Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

サラダ記念日

 唐突、というわけでもないけれど、俵万智。先日『短歌ください』を読んでからというもの、この定型詩との再会を心底喜んでいるわけだが、じつはいまから三年以上も前に、同じように短歌にどっぷり漬かっていた時期があったのだ。2012年5月に読み、付箋だらけにしておいたくせに、結局ずっと感想を書かずにいた『サラダ記念日』。『短歌ください』の解説が彼女だったこともあり、慌てて本棚から引っ張り出してきた。

サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

 

俵万智『サラダ記念日』河出文庫、1989年。


 長いこと感想を書く気にさえなれなかったのは、まず、これがまぎれもない詩集であって、つまり一読したときには特別気に入ることもなかった一首が、じつは今晩寝る前に開いてみたら最高に輝いて見える、というようなことが起こる可能性がとても高いからだ。感想を書く、というのは印象を固定化させていくことなので、あらゆる詩に対して、とても不向きなことである。しかも星五段階の評価まで付けているせいで、その困難は倍増、どころか不可能にさえ思えてくる。でも一応付けるけど、星。まあ、あとで後悔して、慌てて変えることになったって構いやしないのだ。どうせ多くのひとが見ているわけでもない。

 それから、これがあまりにも有名すぎる本で、どんなことを書いても自分の言葉じゃないように響いてしまう、という点も、わたしをこの歌集と向き合うことから遠ざけていた。よく引かれる(ような気がする)歌はいくらでもあるが、なかでも以下のものが有名(な気がする)。

  愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う(26ページ)

  「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(34ページ)

  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日(127ページ)

  「平凡な女でいろよ」激辛のスナック菓子を食べながら聞く(156ページ)

 正直に言って、初めて読んだときには、俵万智ってすごいな、とは、ぜんぜん思わなかった。すてきな歌がたくさんあるな、いいな、とは思った気がするが、シンプルな言葉をきれいに定型に収めているということ、それ自体がとてつもなくすごいことだ、とまでは感じなかったのだ。以下、そのころとくに好きだったいくつかの歌。

  寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら(12ページ)

  「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君(18ページ)

  「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(20ページ)

  君と食む三百円のあなごずしそのおいしさを恋とこそ知れ(30ページ)

  相聞歌なべて身に沁むこの夕べ一首残らず丸をつけおり(36ページ)

 彼女の恋の歌はじつに数が多く、相手との恋愛関係のなかで歌を産み落としている様子が伝わってくる。すくなくとも、彼女はそう見せようとしているにちがいない。ほとんど、恋こそすべて、と言わんばかりの歌集である。直接恋を詠っているわけではない歌でさえ、きまって前後の歌に恋心があふれているため、この想いの氾濫にあってはすべてが恋の歌に見えてくるほどだ。

  「冬の海さわってくるね」と歩きだす君の視線をもてあます浜(35ページ)

  今日風呂が休みだったというようなことを話していたい毎日(39ページ)

  君のため空白なりし手帳にも予定を入れぬ鉛筆書きで(63ページ)

  白よりもオレンジ色のブラウスを買いたくなっている恋である(153ページ)

  エビフライ 君のしっぽと吾のしっぽ並べて出でて来し洋食屋(155ページ)

  駅までのいつもの道のまがり角そよりとポストに近づく一人(170ページ)

 それにしても、この定型意識は、穂村弘や彼が紹介しているたくさんの現代短歌を読んだいま、ものすごいことのように思えてくる。ご覧のとおり、句切れ、ということがほとんどないのだ。それが短歌として良いことなのかどうかはまったくべつの問題だとは思うが、読んでいてリズムがわからない、というようなことが、俵万智に関してはぜんぜん起こらない。短歌ってなに? という程度の知識でこの歌集を手にとったとしても、ああ、この五七五七七のリズムのことなんだな、と、読者が勝手に気づくにちがいない。それってすごいことだと思うのだ。しかも、口語短歌のようなふりをしているが、随所に文語が散りばめられていて、それらが職人的仕事ぶりできれいにリズムを整えている。完全に口語となると、こんなふうに歌集全部あわせても破調がほとんどない、なんてことは起こりえないと思うのだ。彼女の短歌の師、佐佐木幸綱も巻末でこう言っている。

「かつての口語短歌は破調に寛容であり過ぎた。具体的に言えば、語尾の処理がうまくゆかなかったのだった。俵万智の歌は、会話体を導入し、文末に助動詞が来る度合を減らす工夫をほどこしてある」(佐佐木幸綱「跋」より、185ページ)

 この巻末の「跋」、すごくよかった。佐佐木幸綱の歌集もいつか読んでみたいと強く思った。

  四百円にて吾のものとなりたるを知らん顔して咲くバラの花(18ページ)

  咲くことも散ることもなく天に向く電信柱に吹く春の風(44ページ)

  青春という字を書いて横線の多いことのみなぜか気になる(95ページ)

  ため息をどうするわけでもないけれど少し厚めにハム切ってみる(111ページ)

  さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園(150ページ)

  ステージの上に寝そべるコードたちとろけて落ちた五線のように(162ページ)

 恋の歌の洪水、というのはもちろんそうなのだけれども、彼女が頻繁に歌にするテーマはほかにもある。わたしがとくに好きなのは、お父さんのことを詠った一連の歌だ。

  ごめんねと友に言うごと向きおれば湯のみの中を父は見ており(14ページ)

  「また恋の歌を作っているのか」とおもしろそうに心配そうに(47ページ)

  妻のこと「母さん」と呼ぶためらいのなきことなにかあたたかきこと(48ページ)

  電話から少し離れてお茶を飲む聞いてないよというように飲む(48ページ)

