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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

We Should All Be Feminists

配架-ナイジェリア文学 評価-★★★☆☆(満足) 言語-英語の本

 職場の友人たちが興奮気味に本の話をしていたので、「なになに、なんの本の話?」と首を突っ込んでみたところ、自分では絶対に手に取らなさそうな本を目の前に突きつけられた。彼女たちは声高に、「あなたこそこの本を読むべきだ」としつこく(失礼)言ってくる。非常に薄い本でもあったので、「じゃあ読むぜ!」と言って借り受けた。それから一週間ほど放置していたのだが、職場での彼女らの視線が日に日に刺々しくなっている気がして、休日の朝、ためしに開いてみた。一時間もかからず、わたしは最後のページに辿り着いた。

We Should All be Feminists

We Should All be Feminists

 

Chimamanda Ngozi Adichie, We Should All Be Feminists, Fourth Estate, 2014.


 アディーチェは信頼する友人が以前薦めてくれたことがあったので、親しみのある名前だった。日本語では『アメリカにいる、きみ』、『半分のぼった黄色い太陽』、それから『明日は遠すぎて』と、著作のほとんどが翻訳されている。2013年に刊行された『Americanah』もすばらしい評判を得ていて、近いうちに翻訳されると期待していて大丈夫だろう。そんな書くものすべてが大きな話題を呼び起こす彼女が、ほんのすこし前に出した小冊子のような本がこれ、「We Should All Be Feminists」である。ものすごいタイトルだ。

「I was about fourteen. We were in his house, arguing, both of us bristling with half-baked knowledge from the books we had read. I don't remember what this particular argument was about. But I remember that as I argued and argued, Okoloma looked at me and said, 'You know, you're a feminist.'
 It was not a compliment. I could tell from his tone — the same tone with which a person would say, 'You're a supporter of terrorism.'」(p.8)
「14歳くらいのときのことだ。わたしたちは彼の家で言い争いをしていて、お互い本で覚えたばかりの半端な知識を駆使しては気色ばんでいた。なんの口論だったのかは覚えていない。ただ、主張に主張を重ねるわたしを見て、オコロマがこう言ったことは覚えている。「きみはフェミニストだ」。
 褒められているわけでないことは、その口調から察せられた。「きみはテロリズムの信奉者だ」とだれかが言うのと、同じ口調だったのだ」

「He told me that people were saying my novel was feminist, and his advice to me — he was shaking his head sadly as he spoke — was that I should never call myself a feminist, since feminists are women who are unhappy because they cannot find husbands.
 So, I decided to call myself a Happy Feminist.」(p.9)
「彼はわたしの作品がフェミニストのものとして人口に膾炙していることを教えてくれ、悲しげに頭を振りながら、わたしはフェミニストをけっして自称すべきでない、なぜならフェミニストというのは、結婚相手を見つけられずに不幸をかこっている女たちのことなのだから、と忠告した。
 というわけで、わたしは「幸せなフェミニスト」と自称することに決めた」

 これは2012年に実施された講演を今回本にするために改稿したものであるという。あまりにも不案内な事柄に関する本だったので、圧倒された。不案内であるからこそ読むべき本だったのだ。わたしはそれまで、フェミニズムフェミニストの活動に関心を持ったことがなかった。いったいなにがそんなに問題だっていうのさ、という態度だったのである。きっとそんな態度が見え透いていたからこそ、友人たちは「あなたこそこれを読むべきだ」と強く主張してきたのだろう。

「Today, we live in a vastly different world. The person more qualified to lead is not the physically stronger person. It is the more intelligent, the more knowledgeable, the more creative, more innovative. And there are no hormones for those attributes. A man is likely as a woman to be intelligent, innovative, creative. We have evolved. But our ideas of gender have not evolved very much.」(p.18)
「今日、わたしたちはまるで異なる世界に生きている。人びとを導くのに適しているのは、もはや肉体的に強い人間ではないのだ。明晰で、知識があり、創造的で、革新的な人間こそがふさわしい。そしてこういった性質に、ホルモンの出る幕などないのだ。男性も女性も、同じくらい明晰で、革新的で、創造的になる見込みがある。わたしたちは進歩したのだ。なのに、性差に関する考え方は、大きく進歩したとは言いがたい」

