Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

ウッツ男爵

 職場にて、入荷したばかりの新刊を整理している最中に目にとまった一冊。最近ちびちびと読んでいるある本のなかで、チャトウィンの名を目にすることが複数回あり、しかも翻訳者が池内紀だったので(英文学なのに!)、運命を感じて手に取った。帯にはこう書かれており、これも興味をそそった。「蒐集という奇妙な情熱」。

ブルース・チャトウィン池内紀訳)『ウッツ男爵 ある蒐集家の物語』白水uブックス、2014年。


 マイセン磁器のコレクター、ウッツ男爵にまつわる、まるでノンフィクションのような筆致で描かれた小説である。チャトウィンはイギリス出身の作家であるが、物語は主にプラハを舞台にしており、その点にも大いに惹かれた。チェコという国には、なにか人を惹きつけずにはおかない怪しい魅力があるように思う。そこでなにが起きているのかよくわからない、という、不思議な魅力が。とりわけ20世紀のプラハは、わたしにとってはさも失われた時代の遺物のように感じられ、いつも影がかかっているかのように想像される。『存在の耐えられない軽さ』『あまりにも騒がしい孤独』を読んでみても――おそらく選書にも大いに問題があるものの――謎は深まるばかりだ。

「ここではエリザベス朝演劇の権威が市電の切符売りをしている。古典ギリシアのアナクシマンドロスの断章に哲学的注釈をつけた人が道路清掃人であるような国が、ほかにどこにあるだろう?」(17~18ページ)

「ジテクは庭師になり、ついで道路清掃人、またゴミ収集人として働いた。六十歳を迎える二年前に、これらの労働が負担になったので、新しい仕事を見つけた。いまはバイク便の仕事についている。プラハをオートバイで走りまわってコンピュータ・ソフトを届ける。ソフトウェアはサドルの両脇につけた鞄の一方に入れ、もう一方には書きかけの哲学論文を入れている。コンピュータ・ソフトを届けると、そこで机と椅子を借りて三時間ばかり著作に耽る。ときおり仕事が終わったあとで、書きあげたところを労働者に読んできかせる」(208ページ)

 昔友人に聞いた話だが、チェコ人の自殺率は世界でも屈指だという。この本を読みながらそんな話を思い出したのは、ここにはたしかに彼らの憂愁や絶望が体現されているからだろう。主人公のウッツ男爵にしてもその友人の古生物学者オルリークにしても、彼らの「自由」は共産体制下においては、ごくごく限られたものである。ただ、その限定された「自由」こそが、彼らを種々の内面生活へと駆りたて、生き甲斐ともいうべきものを与えているのだ。20世紀においてチェコ人であるということは、抑圧された自由と折り合いをつけていくということと表裏一体である。ボフミル・フラバルが諦念とともに何度も繰り返した言葉、「心ならずも教養が身についてしまった」というのは、じつは単なる文学的ウィットではなく、そもそもの教養がなければどれほど生きやすかったかを訴えた、つまりは嘆きだったのではないか、とさえ思えてくる。

プラハはメランコリックな気持を包みとってくれる町ではある。現代に望める最高の気分といえば、この手の憂愁ではあるまいか! 生まれてはじめてウッツは心ならずもチェコ人に畏敬の念を覚えた。共産党政権を選びとったことではない――共産主義がとっくに破産した哲学であることは、いまや赤子でも知っている! むしろチェコ人における選択の穏当さにあらためて驚嘆した」(114ページ)

チェコはきわめて住みよい国である――出ていく可能性をもってさえいれば」(126ページ)

 それは信じがたいほど窮屈な生活であるにちがいないが、教養ある彼らにとって、いったい他にどうすることができただろう。「哲学的な道路清掃人」という、一見すると文学的冗談にしか見えない組み合わせは、チェコにおいては単なる冗談にとどまらない。彼らの抑圧された内面生活を示すのに、これほど荒唐無稽かつ的確な形容もないかもしれない。

「イギリスの「反体制研究」グループがいた。近代史専攻の教授と、文学的教養の豊かな三人の女性たちで、東アフリカの自然公園で動物を観察するかわりに、滅亡に瀕した別の種族、東ヨーロッパのインテリの生態を調査するためにやってきた。いまだ自由な足場をもっているか? 何によって生計をたてているのか? 反共産主義の十字軍を支援するために、しかるべきことばを発したことがあるのか?」(169ページ)

プラハのゴミ収集車は黄色がかった赤色の車体で、ほぼ十五年前からこの形になった。上に同じ色の、注意を促す回転ランプがついていて、まわりの建物に赤い光を投げかけながらやってくる。眠りのあさい人にとっては、この光と、ゴミを砕いて押しつぶす機械の音がシャクの種だったが、不眠症のタイプには、ベッドから出て窓ごしに収集作業をながめるのは夜ふけのたのしみというものだった」(204ページ)

 さて、この物語の主人公ウッツの場合、その内面生活はマイセン磁器の蒐集として発露した。共産党も家具・調度品の一部である磁器にまでは、所有を禁ずる口実を見つけられなかったようだ。莫大な価値を持つそのコレクションは、終始監視の目にさらされてはいたものの、ウッツは策を弄してそれをかいくぐっていく。

