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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

中世とは何か

 先日フォースターの『アレクサンドリア』を読み、歴史の楽しさを再確認したことから手に取った一冊。もっと直接的には『オンディーヌ』の「訳者あとがき」、水の精伝説の起源を語った文章のなかに、この作家の著作が紹介されていたのだった。親しみのある名前だった。今ではずいぶん昔のことのように思えるが、そういえばわたしは歴史学で学士号を得たのである。

中世とは何か

中世とは何か

 

ジャック・ル=ゴフ(池田健二・菅沼潤訳)『中世とは何か』藤原書店、2005年。


 ずいぶん長いあいだ歴史学的アプローチから離れていた気がして、読んでいてどきどきしたほどだ。死者が舌を持たないことからも察せられるとおり、われわれが知っている歴史と呼ばれるものの多くは勝者によって語られてきたもので、それゆえ虚偽や欺瞞に溢れている。それを暴いていくのが歴史家の重要な仕事のひとつであり、ゆえに歴史意識を持つということは、批判精神を持つこととほとんど同義なのだ。思えばわたしが抱いている「知識人」という呼称への永遠の憧れは、この批判精神の拡張のうえにもたらされたものであったのだと気がついた。サイードが『知識人とは何か』のなかで語った言葉「迎合する前に批判せよ」は、知識人でなければ到底務まらない歴史家という職業にとっても、欠かすことのできないものである。

「中世考古学は長い間過小評価されてきました。というのも古代の遺跡が、廃墟、原っぱの中に残された痕跡、別の遺跡に覆われていてもそれとははっきり異なるものなどであるのに対して、この時期の遺跡はしばしば後の追加や手直しと複雑に混じり合っていて、見分けるのがより困難なように思われるのです。とりわけ、長い間考古学的史料は一段劣るものとして見られてきました。古代について言えば、文書が残されていないためにこれを使わざるをえなかったのです。原史料に「語らせ」なければならないとする歴史家の怠惰な考えかたに応じて、考古学的史料は文書史料ほど明快ではないと考えられていたわけですが……、実際には文章というのは、本当のことを言うよりもむしろ嘘をつくために書かれることの方が多いのですけれどね」(49ページ)

 だから、彼ら歴史の専門家が、自分やその同業者たちのことをわざわざ「歴史家」と呼ぶときに、誇りや矜持といったものを感じることがあっても驚くにはあたらない。歴史家の気高さは、知識人のそれと同じものである。文学、哲学、美術、社会学などなど、どの学問を蔑ろにしても歴史を叙述することはできなくなる。それらを自分のなかで体系化することができなければ、自分の専門であろうとなかろうと、どんな時代についても語ることなどできないのだ。

「歴史家の能力とは、すべての文明ではないまでもすべての時代について語りうるということなのです。歴史は歴史家の問いかけから生まれるものなのですから」(24ページ)

「青年だった私にとって、歴史家という仕事は社会生活のために考案された職業の一つとしてその位置を占めていました。私には医者や芸術家が身近に感じられました。後者についてはおそらく母の影響です。母はピアノの教師でした。古い作品が生きかえり過ぎ去った時代がわれわれのそばに鳴り響くためには、鍵盤の上に指を置きさえすればよいのだということを、私は目と耳でもって理解していました。歴史の先生――当時は研究者になろうとは思っていませんでしたから――というのはピアニストとそれほどちがわないだろう、私にはそう思えました。読み解き、学び、伝えながら、生命を復元する仕事なのですから。史料と楽譜は同じでした。医者について言えば、過去というのは人間の体のようなもので、そこには命が、一種の生命が必要なのです」(35ページ)

 ところで、わたしが書いた学士論文は、思えば奇妙なものだった。第三共和政におけるナショナリズムパトリオティズムの差異を、当時の初等教育にて教材として用いられていた文学作品をもとに明らかにしよう、というものだった。法制史、社会学、教育学、文学の関連書で参考文献欄が溢れたことは言うまでもない。この論文はありがたいことに好評をもって迎えられ、わたしはなんとか大学を卒業することができた。そのときの担当教官の名前も、この本の注釈欄に何度も登場する。わたしの所属していたゼミナールは、ル=ゴフによってその第三世代が代表されるようになった、アナール学派のゼミだったのだ。もはやちょっとした同窓会気分である。