 女性が社会のどのような位置に置かれているかということを、これまで真剣に考えたことがなかった。というか、男尊女卑というのはいかにも古い言葉のように見えるし、それが可視化されている例など滅多にないように思えていたのだ。ところがアディーチェは、非常に具体的な数々の例をもって、わたしの目をこじ開けてくる。

「Not long ago, I walked into the lobby of one of the best Nigerian hotels, and a guard at the entrance stopped me and asked me annoying questions — What was the name and room number of the person I was visiting? Did I know this person? Could I prove that I was a hotel guest by showing him my key card? — because the automatic assumption is that a Nigerian female walking into a hotel alone is a sex worker. Because a Nigerian female alone cannot possibly be a guest paying for her own room. A man who walks into the same hotel is not harassed. The assumption is that he is there for something legitimate. (Why, by the way, do those hotels not focus on the demand for sex workers instead of on the ostensible supply?)」(p.19)
「それほど前のことではない。ナイジェリアでも最高級のホテルのひとつに足を踏み入れようとしたところ、入口にいたガードマンがわたしを引き止め、腹立たしい質問をしてきたのだ。訪問相手の名前と部屋番号は? 相手と面識はあるのか? 鍵を見せてホテルの客であることを証明できるか? ホテルのロビーに一人で現れるナイジェリア人女性は、商売女というわけだ。ナイジェリア人女性が一人で、このホテルの部屋代を支払えるわけがない、と。同じホテルに入ろうとしていた男性は邪魔立てされることもなかった。彼はなにか真面目な目的のためにここに来ている、というわけだ。(ところで、なぜこれらのホテルは表向きの「供給」ばかりに注意を向け、商売女たちの「需要」のことを一顧だにしないのだろうか?)」

「The sad truth of the matter is that when it comes to appearance, we start off with men as the standard, as the norm. Many of us think that the less feminine a woman appears, the more likely she is to be taken seriously. A man going to a business meeting doesn't wonder about being taken seriously based on what he is wearing — but a woman does.」(p.39)
「悲しいことに、こと外見ということに関して、わたしたちは男性を規範、判断基準として考えるようになっている。わたしたちの大半は、女がフェミニンな雰囲気をまとっていなければいないほど、彼女はまじめな人間として受け取られる、と考えている。会議に向かう男は、なにを着ていけばまじめに見えるかなどとは考えもしない――だが、女は考えるのだ」

 社会を変革させるためには、まず教育から見直さなければならないとアディーチェは説く。文中、「masculinity」や「emasculate」という単語が頻繁に見られるが、このときの「emasculate」は辞書的な訳語としての「去勢する」よりはもっと婉曲的に、「男性の尊厳を挫く」というような意味で使われている。女の子たちは小さなときからそのようにして、男性の尊厳を挫かないようにと、叩きこまれているのだという。

「Gender matters everywhere in the world. And I would like today to ask that we should begin to dream about and plan for a different world. A fairer world. A world of happier men and happier women who are truer to themselves. And this is how to start: we must raise our daughters differently. We must also raise our sons differently.」(p.25)
「性差は世界中のどこでも問題になっている。わたしが今日言いたいのは、いまとは異なる世界を夢見、計画すべきなのではないか、ということだ。もっと公平な世界。自分に正直になった、いまよりもっと幸せな男たちと、いまよりもっと幸せな女たちの世界。それはこんなふうにはじめられるべきだ。娘たちの育て方を変える。息子たちの育て方も、変えなくちゃならない」

「But what if we question the premise itself? Why should a woman's success be a threat to a man? What if we decide to simply dispose of that word — and I don't know if there is an English word I dislike more than this — emasculation.」(p.28)
「では、前提そのものを疑うとしたら? どうして女性の成功が、男性にとって恐怖でなければならないのか? 単純にあの言葉を撤廃するのはどうだろう――英語の単語のうち、これほど嫌悪感を催すものはない――〈去勢(イマスキュレーション)〉という言葉を」

 教育については無自覚だったものの思い当たる点が多く、日本も含めて世界のどこででも実施されていることが問題視されている。女の子たちの結婚願望、貞淑であることのすすめ、それから恥じらいの大切さ、などなど。

