Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

Decline of the English Murder

 気づけば早くも三冊目のオーウェル評論集。いつからそんなにオーウェルが好きになったんだよ、と、自分でもちょっと笑ってしまうが、この作家の読みやすさは圧倒的で、英語で本を読んでみたい、というようなひとは、もうみんなオーウェルの評論からはじめればいい、と、ちょっと本気で思うようになっている。『Books v. Cigarettes』『Some Thoughts on the Common Toad』に続いて、「Penguin Great Ideas」シリーズもこれで三冊目、今回は『Decline of the English Murder』。

Great Ideas Decline of the English Murder (Penguin Great Ideas)

Great Ideas Decline of the English Murder (Penguin Great Ideas)

 

George Orwell, Decline of the English Murder, Penguin Great Ideas 79, 2009.


 じつは今朝、オーウェルの処女作『Down and Out in Paris and London』(邦題は『パリ・ロンドンどん底生活』)を開いていて、解説者による「まえがき」を読んで知ったのだが、オーウェルは物書きになるべくひたすら文筆修行(?)を重ね、30歳になるころ、すでに2社から断られていたこの処女作を3社目でとうとう出版にこぎつけ、栄光にまみれたとはとても言えないような泥臭い方法で、作家稼業をはじめたそうなのだ。文学史というのは、一連の天才たちによってきらびやかに彩られているものなので、これほどまでに「作家になりたい!」という想いの強さだけを糧に邁進してきたひと、というのは、ちょっと珍しいように思える。しかもオーウェルは収入の手段としての物書きに興味はなく、いわば作家であるために作家になりたかった。

 たぶん、作家になる前のオーウェルは、天才ではなかったのだ。そのため、『動物農場』『一九八四年』を理由に、現在において彼を天才と呼ぶのも、まちがっているように思える。この徹底的な努力家に対しては、天才などという呼称は、どこまでも理想の自分に近づこうとする努力を否定する、ほとんど蔑称のようにさえ聞こえるではないか。オーウェルというのはどこまでも論理的なひとで、突飛な詩だったり、だれも見たことがないような美しい表現だったりを生み出す才能は、たぶんぜんぜん持ちあわせていなかった。むしろ圧倒的に散文的な作家だったため、ついにはその語り口も、誤解を招くような箇所をひとつも含まない、きわめて簡潔なものとなっていったのにちがいない。つまり、彼の読みやすさは、努力の賜物として受け取られるべきなのだ。以下、収録作品。

★★☆「Clink」
★☆☆「Decline of the English Murder」
★☆☆「Just Junk – But Who Could Resist It?」
★★★「Good Bad Books」
★★☆「Boys' Weeklies」
★☆☆「Women's Twopenny Papers」
★★☆「The Art of Donald McGill」
★★☆「Hop-Picking Diary」

 さて、上で語ったようなことは、「Clink」と「Hop-Picking Diary」を見ると手に取るようにわかる。ご覧のとおり、奇しくもこの選集では初めと終わりに位置しているのだが、これらはぜひまとめて紹介したい。

「This trip was a failure, as the object of it was to get into prison, and I did not, in fact, get more than forty-eight hours in custody; however, I am recording it, as the procedure in the police court etc. was fairly interesting. I am writing this eight months after it happened, so am not certain of any dates, but it all happened a week or ten days before Xmas 1931.」(p.1)
「この計画は失敗だった。投獄されることが目的だったというのに、じっさいはただ48時間、留置所に入れられただけだったから。しかしながら、治安判事裁判所での流れなど、なかなかおもしろいこともあったので、記録することにした。これを書いているのは八ヶ月後のことなので、具体的な日付についてはあやふやだが、すべては1931年のクリスマス、その一週間から十日前に起こったことである」