  行くのかと言わずにいなくなるのかと家を出る日に父が呟く(135ページ)

  五分間テレビ出演する我のために買われしビデオ一式(139ページ)

  恋愛のことはやめろと諭されて嫁入り道具の一つか歌も(140ページ)

 お父さんはふるさとのことを詠んだ一連に頻出するのだが、その描きかたから愛が伝わってきて、とてもいい。ふるさと、それからふるさとを離れて辿り着いた東京のことを詠ったものにも、すばらしいものがたくさんある。

  東京へ発つ朝母は老けて見ゆこれから会わぬ年月の分(135ページ)

  二階から見る母の傘ぽっと赤 いわさきちひろの絵になっている(141ページ)

  期限つき周遊券にて帰省する ふるさとは吾の途中下車駅(144ページ)

  雪の上駆けゆく子らの長ぐつがマーブルチョコのようで ふるさと(145ページ)

  一人住む部屋のポストを探るときもう東京の顔をしている(147ページ)

 旅の歌、旅立ちの歌、出てゆくということを詠んだ歌にも、今回の再読ではぐっとくるものが多かった。ひとつところに留まっていられないタイプのひとなのかもしれない。しかも、どうやら相手の男性までそうなのだ。

  思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ(14ページ)

  今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海(69ページ)

  パスポートをぶらさげている俵万智いてもいなくても華北平原(76ページ)

  大陸を西へ西へと行く列車 海を見たがる目を閉じている(78ページ)

  長江を見ていたときのTシャツで東京の町を歩き始める(80ページ)

  わけもなく旅立つ人を追いきれずかわりばえせぬ我の日常(112ページ)

  エアメール海を渡りて掌の上に小さな愛ある不思議(112ページ)

 それから、このひとは待つということ、待つという時間に、特別な意味を見出している。だれかを待っている歌はほんとうに多く、しかも、どれも心底すばらしい。彼女の時間の使い方、とても好きだ。これは携帯電話やインターネットが普及しきってしまった現代ではもう詠めない歌のように思えてきて、悲しみに襲われる。

  君を待つことなくなりて快晴の土曜も雨の火曜も同じ(26ページ)

  いつもより一分早く駅に着く 一分君のこと考える(87ページ)

  街を行くセーラーカラーの少女らは人を待たせている急ぎ足(95ページ)

  そのかみの狭野茅上娘(さののちがみのおとめ)には待つ悲しみが許されていた(109ページ)

  約束のない一日を過ごすため一人で遊ぶ「待ち人ごっこ」(113ページ)

  誰を待つ何を吾は待つ〈待つ〉という言葉すっくと自動詞になる(120ページ)

  会うまでの時間たっぷり浴びたくて各駅停車で新宿に行く(124ページ)

  金曜の六時に君と会うために始まっている月曜の朝(152ページ)

  文庫本読んで私を待っている背中見つけて少しくやしい(167ページ)

  今我を待たせてしまっている君の胸の痛みを思って待とう(171ページ)

 また、「カンチューハイ」や「激辛のスナック菓子」といった単語の選択からも容易に察せられるとおり、彼女の短歌をすばらしく身近なものにしているのが、卑近な、と言いたくなるほどに庶民的な暮らしぶり、われわれのと同じ日常に溢れる語彙の数々だ。なかでも野菜や果物を詠ったものは、どれもこれも気に入った。

  栗三つ茹でて一人の秋とせり遠くに君の海感じつつ(109ページ)

  一山で百円也のトマトたちつまらなそうに並ぶ店先(120ページ)

  そら豆が音符のように散らばって慰められている台所(120ページ)

  白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる(130ページ)

  缶詰のグリンピースが真夜中にあけろあけろと囁いている(131ページ)

  事件とも呼べず右手の上にある一人暮しの腐ったレモン(138ページ)

  送られて来し柿の実の柿の色一人の部屋に灯りをともす(143ページ)

  自転車のカゴからわんとはみ出してなにか嬉しいセロリの葉っぱ(168ページ)

 というわけで、以下の一首が、いま、この歌集のなかでいちばん好きだな、と思った歌。いま、ということが重要。でも、今後ほかの歌のほうがいいな、と思うことはあっても、この歌の魅力が衰えることはぜったいにないと思う。

  親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト(102ページ)

 この『サラダ記念日』の単行本は、「解説」によると369刷以上を重ねたそうだ。わたしは十年間も出版業界に身を置いていたが、そんな規模のベストセラーは聞いたことがない。こんなすてきな歌集がベストセラーになるだなんて、いい時代だな、と思わずにはいられない。

「出会いは偶然だった。が、いま私が歌をつくりつづけていることは、偶然ではない。表現手段として、私は歌を選んでいる。惚れてしまったのだ、三十一文字に。一三〇〇年間受けつがれてきた、五七五七七という魔法の杖。定型のリズムを得た言葉たちは、生き生きと泳ぎだし、不思議な光を放つ。その瞬間が、好きなのだ」(「あとがき」より、189ページ)

 これが彼女が24歳のときに刊行された本、ということも関与しているのだろう。ちょっとばかり、すっと入りすぎるところがある。いま欲しいのはもうすこしの混乱と複雑さなのだ。しかし、この共感は価値である。俵万智が『サラダ記念日』のあとにどんな歌を書いているのか、とても気になった。いずれほかの歌集も読んでみたい。

サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

 


〈読みたくなった本〉
佐佐木幸綱歌集』
俵万智の師、とのこと。巻末の「跋」がすばらしかった。

佐佐木幸綱歌集 (現代歌人文庫 23)

佐佐木幸綱歌集 (現代歌人文庫 23)