「公衆のつつしみのない視線のなかで、美術館の美術品は窒息する。いっぽう、個人の蒐集の場合、蒐集家は直接作品に触れる権利がある。また触れなくてはならない。幼い子供が事物の名前をよびながら手をさしのべて触れようとするように、まことの蒐集家は目とあわせて手でもって触れ、作品のいのちを甦らせる。美術館の学芸員は蒐集家の宿敵である。半世紀に一度、美術館に火を放ち、そのコレクションを世間に四散させるべし……」(23~24ページ)

「ウッツは蝋燭の明かりのなかで磁器の人形たちを動かしている。それを見ていて私は自分の判断がまちがっていたことに気がついた。小さな人形たちの世界が彼にとって、ほんとうの世界であった。この人形たちと比べれば、ゲシュタポや秘密警察といった悪の連中も、かりそめの姿であって、この歳月を彩った数々の事件――爆撃、電撃作戦、蜂起、粛清――といえども、このウッツに関するかぎり、「舞台裏の音響効果」といったものにすぎない」(160ページ)

 ブルース・チャトウィンは放浪の旅に出る前、サザビーズにて美術商として働いていたそうだ。小説中の「私」もそのことに触れているが、その経験が作品に彩りを添えていることは疑いようもない。わたしはマイセン磁器のことなどなにひとつ知らないままこの本を読みはじめたのだが、読み終えるころにはこの美術品が持つ歴史を知り、魅力を覚えるようにさえなった。

「十八世紀の人々の想像のなかでは、磁器はエキゾチックな素材であるだけではなく、魔術的で護符的な意味をもつ物質だった。つまりは長命、生命力、不死の霊薬。とすると、よくわかるのだが、アウグスト王は宮殿を四万の磁器で埋めつくした。あるいは製法を国家機密とした。六百人の巨人と取り替えた。磁器こそ衰滅と死を防ぐ薬だった」(156ページ)

「豪壮な聖母教会にイエスを描いたスペイン絵画が飾られていた。背後に金色の後光が照り返り、ベツレヘムの聖なる御子というよりも、反宗教改革派の怨念をそのまま表わしているかのようだった」(49ページ)

 ブルース・チャトウィンとは、つくづく不思議な人である。大学卒業後に美術商となり、それからまた大学に入りなおし、紀行作家として放浪の旅に出て、49歳だった1989年に、その短すぎる生涯を閉じた。この人間味あふれる経歴からしても、好意を抱かずにはいられない。また、作中の随所に登場してくる書物の名前の数々が、彼が趣味の良い読書家であったことを伝えてくれている。

「ウッツはチェーホフの小説『犬をつれた奥さん』を読んだことがある。また両親はマリーエンバードで知り合って結婚した。そんなことから湯治町について、あるイメージがあった。そこでは予期しないことが起こる」(102ページ)

「午後になって雲が出て、やがて雨になった。ウッツは部屋のベッドに横になって、ジッドの小説をひらいた。彼のフランス語の力では十分に読みとれず、まもなくわけがわからなくなった」(112ページ)

「壁に十八世紀の銅版画がかかっていた。宮殿の上に打ち上げられた花火の図。ウッツの父親の写真があった。黒いビロードの敷物の上に勲章が飾られていた。ヴェネツィア風の黒いナイトテーブルがあって、シュニッツラーとシュテファン・ツヴァイクの本がそれぞれ一冊ずつ」(141~142ページ)

 チェーホフ『犬をつれた奥さん』は、わたしが墓場まで持って行きたいと思っている作品のひとつである。また、マリーエンバードというチェコの地名も、ちょっとロブ=グリエの映画を思い出させるではないか。ウッツがカフカの熱心な愛読者だったということもあり、カフカ『流刑地にて』が文中に登場してくるのだが、その使い方には腹を抱えて笑ってしまった。

「マッサージ師たちの老人性の目つきも不愉快だった。早くに若さを失ったタイプであって、いわば「早産した若者」である。温泉館の女たちにも腹が立つばかりだった。白衣を着て手袋をつけており、ウッツを拷問装置にかけるのだった。カフカの小説『流刑地にて』に出てくるような機械に革ひもで、やさしげな手つきながらしっかと縛りつけ、それから革の手袋をつけて口に差し入れ、胃の中身を吐き出させる」(98ページ)

 説明すると、カフカの『流刑地にて』に登場するのは拷問装置ではなく、処刑機械なのである。そんなものに「やさしげな手つきながらしっかと縛りつけ」られるのは、たしかに拷問以外のなにものでもないだろう。笑わせてもらった箇所は他にもいくらでもある。例えば、隣席が党関係者という、およそ最低な環境のレストランのなかで、ウッツたちは店の看板メニューである鱒を注文しようとするのだが、すでにこの連中によって予約されてしまっていたのだ。いちいちきわどい。