「多くはファクシミリ複製版または写真版を通してでしたが、中世の古文書を発見し、私は大きな幸福を味わいました。これはたいへん重要な出来事でした。そのあと私はほかの原史料に対する知識を発達させるように努めました。特に中世考古学について、それに芸術的・図像学的史料の研究です。このような史料との直接の接触は、「本物の」歴史家、これを生業とする歴史家と、二番煎じの歴史家、いかに優れていようとも素人歴史家、まがいものでしかない人々との、根本的な区別をなすものなのです」(47ページ)

「筆記そのものの問題があります。私は言うのです。どれどれ、どんな風に書いてあるか見てみようじゃないか。お前さんが誰だか当ててやろう。どこの工房の、どの宮廷の、どんな集団の、いかなる境遇の者か、言ってやろうじゃないか」(44ページ)

 これはインタビューをもとに一般読者のために書かれた本なので、とりわけ読みやすい。しかも内容もご覧のとおり、ル=ゴフがいかにして歴史家となっていったかなど、小難しい議論を挟む必要のないものが多く、大変好感の持てる一冊である。しかし同時にこの壮大なタイトル、『中世とは何か』を冠するに恥じないだけの知識が、非常に豊富かつ広範に語られてもいるのである。

「コデックス――ページと折り丁を持ち、われわれの本に相当します――の一般化が、ある移行の目印となります。本=コデックスというのは、中世の誕生を位置づけるなかなか良い方法ではないでしょうか。四世紀末にはすでにこれが見られます。本=コデックスによって、個人的な、自分に向けた読書が容易になります。もっとも完全な黙読が一般化するのは十三世紀のことにすぎません。それまでは依然として、読者が――たとえ一人きりだとしても――文章をぶつぶつと唱えるか、あるいは少なくとも唇を動かしている姿を想像しなければなりません」(44ページ)

 書物の誕生と書記法に関する記述は、とりわけ興味深い。リュシアン・フェーヴルやロジェ・シャルチエ、日本では宮下志朗の研究でよく知られる分野だ。そういえば以前『消えた印刷職人』という宮下志朗の訳書について書いたことがあった。悉皆調査の最中に何度も目にしたのに、結局読みとおすことのないままになってしまっているたくさんの書物が思い出される。こういうときほど、日本に残してきた蔵書が恋しくなることはない。

「この小文字体は、ある宗教的、政治的要請に応えるものです。シャルルマーニュとその側近は、古文書の信頼できる統一化された版を望みます。とりわけ福音書と教父たちの書の原文は、当時知られていたもっとも古くもっとも忠実な写本から復元されます。このような文書の形成は、ある書記装備の開発をともないます。原文はすべてラテン語で、同じ書式で書かれることになります。これがある文明の基礎となり、知の伝達と教育の方法を少しずつ変えていく動きとなります。十二、十三世紀における大学の形成が、すでにこの書物の根本的再構成の中に潜在的に見られるのです」(45~46ページ)

「やがて訪れる十二、十三世紀の重要な転換期は、文書を一見しただけで物質的に判断できます。カロリング小文字体が消滅するのです。書きかたは不規則になり、個人差が生まれ、省略の体系をともなうようになります。これは人が早く書くようになったこと、発話をその場で書きとめていることを示しています。いまや多くの学生たち、それに教師たちがいます。ノートを取る者たちがいる一方で、大勢の前で話しかける権威をもった者たちもいるということですね。早く書くことによって、思考の動きを、直感を、微妙な変化をとらえることができます。内面の領域がさらに拡大します。記憶の形式がまた新たに変化します。十三世紀に書かれた概論のかなりの部分は、たとえばトマス・アクィナスのような最高権威によるものも含め、講義中に取られたノートをもとに執筆されています。このトマスは彼自身の筆跡をかなり残していて――おそろしく省略されていますが――思考が自ら生まれつつあるときの恐るべき速度を感じさせます。草書体と省略の時代です」(46ページ)

 こういった経緯から、上掲のル=ゴフの言葉、「どれどれ、どんな風に書いてあるか見てみようじゃないか。お前さんが誰だか当ててやろう」に繋がるのである。さらにそこからわたしの最大の関心のひとつである、ユマニスム(人文主義)にも繋がっていく。だが、忘れずに書いておきたいが、書物や書記法の変化がわれわれの知的生活にもたらすものは、それ自体非常に興味深い。