 まず最初の「Clink」では、書き出しにあるとおり、オーウェルは投獄されようとしているのだ。いったいなんのために? オーウェルは、書くことのネタ収集のため、と、迷いなく答えることだろう。わたしなどは、「え、なにそれ?」と思わずにはいられない。『読書について』ショーペンハウアーではないが、作家というのはまずもって伝えたいことがあるから、本を書くのではなかったのか。書くことのネタを探すだなんて、作家であるための作家しか口にしようがない、ちょっと倒錯した論理である。つまり、文筆業に対するオーウェルの姿勢は、デビュー後も変わっていなかったのだ。いや、書きたいことの一部として、牢獄を内部から見た経験が必要だったのかもしれないけれど、それならこの体験談を小説のかたちでなく、こういったエッセイに留めてしまった説明がつかない。いや、まさに「失敗だった」からこそ、単なるエッセイ以上のものにはならなかったのかもしれないけれど。

「At the police court they took me off and put me in a cell identical with the one at Bethnal Green, even to having the same number of bricks in it – I counted in each case.」(p.5)
「治安判事裁判所にて、彼らはわたしを連れ出すと、ベスナル・グリーンのときとまったく同じ独房に入れた。レンガの数まで同じだった。毎回数えていたのだ」

「There were perhaps fifty prisoners here, men of every type, but on the whole much more smartly dressed than one would expect. They were strolling up and down with their hats on, shivering with the cold. I saw here a thing which interested me greatly. When I was being taken to my cell I had seen two dirty-looking ruffians, much dirtier than myself and presumably drunks or obstruction cases, being put into another cell in the row. Here, in the waiting room, these two were at work with note-books in their hands, interrogating prisoners. It appeared that they were 'splits', and were put into the cells disguised as prisoners, to pick up any information that was going – for there is complete freemasonry between prisoners, and they talk without reserve in front of one another. It was a dingy trick, I thought.」(p.8)
「そこにはおよそ五十人くらいの囚人、あらゆる種類の男たちがいたが、たいていの場合、ひとが予想するよりもよほど小綺麗な恰好をしていた。帽子をかぶったままぶらぶら歩き回っていて、寒さに震えていた。ここでは大変おもしろいものを見ることができた。独房に連れて行かれたとき、薄汚い身なり、わたしよりもよっぽど汚らしい恰好の、酔っぱらったか迷惑行為で連行された二人のごろつきが、隣の独房に入れられるのを見かけたのだが、ここ、この待合室のなかでは、同じその二人がノートを片手に仕事を、つまり囚人たちに尋問をしていたのだ。いわゆる「デカ」だったらしく、囚人に変装して独房に入り、情報収集をしていたようだ。囚人たちのあいだには完璧な親愛感情というものがあるし、互いに遠慮なく話すものだから。いけすかない方法だ、と、わたしは思った」

 以上が、冒頭で「おもしろい」と語られていた「治安判事裁判所での流れ」である。つまり、「失敗」に終わった計画の収穫、というやつだ。囚人生活を書きたいがために投獄された作家が世の中にどれくらいいるのかはわからないが、それを試みて失敗するなんて、ちょっと茶目っ気がありすぎるのではないか。これを試みたときに念頭にあったかは本人に訊いてみないとわからないが、もし架空のユートピア文学を書くのに、現実の囚人生活が必要だ考えていたのなら、その発想はちょっとすさまじい。

「I had no idea how long I was going to be incarcerated, & supposed that it would be several days at least. However, between four and five o'clock they took me out of the cell, gave back the things which had been confiscated, and shot me into the street forthwith. Evidently the day in custody served instead of the fine. I had only twopence and had had nothing to eat all day except bread and marg., and was damnably hungry; however, as always happens when it is a choice between tobacco and food, I bought tobacco with my twopence.」(p.13)
「どれくらいぶちこまれることになるのか想像もつかず、少なくとも数日はかかるものだと考えていた。ところが、四時だか五時になったとき、連中はわたしを独房から出すと、没収していた私物を返却し、さっさと通りに放りだしたのだった。どうも留置所生活は罰金なしで済んだものらしい。2ペンスしか持っておらず、一日中パンとマーガリン以外にはなにも口にしていなかったので、ひどく腹が減っていた。しかし、煙草と食料という選択に迫られたときはいつもそうするように、わたしはその2ペンスで煙草を買った」