「「鱒は品切れです」
 と給仕が言った。
 「品切れ? どういうことだね」
 ウッツが言った。
 「そこの水槽に、あんなにどっさりいるじゃないか」
 「すくう網がありません」
 「だって先週はあったじゃないか」
 「破れました」
 「破れた? 信じられん」
 給仕は唇に指をそえて、ささやいた。
 「全部予約済みでございまして」」(38ページ)

 ちなみに同じレストランで、「抑圧された内面生活」のもうひとつの顕著な例、古生物学者オルリークのハエの研究が語られる。これがもう最高に笑える。鱒も再登場。

「ハエの生命力に魅了されたのだと彼は言った。昆虫学の世界にあっては、蟻や蜜蜂や雀蜂といった集団行動をとって動く虫を研究すると、仲間うちの――とりわけ党の関係者の――うけがいい。
 「ハエはそうじゃない」
 とオルリークは言った。
 「ハエは一匹狼のアナキストだ」
 「声が高い」
 ウッツがささやいた。
 「そのことばはまずい」
 「そのことばって?」
 「ほら、アナキスト、そのことば」
 「なるほど」
 オルリークは一オクターブ、声を高めた。
 「ハエはアナキストで、個人主義者で、ドン・ファンでしてね」
 隣のテーブルの四人の肥った党関係者に言ったのだが、彼らはこちらには目もくれない。給仕が二皿目の鱒を運んできたところで、うであがった魚から骨と青い皮が取り去られるのを、そろってじっと見つめている」(45~46ページ)

 興味深いことに語り手である「私」は、「プラハの春」以降にオルリークと再会するのだが、そのとき彼はすでにこの分野を捨て、旧来の対象であったマンモスの研究に立ち戻っている、という皮肉な描写がある。またしても含意だらけのきわどいことをやっているのに、チャトウィンの語り口はどこまでも軽妙である。

「「ハエのほうはいかがですか?」
 「マンモスにもどった」
 「ハエの蒐集をなさっていたのでしょう?」
 「あれは捨てた」」(183ページ)

 きっとオルリークは、「プラハの春」の結末としてのソ連による制圧を経て、一切の希望を失ってしまい、彼にとっての「自由」の拠り所であったハエの研究を放棄してしまったのだろう、と読むことができる。ただ、べつに可哀想ではない。

「世界の創造にあたり、神は何日目にハエをこの世に生み出したのだろう。五日目かね、それともどんじりの六日目か」(42ページ)

「友人のウッツはマイセン磁器をひと目みただけで、それがどこの土で焼いたものかがわかるように、オルリークはハエの虹色をした羽根を顕微鏡で見さえすれば、それがプラハの山の手のハエか、下町のハエか、あるいは郊外の住宅地から飛んできたハエかがちゃんとわかる」(45ページ)

 蒐集という情熱を語っている点では、オクターヴ・ユザンヌの『愛書家鑑』を思い出した。真のコレクターは、自分の死後にコレクションが散佚することさえ容認できないものなのである。ただ、このウッツの場合、話はそう単純ではない。興味を持った方には、ぜひ手にとって読んでみてもらいたい。

「カフェのテーブルは通勤途中のサラリーマンでいっぱいだった。誰もが顔をうずめるようにして新聞の経済欄を読んでいる。
 「ごめんだね」
 ウッツはひとりごとを言った。
 「こういうのは気に入らない」」(95~96ページ)

「物品は――と私は考えた――人間よりもたくましい。それは変わることのない鏡であって、そのなかに人間は自分の消滅を見なくてはならない。美術品の蒐集ほど人を老いらせるものはないのである」(159ページ)

 シャミッソーの『影をなくした男』やジュースキントの『香水』など、池内紀の単発的な訳書は発作的に手に取ることが多く、大抵は一日二日程度で読み終えてしまうのだが、いつも大きな満足を与えてくれる。これはちょっとすごいことである。チャトウィンに関しても、もっと読んでみたいと強く思った。こんなに親しみを持てる現代の作家はそういない。彼の早すぎる死が悔やまれてならないものの、わたしたちの時代に彼の作品が遺されているというのは、喜ぶべきことだ。今後機を見て手に取っていきたい。


〈蒐集家の文学〉
オクターヴ・ユザンヌ『愛書家鑑』
(※以下のリンクはこの短篇が収められた白水社版『書痴談義』)

書痴談義

書痴談義

 

ゴールドストーン夫妻『古書店めぐりは夫婦で』

古書店めぐりは夫婦で (ハヤカワ文庫NF)

古書店めぐりは夫婦で (ハヤカワ文庫NF)

 


〈読みたくなった本〉
グスタフ・マイリンク『ゴーレム』
「ウッツはプラハのゲットーの話をしてくれた。グスタフ・マイリンクの小説『ゴーレム』に委曲をつくして語られているとおり、それは秘密めいた小路や忘れられた建物のひしめきあったところだったが、前世紀の90年代に取り壊された」(54ページ)
→以降、ゴーレムの話題は何度も現れる。

ゴーレム (白水Uブックス 190)

ゴーレム (白水Uブックス 190)