「新たな秩序、新たな調整が、十五、十六世紀の人文主義者、とりわけエラスムスとともにおとずれます。文明のではなく時代の変化を示すものです。さらには印刷術が新しいタイプの文章を広めます。もちろんこれで手書きの文書が消えるわけではありません。それはまだ当分の間残りますし、手書きでしかありえない史料というのもあります。しかし手書きの文書がもつ役割は、もはやまったく同じではないのです。印刷された史料に対する歴史家の反応は、手書き文書に対するそれとは異なります。今日、もう一つの本質的変化がコンピュータによって起こっていますね」(47ページ)

 エラスムスやペトラルカの名前が何度も登場し、嬉しくなってしまう。だが、彼らはいわゆるルネサンスの知識人、すなわち人文主義者たちである。ル=ゴフがここで語っている中世は、ルネサンスが起きたとされるより以前のものだ。というか一般的には、ルネサンスこそが近代のはじまり、すなわち中世の終焉を告げるものなのである。しかし、このわかりやすい図式についても、ル=ゴフは注意を喚起するのを忘れない。

「私は歴史的事実というのはつねに歴史家によって作られると思っています。時代というものも、歴史的事実以上に作られたものなのです。ある時代の到来や終焉を告げるものなど何もないのですから」(70ページ)

「一連の変化が、一気に、すべての分野で、ただひとつの場所において起こるなどということはありえないのです。私が長い中世という言いかたをするのはそのためです」(90ページ)

 例として挙げられるのはペトラルカだ。わたしは彼の著作、その名も『ルネサンス書簡集』(!)を大いに楽しんだ人間だが、あのときにも書いたとおり、彼は14世紀の人間であり、同じユマニスムの旗手として語られる16世紀のエラスムス『痴愚神礼讃』)とのあいだには、200年という長大な時間が横たわっている。18世紀と20世紀を同じように語ることができないのと同様、これらを同一視することなどできないのである。

「ペトラルカのうちには、ただちにある中世的精神が認められます。多くの人文主義者たちと同様、彼は古代をその純粋状態のうちに見出そうとします。古代とは「高い」時代であり、人間はあろうことか絶えずそこから遠ざかってしまっているのです。彼は真の再生(ルネッサンス)が起ころうとしている、キリスト教世界は中世のトンネルの終わりを見ようとしている、と感じています。そして、時とともに積み重ねられた無意味な注釈を取りのぞき、この真正にして偉大なる過去を彼が見出すことを望んでいるとすれば、それはまた俗世間によって蝕まれたカトリック教会を改革するためでもあったのです」(74ページ)

「このような時代区分は混乱のもとです。イタリアにおいて、中世と一気に袂を分かつような、たとえば芸術作品なり、知的動向なり、歴史的建造物なりを探してみても、見つかりません、というかそういうものはすでに十三世紀からあるのですよ。ニコラ・ピサーノおよびその息子による数々の説教壇(1260-1310)、十五世紀初頭に作られたフィレンツェの洗礼堂の扉、ペトラルカ(1304-1374)、ブルネレスキによるフィレンツェ大聖堂の円蓋(1420-1436)、これらは中世のものでしょうか、ルネッサンスのものでしょうか」(88~89ページ)

 人文主義者(ユマニスト)たちによるギリシア古典の復権はよく知られているが、その経緯にはラテン語の没落が大きく関わっている。そしてそのラテン語とは教会が用いる言葉なのである。

「中世はまず第一にラテン語の文化でした。ですからラテン文化というのは、とりわけいわゆる「教会」ラテン語というものは、田舎っぽく野暮なイメージがあるのです。良いラテン語と言えば、それはキケロからタキトゥスまでのラテン語、すなわち紀元前一世紀から紀元後二世紀までのラテン語とされます。その後、この言語は退廃期に入るのだと考えられます。こうして中世の学問に糧を与えていた作家たちの大半、とりわけ教父たちは読むに及ばずとされるのです。これに対し、人文主義者たちによって名誉が回復されたギリシア語は、上品で、繊細で、大胆だとされます。一方には司祭のおぼつかない口調で読まれる怪しげなラテン語があり、もう一方には自由な精神が用いる貴族的なギリシア語がある……」(87ページ)

 教会権力の退廃を示すのにとくに象徴的なのが、16世紀における「宗教」という単語の誕生だ。驚くべきことだが、宗教という言葉は16世紀に至るまで、現在の意味では使われていなかったという。なにもかもが宗教と切り離せなかったゆえ、名指すための単語そのものが存在していなかったというのだ。