 さて、巻末のほうの「Hop-Picking Diary」では、投獄されることが目的なのではなく、浮浪者に身をやつしての生活が語られている。なにやってんだよ、オーウェル! たしかに、サン=テグジュペリ『夜間飛行』のように、体験があってはじめて描写が真に迫るということはあるのだろうけれど。

「It was not so bad as I expected, but between the cold and the police it was impossible to get a wink of sleep, and no one except a few hardened old tramps even tried to do so. There are seats enough for about fifty people, and the rest have to sit on the ground, which of course is forbidden by law. Every few minutes there would be a shout of 'Look out, boys, here comes the flattie!' and a policeman would come round and shake those who are asleep, and make the people on the ground get up. We used to kip down again the instant he had passed, and this went on like a kind of game from eight at night till three or four in the morning.」(pp.89-90)
「予期していたほどひどいものではなかったものの、それでも寒さと警察のせいで、ほんのちょっと眠ることさえも不可能だった。慣れきった数人の浮浪者を除いて、そんなことを試みる者さえいなかった。そこには五十人くらい分の座席があり、あぶれてしまった者は地面に座っていたのだが、それはもちろん法律で禁止されていることだった。数分おきに「おい見ろ、ポリ公だ!」という声があがり、やってきた警官は眠っている奴らを揺さぶって、地面にいる連中を立ちあがらせた。警官が立ち去るや否や、再び横になるのが常だったが、こいつはゲームみたいに、夜の八時から朝の三時か四時まで延々と繰り返されるのだった」

「After midnight it was so cold that I had to go for long walks to keep warm. The streets are somehow rather horrible at that hour; all silent and deserted, and yet lighted almost as bright as day with those garish lamps, which give everything a deathly air, as though London were the corpse of a town.」(p.90)
「深夜零時過ぎ、あまりの寒さに、暖を取るための長い散歩に出なければならなかった。この時間帯の通りというのは、なんだかひどくぞっとするものだ。静かで人気はないのに、ぎらぎらした灯りにまるで日中みたいに照らされ、さもロンドンが都市の死骸であるかのように、すべてが死の気配に包まれているのだった」

 ところで、この浮浪者生活中、オーウェルバルザックを読んでいたらしい。こんな文章があったので、忘れずに引用しておきたい。

「At about eight in the morning we all had a shave in the Trafalgar Square fountains, and I spent most of the day reading Eugénie Grandet, which was the only book I had brought with me. The sight of a French book produced the usual remarks – 'Ah, French? That'll be something pretty warm, eh?' etc. Evidently most English people have no idea that there are French books which are not pornographic. Down and out people seem to read exclusively books of the Buffalo Bill type. Every tramp carries one of these, and they have a kind of circulating library, all swapping books when they get to the spike.」(p.91)
「朝の八時ごろ、わたしたちは揃ってトラファルガー広場の噴水で顔を洗い、それからわたしは一日のほとんどを、持参した唯一の本、『ウジェニー・グランデ』を読んで過ごした。それがフランス文学であるとわかるや否や、連中はいつもどおりの、「なに、フランス文学? そいつぁさぞ身体が暖まるんだろうなぁ、えぇ?」といった反応をした。大半のイギリス人にとっては、ポルノでないフランス文学が存在するなど、思いもよらないことなのだ。落ちぶれた人びとというのは、どうもバッファロー・ビルのような本しか読まないらしかった。どんな浮浪者もこういった類の本を一冊は持っていたし、移動図書館のようなシステムもあり、宿にありついたときなどには、本を交換しているのだった」

 彼の友人として紹介されている若者、ジンジャーもおもしろい。サドの『ソドム百二十日』には「犯したことのない犯罪などひとつもない」という人間がふたりも登場してくるが、現実に可能なのはこのジンジャーのような、「毎日欠かさず法を犯す」ということくらいだろう。