「Marriage can be a good thing, a source of joy, love and mutual support. But why do we teach girls to aspire to marriage, yet we don't teach boys to do the same?」(p.29)
「結婚というのは、喜びや愛、思いやりの源といった、すばらしいものになりえる。けれど、どうしてわたしたちは女の子たちに結婚願望を叩き込み、男の子たちには同じことをしないだろう?」

「We police girls. We praise girls for virginity but we don't praise boys for virginity (and it makes me wonder how exactly this is supposed to work out, since the loss of virginity is a process that usually involves two people of opposite genders).」(p.32)
「わたしたちは女の子たちを見張る。彼女たちの処女性を賞讃するが、かといって男の子たちの童貞性は賞讃しない(そしてこのことは、どうしたってうまい具合に運ぶとは思えない。処女性あるいは童貞性の喪失というのは、普通、性の異なる二者を伴うことだからだ)」

「We teach girls shame. Close your legs. Cover yourself. We make them feel as though by being born female, they are already guilty of something. And so girls grow up to be women who cannot say they have desire. Who silence themselves. Who cannot say what they truly think. Who have turned pretence into an art form.」(p.33)
「わたしたちは女の子たちに恥じらいというものを教える。『足を閉じなさい。肌を見せるんじゃありません』。まるで女に生まれるということが、すでになにか罪深いことでもあるかのように感じさせるのだ。やがて女の子たちは、自身の欲望のことを語れない女となる。自身を押し黙らせ、本当の考えを口に出さず、そういった見せかけを芸術の域にまで高めた女たちになる」

 わたしにこの本を薦めてきた女の子たちは(一人は敬虔な、もう一人は懐疑的な)イスラム教徒だったので、「女に生まれるということが、すでになにか罪深いことでもあるかのように感じさせる」という箇所を読んでびっくりしてしまった。現代ではサウジアラビアなどでとくに顕著だが、イスラム教の教えは女性に肌を晒すことを許さない。文字通り彼女らは「男をまどわす罪深いもの」なのであって、それを避けるために彼女たちは全身を黒いベールで覆っているのだ。わたしが現在住んでいる国では、そういう女性たちを毎日見かけるが、イスラム教という圧倒的な男性中心主義が、今後フェミニズムとどう折り合いをつけていくのか、ちょっと想像もつかない。

「Boys and girls are undeniably different biologically, but socialization exaggerates the differences, and then starts a self-fulfilling process. Take cooking, for example. Today, women in general are more likely to do housework than men — cooking and cleaning. But why is that? Is it because women are born with a cooking gene or because over the years they have been socialized to see cooking as their role? I was going to say that perhaps women are born with a cooking gene until I remembered that the majority of famous cooks in the world — who are given the fancy title of 'chef' — are men.」(p.35)
「男の子と女の子は生物学的に否定しがたいほど異なっているが、社会に適合するための過程はその差異を誇張し、自己完結のプロセスに組み込んでくる。試しに料理を見てみよう。今日では、一般的に男よりも女のほうが家事をするものと考えられている。つまり料理や洗濯のことだ。でも、どうしてだろう? 女が料理人の遺伝子を持って生まれてきたとでも、もしくは料理を自分たちの役割として何年も受け入れてきたからだとでも言うのだろうか? わたしはあやうく、たぶん女は料理人の遺伝子を持っているなどと言いそうになったが、あることに思い当たった。世界の有名な料理人の大半――「シェフ」というおかしな名前で呼ばれている人たち――は、男性である」

「What if, in raising children, we focus on ability instead of gender? What if we focus on interest instead of gender?」(p.36)
「教育に際して、性別ではなく「特技」に注目するのはどうだろう? あるいは、性別ではなく「関心」というのは?」

 アディーチェが「フェミニスト」という単語にこだわる理由は非常に興味深い。この人は全然ぶれないし、あらゆる「-ism(~主義)」という言葉に必然的に付着する定義も恐れない。