「このとき新しい語の出現がありました。宗教という単語です。中世にはまったくない概念です。中世においてはすべてが宗教だったのです。宗教という言葉は宗教上の専門的な意味に限って用いられていました。「宗教に入る」と言うと、修道誓願を立てるという意味でした」(107ページ)

「この単語の今の意味は十六世紀に生まれたものです。この宗教という概念の誕生の方は、本当の断絶を示すものです。この概念があるおかげで、場合によっては宗教の外に出ることも考えられるのであり、宗教は相対的とまではいわなくとも、ある現象として距離をおいて考察されるのですから。いまや人は「選ぶ」ことができるのです」(108ページ)

「中世に無神論者がいたかという問題は、あまり語られていません。聖アンセルムスは、神は存在しないと主張する「常識はずれ」の者どもに反論しています。しかしこの「常識はずれ」たちは、旧約聖書の名指している「常識はずれ」たちをそのまま引いたものです――つまり架空の存在です。聖アンセルムスはけっして、無神論を公然と唱えた現実の具体的な人物を挙げてはいません。異端者たちについて言えば、彼らが誤っているとされる信仰のせいで有罪になったことはすでに見た通りで、つまり無信仰の者がいた可能性は皆無です。ですから中世において、人間は例外なく神と向き合っています」(242ページ)

 中世キリスト教会の影響力の大きさを語るうえで、これほど明確な例もそうそうないだろう。また、12世紀には「文学」という言葉も誕生している。これについてル=ゴフは、「世俗の」という言葉を「キリスト教徒のうち聖職の道に入らなかった者たち」と厳密に規定したうえで、以下のように記している。

「この時代にはまた、独自の文学が生まれます。語の西洋的な意味で言うなら、文学そのものが生まれたとさえ言えるでしょう。そもそも文学という言葉は十二世紀に出現します。この文学ははじめは詩です。これによって宮廷風、騎士道風もイデオロギーが世に広められます。しかしギリシア・ローマの伝統には見られない前代未聞のジャンルがこのとき出現します。物語(ロマン)です。ヘレニズムの伝統から生まれた偉大な物語作品も存在し、以来ロマンとされています(アプレイウスの『黄金のろば』、ヘリオドロスの『エチオピア物語』など)が、こういった作品はこの時期に普及したようなロマンとはまったく別物です。これはラテン語ではなく日常言語を用いる虚構の読み物でした。内容はたいてい非宗教的なもの、「世俗の」ものです。クレティアン・ド・トロワのような人物が後世に与えた影響についてはよく知られていますね」(100~101ページ)

 だれもかもがキリスト教徒であるという考え方は、異端審問という中世の負の側面のなかで、いまではマニ教の一種であるとされるカタリ派が異端として討伐された、という点からも明らかだ。そもそもキリスト教徒ではない人々が、どのようにして異端になりえるというのか。その心理の背景に、異なる宗教の可能性というものがそもそも存在していなかったというのは、大変説得力のある指摘である。しかし異端審問というシステムの機能は、なにも宗教の範疇においてのみ適用されるものではない。

「実践面で言うと、異端との闘いは諸権力の存在意義の整合性を検証する機能を果たします。これによって教会は世俗諸権力に対して圧力をかけます。もし彼らが「敬虔な」領主としてふるまい、異端を排斥しないなら、彼らの正当性が危うくなる可能性があるのです。反対に世俗権力の側から見ると、社会的・政治的な反逆者を異端として告発し、教会がこの行為を正当化するように強いるのは、彼らの利益にかなったことなのです」(227ページ)

「そもそも十一世紀以降、権力そのものに対する、あるいは諸権力――教会権力も含めて――に対する批判を排除するために異端の告発が利用されることが次第に多くなります。教会の改革が叫ばれていたこの時代においても、教会の腐敗を徹底的に暴き立てる者は、たとえそのキリスト教の根本教義に対する忠誠が「正統」と思われる場合でさえ、異端者と見なされます。中世において、純粋に教義上の異端は実際にはあまり多くありません」(228ページ)

