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「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

アンティゴネ

 読み終えたのはずいぶん前なのに、書く時間を見つけられないまま放っておいてしまったブレヒト。この本が思い出させてくれたマヤコフスキー『戦争と世界』を先に記事にしてしまったほどだ。ソフォクレス『アンティゴネ』に対する、ブレヒト流の改作・翻案。

アンティゴネ (光文社古典新訳文庫)

アンティゴネ (光文社古典新訳文庫)

 

ベルトルト・ブレヒト(谷川道子訳)『アンティゴネ』光文社古典新訳文庫、2015年。


 じつはほんの二か月前の新刊である。先日『ガリレオの生涯』について書いた記事をようやく旧ブログから移転させたこともあり、しかも最近戯曲熱・ユマニスム熱が再発しているとあって、「ブレヒト読みてーなー」なんて思っていたところ、ちょうど書店の棚に新刊が並んでいるのを見つけたのだ。非常に手に取りやすい薄さだったこともあり、じつは入手した翌日には読み終えていた。

「どうか皆さん、
 最近、似たような行為が私たちにあったのではないか、
 いや、似たような行為はなかったのではないかと、
 心の中をじっくりさぐって頂きたい」(「『アンティゴネ』への新しいプロローグ、1951年」より、19~20ページ)

 これは同じソフォクレスの手になる有名な『オイディプス王』とは異なり、人為によってもたらせる悲劇の代表例である。かいつまんでストーリーを書いてしまうと、戦争に駆り立てられた兄弟がおり、兄は戦死、弟は戦場を脱走する。帰国後、兄は英雄的犠牲者として祭り上げられるものの、逃げ出した弟のほうは恥さらしとして見せしめのために殺されてしまい、墓を建てることさえ許されない。この兄弟には二人の妹がいた。それがアンティゴネとイスメネであり、アンティゴネは王クレオンの作った掟を破って、この弟を埋葬してやろうとするのだ。

イスメネ 私は広場には行かなかったの、アンティゴネ。親しかった人たちでさえ、もう誰も言葉なんぞかけてくれはしない。やさしい言葉どころか、哀しい言葉だって。だからこれ以上、嬉しくなりようも哀しくなりようもないわ」(23~24ページ)

イスメネ 涙の塩にも限りはある、とめどなく流れ出るものではありません。斧の鋭さは甘く人生を終わらせてくれるでしょうけれど、生き残った者には、苦しみの血管を切りひらくのです」(28ページ)

 アンティゴネのとった姿勢は家族愛に満ちた美しいものであるが、「解説」にこんな箇所がある。「ブレヒトは殉教が、英雄、ヒーローが嫌いだ。アンティゴネだけをヒューマニティの代表者にしてこと足れり、とするわけにはいかないのだ」(「解説」より、153ページ)。しかしそれでもアンティゴネの言葉は響いてくる。

アンティゴネ あなたの掟は、死すべき人間の作った掟、さすれば死すべき人間が破ってもよい掟。私はあなたよりちょっとだけ冥土に近い。でも、たとえ寿命より早く死のうとも、そうなるはずだけど、そのほうが得とさえ申せましょう。私のように生きて災い多い人間は、死んだら少しはましなのではないかしら?」(49ページ)

アンティゴネ 私をとらえたとて、殺す以上のことができますか?」(51ページ)

アンティゴネ 権力を追い求める者は、渇えて塩水を飲むのと同じ、やめられないのです。ますます飲みつづけずにはいられない」(54ページ)

 ソフォクレスと決定的に異なるのは長老たちの存在で、日和見主義者、なんにでも迎合する彼らの存在が、アンティゴネを単なる英雄としては映さない。以下、別々の幕で登場する「すんだこと」に対する姿勢の差を見てもらいたい。

アンティゴネ すんだことでも放っておいたらすんだことにはならないのよ」(26ページ)

長老たち 秀れた支配者の持つ美徳のうちで、一番ためになる美徳は忘れることだといいます。すんだことは、そのままにしてお忘れ下さい」(74ページ)

 テーバイの王様、クレオンはどうしようもない馬鹿として描かれていて、彼はたまに「総統」などという物騒な名称で呼ばれてさえいる。この改作が書かれたのが第二次世界大戦の直後だったことを思い出してもらえれば、最初にあげた「プロローグ」の言葉もちがった響きを持つことだろう。

長老たち 自ら死にたがるような愚か者は、この国にはおりますまい。
 クレオ 公然とはおるまい、だが時には、首が落ちるまで、ひたすら、首を横にふりつづける奴もいるものだ」(35~36ページ)

番兵 夜があけてことを知った時、みんなぞっとしちまいました、おまけに、それをお報せするくじを、私めがひきあてたという次第、総統どの、いやな報せのお使いは、誰にもいやな役回り」(39ページ)

