Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

無実はさいなむ

 じつに久しぶりに更新をするので、もうどんなことを書いていたのか、どんなことを書くべきなのかを忘れてしまった。きっかけでもないかぎり、わたしは自分で書いたことを読み返さない。それをだれかが読んでいると思い込んでいるのだから驚きだが、じっさいに読んでいるひとがいるということはさらに大きな驚きである。無駄に長いうえに益のない文章で、端的に言って時間の無駄なので、おすすめはしない。

無実はさいなむ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

無実はさいなむ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

アガサ・クリスティー小笠原豊樹訳)『無実はさいなむ』ハヤカワ文庫、2004年。


 さて、アガサ・クリスティである。『そして誰もいなくなった』くらいしか感想を書いていないことからも察せられるとおり、わたしはべつにアガサ・クリスティが好きなわけではない。探偵小説という「ジャンル」(嫌な言葉だ)も、べつに好きではない。じゃあいったいなぜ手にとったのかというと、翻訳者が小笠原豊樹だったからだ。わたしにとってはそれだけで十分すぎる理由になる。小笠原豊樹ほどのひとが、わざわざ翻訳することを決意した本。読みたくなるのは当然ではないか。

 探偵小説を読むときには、「犯人はだれなのだろう」、「どんな手口を使ったのだろう」といった事柄を自分で推理していくということが醍醐味なのだろうし、ミステリー作家たちの仕事というのは、いかに読者の推理を裏切った結末を与えるか、ということなのだろうが、わたしの考えかたはぜんぜんちがう。ミステリーだろうとなんだろうと、これが文字で書かれた言葉の構築物である以上、文学として読むのである。だから、シェイクスピアを読むときだって、アガサ・クリスティを読むときだって、なんならショーペンハウアーを読むときだって、同じようにベッドに寝そべって煙草を吸いながら、だらだらと読む(寝煙草は危険です)。

 文学として読むというのはどういうことかと言うと、簡単に言えば自分の気に入る一文を探すということだ。金言がどこかに隠れていると決めてかかる、黄金探索である。それが原文の時点で金言だったものだろうと、翻訳の時点で金言に生まれ変わったものだろうと関係ない。でも、小笠原豊樹が訳しているのだから、自分の気に入る一文が潜んでいないわけがないのだ。犯人なんて心底だれだっていい。それがわたしの、本との付き合い方である。

「渡し場に着いたときは、もう薄暗くなっていた。
 もっと早く来ることもできたはずだ。実をいうと、できるだけぐずぐずしていたのである」(7ページ)

 心躍る書き出しである。アガサ・クリスティがミステリーの大家であることは疑いないが、いわゆる大衆小説としてしか読まれないクリスティというのは、すこし不憫なひとのようにも思えてくる。このひとには文学を産み落としている自負があったはずなのだ。詳しくは後述するが、彼女の作品はミステリーとして読まれるがゆえに、受け取られかたが歪んでいる。

「アーサー・キャルガリは斜面を下りて、船頭が鉤竿で支えているあいだに船に乗りこんだ。船頭は年老いた男で、まるで船と一心同体、一にして不可分といった、ふしぎな印象をキャルガリに与えた」(9ページ)

 文学作家としての自負。そのことを大いに語ってくれるもののひとつが、人物描写である。作家がその登場人物をどんなふうに紹介するかというのは、彼らの力量をじつにわかりやすく示してくれるように思っている。物語に重要でない人物であればあるほど、その紹介の仕方が気になってしまう。

「娘のうしろ、ホールの奥に、もうひとりの人物の顔が見えた。のっぺりした、素朴な顔である。パンケーキのような顔とでも言おうか。それは中年の婦人だった。黄色がかった白髪のちぢれっ毛が、頭頂のあたりに束ねられている。用心ぶかいドラゴンのように、待伏せの場所でうろついていると見えた」(17ページ)

「さっきホールの奥を徘徊していた中年の婦人が、だしぬけに娘の横にあらわれた。その目に胡乱そうに見つめられたキャルガリは、たちまち外国の修道院を連想した。まったく、これはどう見ても修道尼の顔である! 顔をすっぽり包んだ頭巾、というのかどうか知らないが、あのまっしろな布や、黒衣や、ヴェールの似合う顔立ちである。それも高貴な尼ではなくて、重たいドアの小さなのぞき穴から、うさんくさそうにこちらのようすをうかがい、それから仏頂面でドアをあけ、のろのろと応接室あるいは修道院長の部屋へ案内してくれる、あの平修道尼の顔である」(19ページ)

「平修道尼ふうドラゴンの責めるような、いぶかしげな視線を浴びながら、キャルガリはそのまま戸口に立っていた」(19ページ)

 この「平修道尼ふうドラゴン」という文句が気に入ったのは言うまでもない。もうひとつ、すばらしいのがあった。それは、「だらしがない妖精」。

「ふしぎなことに、その瞬間の印象は、初めて逢ったときの印象とそっくりおなじだった。相変わらずロンドンの流行を無視した服装である。帽子をかぶっていない。黒髪が顔のまわりに垂れ下がり、だらしがない妖精といった感じ。重たそうなツイードのコートの下から、ダーク・グリーンのスカートとセーターがのぞいている。野原へでも散歩に出かけて、息を切らして帰って来たような様子である」(314ページ)