「The most interesting of the men with me was a youth named Ginger, who is still my mate when I write this. He is a strong, athletic youth of twenty-six, almost illiterate and quite brainless, but darling enough for anything. Except when in prison, he has probably broken the law every day for the last five years.」(p.92)
「一緒にいたなかでも一番おもしろかったのがジンジャーという名の若者で、彼はこれを書いているいまでも友人である。頑強で活発な26歳、ほとんど文盲で、頭を使うのは苦手、とはいえその他のことはたいてい得意。刑務所に入っているときを除いて、ここ五年間、毎日欠かさず法を犯していたらしい」

「For our supper, Ginger tapped the local butcher, who gave us the best part of two pounds of sausages. Butchers are always very generous on Saturday nights.」(p.96)
「夕飯のため、ジンジャーは地元の肉屋を訪ね、最高の部位のソーセージを2ポンドももらってきた。肉屋というのは、土曜の夜にはいつだってとびきり優しいものなのだ」

 ジンジャーは物乞いのプロで、もうありとあらゆるものをせびってくるのだが、以下の箇所はとくに印象的だった。

「Ginger saw a gentleman in a car picnicking nearby, and went up to tap him for matches, for he said, that it always pays to tap from picnickers, who usually have some food left over when they are going home. Sure enough the gentleman presently came across with some butter he had not used, and began talking to us. His manner was so friendly that I forgot to put on my cockney accent, and he looked closely at me, and said how painful it must be for a man of my stamp etc. Then he said, 'I say, you won't be offended, will you? Do you mind taking this?' 'This' was a shilling, with which we bought some tobacco and had our first smoke that day. This was the only time in the whole journey when we managed to tap money.」(p.99)
「ジンジャーは近くでピクニックをしている紳士が車中にいるのを見つけ、マッチをせびろうと近づいていった。ジンジャー曰く、ピクニック客相手に物乞いをして損することはぜったいにない。帰途につくというときには、たいてい食べものが余っているものだからだそうだ。読みどおり、その紳士はまもなく使わなかったバターを片手に近づいてきて、わたしたちと話しはじめた。彼の態度があまりに友好的だったため、わたしは労働者訛りで話すのを忘れてしまった。彼はまじまじとわたしを見つめると、あなたのようなひとがこんなことになるだなんて、というようなことを言い、さらに、「あの、気分を害さないでもらいたいんだが、どうかこれを受け取ってはもらえないか?」と言った。「これ」というのは1シリングのことで、わたしたちはそれで煙草を買い、その日初めての一服にありついた。この旅のうち、お金を恵んでもらったのはこのときだけだった」

 ここに書かれているとおり、「Clink」のときも含めて、オーウェルはこういった変装生活の最中、出自がバレないようにだろう、わざわざ労働者訛りを使っていたらしい。なにやってんだよ、オーウェル!(二度目)

「After I had mixed with these people for a few days it was too much fag to go on putting on my cockney accent, and they noticed that I talked 'different'. As usual, this made them still more friendly, for these people seem to think that it is especially dreadful to 'come down in the world'.」(p.107)
「これほどの人びとに何日も取り囲まれていると、労働者訛りを演じるのはとんでもない労苦となり、彼らはわたしが「ちがった」話し方をすると気づきはじめた。いつものことだが、この発見は彼らをさらに友好的にする。どうも彼らは「没落する」というのを、なにかきわめて恐ろしいことであると信じているようなのだ」

 この文章の最後には「今回の教訓」とでも題されそうな、簡単なまとめが伏せられているのだが、そこにこんな文章もあった。チャリング・クロスといえば『チャリング・クロス街84番地』の名を挙げるまでもなく、ロンドンにおける古本の聖地だが、イメージが変わってしまう。

Homosexual vice in London. It appears that one of the great rendezvous is Charing Cross underground station. It appeared to be taken for granted by the people on Trafalgar Square that youths could earn a bit this way, and several said to me, 'I need never sleep out if I choose to go down to Charing Cross.' They added that the usual fee is a shilling.」(p.118)
「ロンドンにおける同性愛売春。チャリング・クロスの地下鉄駅が、最大の盛り場となっているらしい。若者ならこれで充分に稼げるというのは、トラファルガー広場の連中にとっては常識で、ある者などはわたしにこう言った。「チャリング・クロスの地下に行くことにしていたなら、野宿なんて目には一度も合わなかったろう」。相場は1シリングだとも付け加えてくれた」