 この異端審問ともまるきり無関係というわけではない、またしても興味深い事例のひとつに、13世紀におけるラテラノ公会議が実現した「耳聴告白の義務化」がある。ここで人びとは内面空間を生み出すのである。ここからわずか300年で、人が宗教との断絶の可能性を見出したというのは、とてつもない変化ではないだろうか。

「耳聴告白の義務化がもたらす革命の重要性はいくら強調しても足りないくらいです。これは個人的に司祭の耳元でささやかれる告白で、守秘義務によって守られていました。それまでの公開告白は、まれで、見世物にならざるをえず、もっぱら公的行為だったのですが、耳聴告白はこの伝統と袂を分かつものだったのです。いまや問題は自分自身の中に入ること、良心を点検することです。ここに内面空間が生まれます。やがて心理学が、そして精神分析が展開されることになる空間です」(104~105ページ)

 しかしル=ゴフの語る中世では、人びとはまだ心理を持っていない。巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』のなかで指摘していることだが、生まれたばかりの文学は、心理描写を徹底的に排したメルヘンと呼ばれるものであった。いま思えば「排した」のではなく、そもそも存在していなかったのだ。これが文学のなかに本格的に紹介されるのは、コンスタンやラクロなど、19世紀初頭のフランス心理主義小説以降である。こうして見てみると、わたしが愛してやまない時代の文学というのも、それほど古い起源を持つものではないのだな、という気がしてくるから驚きだ。

「心理は中世史家にとって無用の次元です。たとえ中世が「良心の点検」を発明したにしてもです。マルク・ブロックは『王の奇跡』(1924)を書いて、そのことを証明しました。「真の」聖フランチェスコ、「真の」聖王ルイを理解するためには――というのも、私は今も、歴史家が到達することのできるある真実が存在すると信じているので――、時間と語りの概念、想像世界と文化の概念を再考する必要があります。この点でわれわれは、心理学者よりも、文化人類学者、民俗学者の方にずっと近いのです」(240ページ)

「結局この時代とつき合ってみてわかったのは、中世というのは映画に向いているということです。なぜなら中世には人間の心理への関心がないからで、また映画は人間心理を表現するようにはできていないからです。われわれは、存在を、声を、動作を、場所を、物を、物語をとらえますが、その心理をフィルムに収めることはできません」(映画作家ベルトラン・タヴェルニエの言葉、238~239ページ)

クレティアン・ド・トロワを理解するためには、クロード・レヴィ=ストロースを読んでいなければならないのです。レヴィ=ストロース自身、クレティアンの良き読者でした」(241ページ)

 教会の圧倒的影響下の生活を紹介しつつ、 ル=ゴフはこの本を語るうえでは欠かせない指摘をしている。中世は西洋にしか存在しない、というものである。

「中世と言えば西洋に限られますが、古代後期はまた東のビザンティン帝国イスラムの文明とも地続きです。こちらの方は中世と言うのはもはややめた方がいいでしょう。というのも西洋を離れれば「中世」と言うためには(六世紀から十五世紀というような)年代を語るだけでは不十分だからです。中世アラビア、中世インド、中世日本というような概念は必ずしも適切であるとは限りません。どのような時代区分に則して、イスラムの、インドの、日本の「中世」と言うのでしょうか。そこには西洋的観点の度を越した拡張があるのです」(110~111ページ)

 だが、かといって、ル=ゴフ的意味合いでの中世のあとに来るルネサンスが、なにも教会を否定することで成り立っていたというわけではない。疑いはすでに芽吹いていたにちがいないが、それだけルネサンスであるというのは、陥りやすい矮小化である。

人文主義が多かれ少なかれ反宗教的あるいは反教会的態度であるという考えかたも、そろそろ見なおした方がいいでしょう。ジョルダーノ・ブルーノの少々こみ入った例外をのぞけば、ルネッサンス期の大部分の作家、思想家、芸術家において明らかなのは、人文主義の基盤の宗教性です。古代の神話や寓意(アレゴリー)への好みは、彼らの中でキリスト教と結びついています。中世においてすでに、詩人、神学者たちは、ギリシア・ローマの、つまりヘレニズム的な神々を、キリスト教的「企図」のもとに利用しています。変化が見られるのはもっとあと、おそらく十七世紀においてのことです。そして、人文主義キリスト教を対置する議論上の習慣ができたのは、十九世紀のことにすぎません」(236ページ)

