので、この場ではっきりと言っておきたい。わたしの本を読むスピードは、べつに速くない。ただ、ほかの人たちよりも読書に費やしている時間が長いのだ。一日のうち本に向きあっていられる時間を、できるかぎり長くするように工夫している、と言ってもいい。

 わたしは昔から、現代社会で本を読むには、以下の3つの敵に注意しなければならないと思ってきた。すなわち携帯電話、テレビ、それからインターネットである。


 まず、携帯電話はできるだけ持たないほうがいい。仕事の必要などからどうしても持たなければならないのなら、電話以外の機能が付いていないものを選ぶべきだ。メールもいらない。一日に届くメールの9割は迷惑メールである。スマートフォンをどこにいても目にするが、携帯電話を持たないほどスマートな姿勢があるとは到底考えられない。

 テレビは捨てるにかぎる。点けたら最後、ありとあらゆる悪意・雑音が飛び込んでくるパンドラの箱なのだから。あなたが映画ファンでもある場合は、映画を観るときにだけ電源を入れ、普段はただの黒い箱として扱えばいい。サッカーファンなら、試合をやっていない日には点けない。わたしは映画もサッカーも好きなので、テレビはどう考えてもあったほうがいいのだが、画質は劣るもののパソコンで代用している。こんな乱暴なことを言っていると、大抵「ニュースはどうするの?」と聞かれる。もちろん、観なくていい。そのニュースがあなたの生活に本当に関わりあるものなら、ニュースのほうからあなたを探し出してくれるはずだからだ。たとえばいまはイスラーム国の状勢で国際政治欄が賑わっている(ような気がしている)が、わたしはこの問題について、ニュースを見ている一般的な日本人よりも詳しい自信がある。わたしはいま中東に住んでいるので、他人事では済まされないのだ。情報提供してくれるのも、キッチンに煙草を吸いに来るルームメイトのシリア人なので、下手なニュースよりも信憑性が高い。忘れもしない2011年のあの震災が起きたとき、最初にそのことを教えてくれたのは、パリで泊まっていたホテルの受付の方だった。知らなければならないことがどこからも知らされない、ということは、だれかと関わって生きているかぎり、そうそう起こらない。

 パソコンは便利だ。現代人の必需品である。開いているだけで上のニュースをはじめ、ありとあらゆる情報が飛び込んでくるが、年がら年中インターネットに接続していては、本など読めるわけがない。日本人でもTwitterFacebookなどに信じられないほどの時間を費やしている人を見かけるが、じつはこういう傾向はインド、パキスタンなどの南アジアや、フィリピン、タイ、シンガポール、マレーシアなどでさらに顕著である。一般論でひとまとめにしてしまっては例外的な方々に失礼な気もするが、彼らの生活には、傍から見ていて驚くほど本が登場してこない。本という存在が、生活習慣にそもそも組み入れられていないのだ。これはもちろん、各国の出版状況が大きな理由となっているが、日本は世界有数の出版大国である。われわれの生活からこれ以上本を遠ざけないためにも、たまにはパソコンの電源を切る、ということが必要なのだ。パソコンががなり立てる空気音は、読書家にとってはただの雑音以上に有害である。

 それから、「速く読む」ということに価値を置くのは間違っていると、断言しておきたい。「1日に10冊の本を読む」などと平気で言い張る人間がいるが、そんなのはただの馬鹿である。「10日かけて1冊の本を読む」ほうが、絶対に良い。本は書店にとっては商品であるが、購入者にとって消費物である必要はないのだ。「1日に10冊の本を読む」というような連中が増えれば、書店にとってはありがたい話かもしれないが、それらの本を著した作家にしてみれば、これほどの侮辱もないだろう。これまでに読破した冊数を数えながら、読み終えるためだけにページを繰りつづけるなどというのは、愚の骨頂である。読みながら何度も立ち止まり、本から顔を上げて熟考または夢想させられる時間が多い本こそ、多くのものを与えてくれるのだ。読み終えて「あらすじ」しか覚えていないのなら読んだとは言えず、ただ最後のページまで繰りつづけたというだけのこと、猿でもできる。

 それから、あなたが注目するべきは、その本になにが書かれているかではなく、その本がどんなふうに書かれているか、なのだ。文学にとっては、細部こそすべてである。なにか文学作品を読んで、慎重に読み進めたにも関わらず「あらすじ」以外のことを覚えていないのなら、話は簡単、あなたは読むべき本を間違えたのだ。現代の新刊書店の棚に埋まっている本の9割はこの手の紙クズであると、知っておいたほうがいい。「紙クズ」を「良書」と信頼して、何冊も何冊も読みつづけてきたわたしが言うのだから、間違いない。

 では、良書を見極めるための秘訣は、と言うと、そんなものがあらかじめ分かっていたら苦労しない。わたしだって今でも、うっかり紙クズをそれと気づかずに嬉々として購入することがある。ただ、書店でページを開いてみて、言い回しが気に入った、登場人物の発言に気が利いている、というのは、信頼できる。これらの要素は、「どんなふうに書かれているか」に属する事柄だからだ。また、だれにとっても良書である、などという本は存在しない。良書というのは主観的なものであり、だれかが絶賛していた本が自分にも必ず面白いというわけではないのだ。

 だから、これはかつての自分に向けて自戒を込めて言いたいのだが、有名な古典をすべて読破してやろう、などとは、ゆめゆめ考えるべきではない。読破が目的となったら、もうその読書はおしまいである。わたしは何度も経験したことがあるが、苦しみながら無理やり読み終えた本の細部が、記憶に留まることなどない。具体例を挙げれば、ゲーテ『ファウスト第二部』や、ムージル『静かなヴェロニカの誘惑』など。控えめに言って、なにも覚えていない。いまの自分に楽しめないものを開いてしまった、と感じたら、すぐに読破を諦め、また手に取ろうと思えるときまで、放っておくのが一番なのだ。いつかもう一度手に取るきっかけが与えられるであろうことを信じて、一度その存在を忘れたほうがいい。きっかけもなしに、「有名な本だから読んでおかないと」などと言って古典を手に取るというのは、読書家にありがちな間違いである。いま興味が湧いている、というもの以外に、読むべきものなどないのだ。

 ストーリーを知っている、ということだけで満足できるのなら、だれも『ロミオとジュリエット』を読みはしない。「あらすじ」が切り捨てるものにこそ、読むに値する書物の価値がある。わたしがこのブログで伝えたいのはその価値であり、わたしが引用する夥しい文章のうちにだれかがなんらかの価値を見出し、興味を抱き、最終的にその方にとっての新たな「良書」を増やすことができれば、これ以上に求めるべきことはないのだ。

 この文章が「あらすじ」をキーワードにこのブログにたどり着いた方々の度肝を抜くことを願う。

※写真はわたしに以上のようなことを教えてくれた作家、ヴァレリー・ラルボー。かっこいい。