 さて、実体験が語られている随想的文章は以上の二篇のみで、ほかは評論的な性格が強い。表題作である「Decline of the English Murder」も含め、ほんの2、3ページしかない、しかもあまりおもしろいとはいえない文章が、この選集中には複数存在しているのだが、そういうのは飛ばしてしまおう。それでも「Just Junk – But Who Could Resist It?」には、こんなおもしろい箇所があった。

「In some shops you can find keys to fit almost any lock, others specialize in pictures and are therefore useful when you need a frame. Indeed, I have often found that the cheapest way of buying a frame is to buy a picture and then throw away the picture.」(p.23)
「いくつかの店ではどんな錠前でも開けられる鍵を見つけられ、また、絵画に特化している店などは、額縁が必要なときに重宝する。そう、わたしは何度も体験しているのだが、額縁を購入する最も安あがりな方法は、絵を購入してその絵を捨てることなのだ」

 この本のなかでもぶっちぎりにおもしろかったのが、以下の「Good Bad Books」である。ここでは「良い悪書」と訳したが、これはオーウェルの発案ではなく、なんとチェスタトンに起源を持つ言葉であるらしい。

「Not long ago a publisher commissioned me to write an introduction for a reprint of a novel by Leonard Merrick. This publishing house, it appears, is going to reissue a long series of minor and partly forgotten novels of the twentieth century. It is a valuable service in these bookless days, and I rather envy the person whose job it will be to scout round the threepenny boxes, hunting down copies of his boyhood favourites.」(p.25)
「すこし前、ある出版社から、レオナルド・メリックの再版本に寄せるまえがきを書いてくれ、との注文を受けた。どうやらこの出版社は、マイナーで忘れられつつある20世紀の小説を、長大なシリーズにして再版するつもりらしい。本の少ない今日のようなご時世にはありがたい話だし、3ペニー本の箱を探しまわって、少年時代のお気に入りを発掘する係なんて、ちょっと憧れてしまう」

「A type of book which we hardly seem to produce in these days, but which flowered with great richness in the late nineteenth and early twentieth centuries, is what Chesterton called the 'good bad books': that is, the kind of book that has no literary pretensions but which remains readable when more serious productions have perished.」(p.25)
「このごろでは刊行されることもなくなった類の本、それでも19世紀末と20世紀初頭には大いに栄えたもの、それがチェスタトンが「良い悪書」と呼んだところのものである。文学的野心などはぜんぜん持たず、それでもより深刻な読みものがないときには手に取りたくなるような本のことだ」

 マイナーで忘れられつつある、19世紀末から20世紀初頭の小説。もちろん、マイナーで忘れられつつある作家なんていうのは18世紀や19世紀にだっていたはずなのだが、出版文化が隆盛を極め、読書というものが教養人のためだけのものではなく、もっと一般的な気晴らしとして花開いていたこの時代には、こういう作家が目立って多い気がしている。やがて第一次世界大戦によって人びとの思想は大きく揺さぶられることになり、ちょっとした気晴らしなどをしている場合ではなくなり、「良い悪書」は出る幕を失っていったのだろう。戦後についても、その精神風景を描いたヴァレリーの言葉、「平和とは、おそらく、人間どうしの自然な敵意が、戦争のような破壊行為で表現されるかわりに、想像行為によって表明される事態のことなのだ」を読むだけでも明らかなとおり(「精神の危機」『ヴァレリー・セレクション上巻』)、もう精神風土そのものが変わってしまっていたため、往時の気安さに立ち戻るということは困難を伴ったにちがいない。再評価がはじまったのはオーウェルの時代のことなのだ。これはなにもイギリスにかぎった話ではなく、ヨーロッパ全土で同じ傾向が見られる。現代のフランスで、20世紀初頭の文学を見つけるのがどんなに難しいことか。アナトール・フランスなどは、その最も「真剣な」例として挙げられるのかもしれない。