 さて、なんだかルネサンス期のユマニスムの話にばかり敏感になってしまっているが、中世には『大学の歴史』などで紹介されていた知識人とは異なる、まったく別種の知識人たちが形成されている、という興味深い指摘に出会った。職業商人たちである。

「歴史家は十三世紀から十四世紀にかけて新しい現実が急速に広がる過程をたどることができます。商人たちが文書の専門家になるのです。商人のために商業実践の手引きがかかれます。商人は実践的な知識人となります。まさしく大学人と対照を成すのです」(132ページ)

 ここで言う商人とは、蔑視された「ユダヤ人の金貸し」とは宗教的にも規模の点でも異なるものである。彼らはやがてもっと大きな金額を扱うようになる人びとで、その両替取引をしていたカウンター(イタリア語でbanco)から、のちには銀行家と呼ばれるようになった。現金を持ち歩く危険を回避するため、彼らは為替手形を発行するようになる。そしてこのことが理由となり、彼らは文書のエキスパートとなっていくのである。しかし、金貸しがみんな「ユダヤ人」と蔑まれた時代にあっては、この生業は非常にデリケートなものである。

「ついには高利貸しの問題がさらに突っこんだ省察をうながしました。儲けが合法的なのはいかなる場合か。それが暴利となるのはいかなる時か。この二つをどう区別するのか。投機はどこまで許されるのか。どういう場合、投機は罪となるのか。このような問いから、時間の概念の問題が浮かび上がります。商人たちは時間を売っているのですが、時間は神にのみ属するもののはずです」(134ページ)

 しかし、職業商人=銀行家たちの扱う額の大きさから、教会はこれを正当化する方法を模索する。そこで生まれたのが、労働の実践、それに伴う対価という論理だ。

「まず第一に彼らが労働を実践していることが認められます。彼らは「眠りながら」儲けているのでは断じてない、働いているのです。聖パウロは言いました、「働く者(ウルガタ版では「労働mercesを提供した者」)に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」(ローマの信徒への手紙、四章四)ここからよく知られた諺、「すべての労働は報酬に値する」が生まれます。労働が正当性をもたらします。いうなれば、これは商人の功績として認められるのです」(141ページ)

「芸術と文化――当時キリスト教的生活と密接に結びついていた二つの領域です――の庇護者として、彼らは急速に頭角を現しはじめます。この庇護によって彼らはその罪を「償う」ことができるのです。また彼らの好みや期待が、精神的な面でも想像的な面でも表現されるようになります。重要なのは、商人=銀行家の注文を受けて製作を行うものたちが少しずつ芸術家になっていくということです。彼らはそれまでは「技術(アート)」、つまり職業的手作業に従事するその他の人々と区別されてはいなかったのです」(141~142ページ)

 商人たちがいかに教会の論理に縛られていたかは、都市発展の過程で彼らが求めたものにも現れている。歴史の捏造・改竄は、すでに民間レベルで行われているのだ。

「十一世紀までの間、ヨーロッパはまず聖地のネットワークとして存在しています。商取引の発達がこのネットワーク上で起こることもあります。しかし商業はしばらくすると、定期市や港の近く――金融市場が発達するのも同じ場所です――にさらなる拠点を生み出します。通商網もまた当然、聖遺物を見つけて自らを正当化しようとします。しかしながらこの場合、聖遺物の役割は二次的です。ここでは聖地を作るのではなくて、場所を神聖化するのです。中世全体を通して、聖遺物の獲得、移送、盗み、偽造のために、人々は必死になります」(212ページ)

 ちなみに同じ「神に属するものの販売」の問題が、「世俗の」学校の教師たちにも起こっている。「哲学は神学のはしため」という有名な言葉が表すとおり、当時学問というものは神学によって代表されていた。つまり、まだそれは神のものであったのだ。

「聖ベルナールが十二世紀初頭に神にのみ属するはずの時間を売ったといって咎めていたのは、銀行家たちだけではありませんでした。彼は知を金と引きかえに売っている学校教師たちをも警戒します。学生は教育に対して金を払わなければならなかったのです。彼にとっては学問もまた神にのみ属するものであり、無料でなければなりませんでした。このような見かたに対して、正当化はすでに銀行の場合に見られたのと同様の議論によってなされることになります。つまりこれらの知識を専門とする新しい職業人たちは、労働を提供しているのだというわけです」(147ページ)