「Some people ask, 'Why the word feminist? Why not just say you are a believer in human rights, or something like that?' Because that would be dishonest. Feminism is, of course, part of human rights in general — but to choose to use the vague expression human rights is to deny the specific and particular problem of gender. It would be a way of pretending that it was not women who have, for centuries, been excluded. It would be a way of denying that the problem of gender targets women. That the problem was not about being human, but specifically about being a female human. For centuries, the world divided human beings into two groups and then proceeded to exclude and oppress one group. It is only fair that the solution to the problem should acknowledge that.」(p.41)
「『なぜ〈フェミニスト〉でなければならないのか? どうして単に人権活動家であるとか、そうした呼び名ではいけないのか?』と尋ねられることがある。それは不誠実になりえるからだ。フェミニズムはもちろん、一般的に言って人権活動の一種ではある。だが、「人権」という曖昧な言葉を用いては、性差にまつわる独特かつ特定の問題を否定することになってしまう。それはまるで、幾世紀ものあいだ除外されてきたのは女ではない、と言っているように映るのだ。性差の問題が、女たちを対象としているのではないかのように映るのだ。だが問題は、人間であるということではなく、まさしく人間の女であるということなのである。幾世紀ものあいだ、世界は人びとを二つの集団に分け、片方がもう一方を排除し、圧迫してきた。問題の解決策は、そのことを認めたときにはじめて、公正なものとなるのだ」

 この本を手にとるまでのわたしも含めて、大半の男たちはフェミニズムについてはどんな関心も抱いていないように思える。アディーチェはこの状況を憂えていて、その感情がこの小さな本としてのかたちを得ることになったのだろう。少なくともその思いは、わたしの手元には届いた。

「Other men might respond by saying, 'Okay, this is interesting, but I don't think like that. I don't even think about gender.'
 Maybe not.
 And that is part of the problem. That many men do not actively think about gender or notice gender. That many men say, like my friend Louis did, that things might have been bad in the past but everything is fine now. And that many men do nothing to change it.」(p.42)
「ある種の男たちはこんなふうに応えるかもしれない。「うん、興味深い問題だね。でも、ぼくはそんなふうには考えない。性差についてなんて、考えたこともない」
 それはちがうだろう。
 そしてこれは、問題の一部なのである。多くの男たちは、性差について積極的に考えることをせず、あるいは差異に気づきもしない。多くの男たちは、ちょうどわたしの友人ルイスがそうしたように、「そりゃあ昔はひどいもんだったけど、いまじゃあなんの問題もないよ」と言う。そしてこれら多くの男たちは、改革のために動き出すことをしない」

「The best feminist I know is my brother Kene, who is also a kind, good-looking and very masculine young man. My own definition of a feminist is a man or a woman who says, 'Yes, there's a problem with gender as it is today and we must fix it, we must do better.'
 All of us, women and men, must do better.」(p.48)
「わたしが知っている最高のフェミニストは、優しくてハンサムで、とても男性的な若者、弟のキーンである。わたしのフェミニストの定義というのは、「うん、今日の性差にはたしかに解決しなきゃならない問題があるよね。もっとうまくやらなくちゃならないよね」と言う、男あるいは女のことである。
 わたしたちのすべてが、女も男も、もっとうまくやらなくてはならない」

 個々人の努力で簡単に改善できることではないから、この変革には集団的な同意が必要不可欠なのだ。具体的にどんなことができるのか、というのは読者がこれから考えるべきことではあるが、まずは問題意識そのものを持つことが大切なのだと、アディーチェは教えてくれる。

「Culture does not make people. People make culture. If it is true that the full humanity of women is not our culture, then we can and must make it our culture.」(p.46)
「文化が人びとを創るのではなく、人びとが文化を創りあげるのである。女性の全的権利がわれわれの文化ではないのだとしたら、これから文化にすることができるし、そうしなければならない」

 わずか50ページの薄い本にもかかわらず、鮮烈な印象を持った一冊だった。あっという間に読めてしまうので、翻訳を待つまでもなく原書で手にとってみることをおすすめしたい。この問題に関心のない人間にこそ劇薬としての効果が絶大な一冊なので、わたしの友人たちがそうしたように、読ませたい相手にいきなり送りつけてみるというのも手ではある。思想や嗜好の垣根を越えて、広く読まれるべき本であることは疑いない。

We Should All be Feminists

We Should All be Feminists

 


〈翻訳されているアディーチェの小説作品〉

アメリカにいる、きみ (Modern&Classic)

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半分のぼった黄色い太陽

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明日は遠すぎて

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