 名前すら与えられていない若き警察官も、その職務についてはすばらしい形容を与えられている。

「警察本部長の眉毛がゆっくりと上っていった。けれども白髪の生えぎわまでは、まだだいぶ距離がある。警察本部長はおもむろに天井を見上げ、それからふたたびデスクの書類を見下ろした。
 「なんとも、はや!」と、警察本部長は言った。
 警察本部長に適当な相槌を打つのを唯一の仕事としている青年が言った。
 「はあ、まったく」」(94ページ)

 ミステリーを読みながら、記憶に留めたい文章が上にあげたようなものだというのは、まったく自分でも驚きである。なにやってんだよ、と思う。でも、わたしにしてみれば、こんな魅力的な文章たちに出会うことほど楽しいことはないのだ。

 とはいえ、この本のミステリアスな題名、『無実はさいなむ』(原題は『Ordeal by Innocence』。なんてすばらしい翻訳!)が端的に示しているように、この本は犯罪の手口云々よりも、無実でありながら容疑者とされたひとたちの心理について、多くの紙幅が割かれている。だからこれは一種の心理小説と呼ぶこともできる。呼んだところで、大した意味はないが。

「「誰が? 誰がなんと言ったって?」
 「あの娘――へスターです。問題は、無罪なのだということを、わたしが分かっていないと言いました。いま伺ったご意見もおなじ考え方ですね。誰が無罪なのか――」
 「――永久に分からんということですか?」」(142ページ)

「「わたしが殺さなかったと言ったら、信じてくださる?」
 「もちろん、ぼくは――ぼくは信じます」
 「信じてくださらないと思うわ」」(272~273ページ)

 問題は、複数の容疑者のうち、だれがやったのかが皆目わからず、しかもこのうちのだれかがやったということは疑いないという状況である。疑心暗鬼が彼らを襲い、恐怖が場を支配する。トリックがどうこうといったことよりも、むしろその恐怖と疑いに支配された人びとの心の動きを、クリスティは描きたかったのだと思う。

「夫人が子供らに与えなかったもの、そして子供らにほんとに必要だったものは、ごく自然な、悪意のない放任ということだったんだな」(133ページ)

「「あの頃のおまえは」と、リオが言った。「何事でも自分で選択したがる年頃だった。だから、人に選択してもらうのはいやだったのだ。おまえには昔からそういうところがあったね、ミッキー。赤いセーターを買ってやるよと言うと、青いセーターがいいと言い張る。ところが、ほんとうにほしいのは、たぶん赤いセーターだったのだろう」」(290~291ページ)

 読みながらエドガー・アラン・ポーの短篇、「邪鬼」を思い出した。これも心理的な動機に突き動かされた事件を描いた傑作である。いわく、「人間は、してはいけないという理由で、してはいけないことをする」(「邪鬼」より、64ページ)。とはいえ、クリスティの『無実はさいなむ』は、ポーの短篇に比べると、もっとずっと複雑だ。

「「あなたの視野には、いつも永遠が見えているんだなあ」とキャルガリ。
 「わたしのことを笑ってらっしゃるの」と、変な顔をしてへスターが訊ねた。
 「ちょっぴりね」と、キャルガリは微笑した。
 へスターの表情がとまどうように揺れ動き、それからはっきりと微笑が浮かんだ。
 「わたしって、ほんとに、すぐ自分をお芝居にしたがる癖があるのね」
 「ただの癖ですよ」と、キャルガリ。
 「だから舞台に立ちたいと思ったのね」と、へスターは言った。「でもだめだったわ。わたしは下手くそなの。大根役者なの」
 「日常生活から好きなだけドラマを引き出すことです」とキャルガリは言った」(328ページ)

 ところで、この本の解説には「愛すべき失敗作」という題が付けられていて、「ミステリ書評家」なる人物によって「トリックが甘い」だの「ロマンスは不要だった」だの、場違いなことばかり書かれている。黙れよ馬鹿、と心底から思った。以下、引用してみる。

「このロマンスは全くの場違いで、“取って付けたような”ものという印象は拭えません。クリスティーとしては、読後感を和らげるために、せめてなにがしかの“救い”を置きたいという意図があったのかも知れませんが、かえって読者を困惑させる結果となっています」(「解説」より、429ページ)

 そんなふうにこの本を読んでしまうというのは、大いなる不幸である。彼にとっても不幸だが、クリスティを不憫なひとだと思った最大の理由がこれだ。最初の章からすでに暗示されていたようにさえ思えるロマンスが、「“取って付けたような”もの」に見えてしまうという精神の貧しさはいったいどういうことだろう。わたしは読みながらそのロマンスの中心人物たちに惚れこんでいたので、この「解説」を読んだときには心から驚いた。こいつはいったいなにを読んでいたのだ、と。

 ミステリーとして読んだときにおもしろいかどうかは、この解説者が書いたとおり眉唾ものだが、そんなくだらない読み方をわざわざする必要はどこにもない。普段からアガサ・クリスティをたくさん読んでいるひとたちには、なにか「どんでん返しに対する期待」のようなものがあるのかもしれないが、そんなつまらない考え方はいますぐやめて、アガサ・クリスティが犯罪とは無関係なものものに、これだけの紙幅を費やしていることに目を向けるべきだと思う。小笠原豊樹が訳したのも納得の、すばらしい文学作品だった。

無実はさいなむ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

無実はさいなむ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)