「フランチェスコの博学な神学者たちに対する不信感をよく理解する必要があります。彼は学問の中に一つの財産形態を見るのです。というのも本というのは高価なものですからね。学知を得ること、それは所有する、権力に近づく、権力の行使に関わるという危険を冒すことです。フランチェスコと教会の第一人者や大学の教師――すなわち高位聖職者たち――との間の関係が良好であったことはありません」(162ページ)

 教会と学校教師との対立は、その黎明期からすでにはじまっていたのである。マルセル・パニョル『La Gloire de mon père』第三共和政下のフランスが舞台だが、まだ同じことをやっている、ということを思い出そう。しかし、この時点ではすでに立場が逆転している点も興味深いではないか。

 また、アッシジのフランチェスコについてもかなりの紙幅が割かれているが、なかでも彼の「笑い」に対する姿勢は非常におもしろく読んだ。笑うということに対するイメージも、さまざまな変遷を経て現在に至っているのである。

「中世はファルスと滑稽な劇が非常に盛んでもあった時代ですが、笑いは大きな議論をかき立てました。笑いとは不敬、無作法、秩序破壊でしょうか。修道士の中でももっとも厳格な者たちは、しばしばそのように考えていました。彼らは、新約聖書の中にイエスの笑いに言及している条(くだり)はまったく見られないこと、魔王(サタン)や悪人たちはあざ笑うのに対し、イエスは泣いたことを強調しました。沈黙を破る笑いには、異端の臭いが感じられます」(262ページ)

「中世初期を代表する修道士は、まず第一に涙を流し悔い改める人であろうとします。彼は誤った世界を払い清めます。これに対し托鉢の僧は、アッシジのフランチェスコの例にならい、笑うことをためらいません。こうして彼は、自分は修道士ではない、といったことを理解させているのです。すばらしい本ではあるそのラブレーについての研究の中で、ミハイル・バフチンは終始一貫して笑うルネッサンスと涙を流す中世を対立させているのですが、この考えかたは誤りです。中世は笑いを知っていましたし、いわゆるルネッサンスがつねに陽気でにこやかであったわけでもないのです」(264ページ)

 さて、労働の論理を持ち込むことでの商業の正当化などを見てもわかるとおり、中世の教会はじつにさまざまな概念を人びとの頭に植えつけた。そのなかで最も中世文明を代表していると言えるのが、煉獄の存在だ。やがて宗教改革によって痛烈に批判されることになる贖宥状(免罪符)の誕生を準備した時空である。

「煉獄の研究を通じてわかったのは、文明は時間と空間を管理するその仕方によってもっともうまく定義されるということでした。中世文明は、この世の、つまり地上の時空管理に加えて、あの世の時空管理をも視野に入れてはじめて理解できたのです。中世文明は、自然と超自然の間のくっきりした境界の不在の上に成り立っていました。もはや時間も空間ももたないような永遠は、本当に歴史の外に置かれているのでした」(199ページ)

 煉獄の誕生については、簡単には語ることができない。これを理解するためには、当時の人びとが抱いていた「新しいものを忌避する風潮」、「進歩に対する疑念」といった歴史観を踏まえた議論が必要になる。ル=ゴフの『煉獄の誕生』は、やがて中世史家の必読書となるのではないかとさえ思える。

「原題は直訳すれば「中世を探し求めて」である。つまり、ここでル=ゴフは自身の生涯にわたる中世探求の物語を語っているわけである。この「à la recherche de (du)」というのはフランス語ではごく日常的に用いられる表現であるが、また同時にこのように本のタイトルとして用いられた場合、フランス人なら誰しも連想するのはマルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて À la recherche du temps perdu』であろう。実際そこにはル=ゴフのプルーストに対する何がしかの思いが込められているのかもしれない。事実、「無人島に持っていく三冊の本を選ぶとしたら」というある雑誌のインタヴューに答えた折、聖書、ダンテの『神曲』とともに、ル=ゴフは『失われた時を求めて』の最終巻『見出された時』をあげ、この記憶の小説家に対するオマージュを捧げてもいたのである」(「訳者あとがき」より、301ページ)

 ずいぶん久しぶりに読んだというのに、歴史学の本は水を飲んでいるかのようにするすると自分のなかに入ってき、大変心地よい時間を過ごすことができた。ル=ゴフは今年の4月に永眠してしまったが、彼が遺したたくさんの書物は、これからどんどん評価、さらには再評価されていき、やがては何百年も読み継がれていくにちがいない。ほんものの歴史研究が持つ永遠の価値は、ここに高らかに宣言されている。