 それでも、ヘルダーリンの翻訳を参照したブレヒトの『アンティゴネ』は美しい言葉に溢れていて、クレオンの発言ですら例外ではない。

クレオ テーバイよ、お前はすぐにも二重の幸福にひたれよう、お前は不幸にくじけない、くじけるのは不幸のほうだ。血に飢えたその槍は最初の盃で渇きをいやし、次から次へと杯を重ねた。テーバイよ、お前はアルゴスの民を荒れ果てた地に投げ倒した。お前をあざけった奴らは、今、国もなく、墓もなく、荒野に横たわっている、かつて町であったところを見やれば、眼を光らせた犬どもが見える。たくましい禿鷹どもがそこへ飛んでいく、屍から屍へと飛び歩き、あまりにおびただしい御馳走に、飛び立つこともできないほどだ」(31~32ページ)

クレオ こやつは、テーバイの国民がアルゴスの家に住むのに反対なのだ。そのくらいなら、テーバイが踏みにじられ、敗北したほうがいいというのだ。
 アンティゴネ あなたと敵の家に住むよりも、自分の国の廃墟に座っていたほうがまし。そのほうが安全」(57ページ)

 ハイモンやテイレシアスといった端役の人びとも、クレオンに厳しい批判を投げかけるが、その言葉さえもいちいち美しい。

ハイモン 自分が、他人とは別の考え、別の言葉、別の心をもっていると思っている人間は、中身はからっぽなものです」(71~72ページ)

テイレシアス 国中の者が勝利、勝利と叫びたて、国は愚か者で一杯じゃ。盲者は目明きの後についていくが、その盲者の後に、だがもっと眼の見えん奴がついてくる」(89ページ)

 以前読んだ『ガリレオの生涯』同様、「解説」にはちょっとびっくりするほどの紙幅が割かれていて、なんなら本編よりも長く感じられた。ただし、退屈な「解説」というわけではぜんぜんなく、ブレヒトの文学論、とくに改作や剽窃、換骨奪胎に対する姿勢に関する箇所はとくにおもしろかった。『剽窃の弁明』なんて本を読んでいたころを思い出す。

ブレヒトにとって過去の作品は、まず、今日における使用価値として意味をもつ。同時に、自分の作品や他人の作品という芸術の私的所有の意識を超えて、作品のもつ題材や思想と形式の面白さを、現代の我々にとっての「読み」の思考の楽しみの素材にかえるのだ」(「解説」より、132ページ)

「芸術が「独創性」においてのみ評価されがちな日本では、「改作」という言葉はなじみが薄い。だがブレヒトはそういうことに関しては、およそ無頓着。処女戯曲『バール』にしてからドイツの表現主義作家ヨーストの『寂しき人』への対抗劇であったし、『三文オペラ』もイギリスの劇詩人ジョン・ゲイの『乞食オペラ』を下敷きとして使っただけでなく、フランスの詩人ヴィヨンの詩の剽窃を非難され、「僕は精神的私有財産に対してはだらしない男でね」と嘯(うそぶ)いている」(「解説」より、131~132ページ)

「ギリシア時代の文明をあたかも最高の規範であるかのごとく描き出したところで、もはや何の意味も持ちえない。これら〔ゲーテやシラーなどの〕ブルジョアの古典作家たちが行ったことで興味あるのは、美学的な問題だけである(彼らの言う民主主義にしても美学的に面白いだけだ)。『アンティゴネ』全体は、野蛮な馬の髑髏を飾った場所で演じられるのにふさわしいものだ。もちろんこの戯曲は決して百パーセント合理的な作品ではない」(ブレヒト『日誌』からの引用、「解説」より、136ページ)

 ブレヒトは読み込めば読み込むほどややこしくなっていく印象が拭えないが、文学者でもないわれわれがそんなふうに穿った読み方をする必要はさらさらない(余談だが、なにせブレヒトはあの『複製技術時代の芸術』によってわたしを混乱の渦に突き落としたベンヤミンの友人である。ベンヤミンと友だちになれるようなひとの書くものが、ややこしくないわけがない)。なんにせよ、それがどこまで深い水であろうと、われわれ読者はその表面の輝きだけを感じていればいいのだ。そうやって読んでも、ブレヒトは十分におもしろい。

 ちなみにこんなのもあった。

「出来事はすべて悲劇的局面と喜劇的局面をあわせもつものである」(ブレヒト「作品解説」からの引用、「解説」より、144ページ)

 前後の文脈からかなり切り離してしまってはいるが、これは、すこしジャン・ジロドゥを思い出させる一文であった。ゲラゲラ笑っていたいのならジロドゥを読んでいたほうがいい気がする。

 わざわざ人に薦めようとは思わないが、福田恒存訳の『アンティゴネ』をこれから読むくらいなら、こちらのほうがはるかに読みやすいだろう。谷川道子訳のブレヒトはいずれすべて読みたい。

アンティゴネ (光文社古典新訳文庫)

アンティゴネ (光文社古典新訳文庫)