中世とは何か

中世とは何か

 


〈読みたくなった本〉
ジャック・ル=ゴフ『中世の知識人』

中世の知識人―アベラールからエラスムスへ (1977年) (岩波新書)

中世の知識人―アベラールからエラスムスへ (1977年) (岩波新書)

 

ジャック・ル=ゴフ『中世の高利貸』

中世の高利貸―金も命も (叢書・ウニベルシタス)

中世の高利貸―金も命も (叢書・ウニベルシタス)

 

ジャック・ル=ゴフ『煉獄の誕生』

煉獄の誕生 (叢書・ウニベルシタス)

煉獄の誕生 (叢書・ウニベルシタス)

 

ウォルター・スコット『アイヴァンホー』
ウォルター・スコットを読むことで、歴史への関心はまちがいなく固まりました。そしてそれは中世の姿を取りはじめたのです。中世はうっとりさせるような物質的な舞台装置の中にしっかりと収まっていました。森はもちろん、その包囲と襲撃が物語のかなりの部分を占めているトールキルストンの城もです。さらにはアシュビーの騎馬槍試合のことも含めるべきでしょう。仮小屋(バラック)、テント、喧噪と色彩、観覧席に集まる庶民、商人、貴族、婦人、騎士、修道僧、司祭たち」(18ページ)

アイヴァンホー〈上〉 (岩波文庫)

アイヴァンホー〈上〉 (岩波文庫)

 
アイヴァンホー 下 (岩波文庫 赤 219-2)

アイヴァンホー 下 (岩波文庫 赤 219-2)

 

ユゴーノートルダム・ド・パリ』
ユゴーの小説はもう少しあとに読んで、気に入りました。学校の課題で読んだので、『アイヴァンホー』の時ほど自由にというわけにはいきませんでした。それに逆説的ですが『ノートルダム・ド・パリ』はよく出来すぎているのです。ユゴーのすばらしい文体が内容に勝っている。第一、ユゴーにおいて内容とは中世ではないし、ある大聖堂の運命ですらないのですよ。それは本そのもの、すぐれたヴィジョンなのです。もちろんユゴーウォルター・スコットをよりどころにしている。でもこれは歴史小説ではない、もはや別のものなのです。これは一つのヴィジョンです」(22ページ)

ノートル=ダム・ド・パリ (ヴィクトル・ユゴー文学館)

ノートル=ダム・ド・パリ (ヴィクトル・ユゴー文学館)

 

ロランの歌』ほか
「ジードは告白して、『ロランの歌』を読むことができなかったと言いました(ロマン主義は「ロンスヴォーの角笛」しか考慮に入れませんでした)。そもそもすばらしい中世文学はあまり読まれませんでした。この文学の世界に入りこむのは大変ですが、一度入ってしまえばすばらしい見返りがあるというのに。武勲詩、アーサー王物語、『わがシッドの歌』、ダンテ、チョーサーのないヨーロッパ文化など考えられるでしょうか。この文学、暗黒でも黄金でもないこの文学は、この時代、当時の人々を表現しており、生命力にあふれ、驚嘆すべき創造性をもっていて、真実味の欠如や、反動的な教訓主義や、俗悪な美学からはほど遠いものなのです」(28ページ)

ロランの歌 (岩波文庫 赤 501-1)

ロランの歌 (岩波文庫 赤 501-1)

 

ポール・ヴェーヌ『ギリシア人は神話を信じたか』

ギリシア人は神話を信じたか―世界を構成する想像力にかんする試論 (叢書・ウニベルシタス)

ギリシア人は神話を信じたか―世界を構成する想像力にかんする試論 (叢書・ウニベルシタス)

 

アントニオ・グラムシ『知識人と権力』
「1957年に「知識人」という言葉を使おうと決めたとき、頭の中にあったのは十九世紀の東の国々のインテリゲンチアのことだけではなくて、聡明なマルクス主義者であったアントニオ・グラムシの1930年代の仕事のことも意識していました。彼は批判的知識人と現行権力に仕える組織的知識人という二種類の知識人を区別していました」(152ページ)

知識人と権力――歴史的‐地政学的考察 (みすずライブラリー)

知識人と権力――歴史的‐地政学的考察 (みすずライブラリー)