「apart from thrillers, there were the minor humorous writers of the period. For example, Pett Ridge – but I admit his full-length books no longer seem readable – E. Nesbit (The Treasure Seekers), George Birmingham, who was good so long as he kept off politics, the pornographic Binstead ('Pitcher' of the Pink 'Un), and, if American books can be included, Booth Tarkington's Penrod stories. A cut above most of these was Barry Pain. Some of Pain's humorous writings are, I suppose, still in print, but to anyone who comes across it I recommend what must now be a very rare book – The Octave of Claudius, a brilliant exercise in the macabre. Somewhat later in time there was Peter Blundell, who wrote in the W. W. Jacobs vein about Far Eastern seaport towns, and who seems to be rather unaccountably forgotten, in spite of having been praised in print by H. G. Wells.」(p.26)
「探偵小説以外にも、マイナーなユーモア作家たちがいた。たとえばペット・リッジ。だが、彼の長篇はもう読めないと認めなくてはならない。それからイーディス・ネズビット(『宝さがしの子どもたち』)。ジョージ・バーミンガムも、政治を話題にしないかぎりは良い作家だ。アーサー・M・ビンステッド(『ピンカンとペリカン』での「ピッチャー」役)、それからアメリカも入れていいのなら、ブース・ターキントンのペンロッド君シリーズも。これらの作家よりも一枚上手なのが、バリー・ペインだ。ペインの書いたユーモア作品のいくつかはたぶんまだ刊行されているが、『クラウディウスの八日間』など、大変珍しい本になりつつあるので、見かけたひとには買っておくことをおすすめする。これは怪奇小説の傑作である。また、いくらか後年にはW・W・ジェイコブスの流儀で極東の港町を描いたピーター・ブランデルがいるが、H・G・ウェルズの絶賛を受けたにも関わらず、奇妙なほどに忘れ去られてしまっている」

 知らない作家名のオンパレードで、わくわくしてくるではないか。だが、Amazonなどで調べてみればすぐにわかるが、皮肉なまでの全滅ぶりである。もう電子データとしてしか読めそうにない本ばかりだ。

「Perhaps the supreme example of the 'good bad' book is Uncle Tom's Cabin. It is an unintentionally ludicrous book, full of preposterous melodramatic incidents; it is also deeply moving and essentially true; it is hard to say which quality outweighs the other. But Uncle Tom's Cabin, after all, is trying to be serious and to deal with the real world.」(pp.28-29)
「おそらく良い悪書の最高の例は『アンクル・トムの小屋』だろう。意図せず滑稽さを帯びた本で、荒唐無稽なメロドラマに溢れている。とても感動的に書かれていて、だいたいは実話だ。どの価値が他より優っているか、言い当てるのは難しい。だが結局のところ、『アンクル・トムの小屋』は深刻なものであろうとし、現実世界に関わろうとしていたのだった」

「How about the frankly escapist writers, the purveyors of thrills and 'light' humour? How about Sherlock Holmes, Vice Versa, Dracula, Helen's Babies or King Solomon's Mines? All of these are definitely absurd books, book which one is more inclined to laugh at than with, and which were hardly taken seriously even by their authors; yet they have survived, and will probably continue to do so. All one can say is that, while civilization remains such that one needs distraction from time to time, 'light' literature has its appointed place; also that there is such a thing as sheer skill, or native grace, which may have more survival value than erudition or intellectual power.」(p.29)
「はっきりと逃避主義の作家たち、スリルや「軽い」ユーモアの提供者たちはどうだろうか? 『シャーロック・ホームズ』、『あべこべ』、『吸血鬼ドラキュラ』、『ヘレンの赤子たち』、あるいは『ソロモン王の洞窟』は? どれもみなはっきりと馬鹿げていて、笑いを誘うというよりは笑いの的になるような、作者たちにさえ真剣には考えられていない本ばかりだ。それでもこれらの本は生き残ったし、おそらくこれからも残りつづけるだろう。いまはっきりと言えるのは、社会がいまのように折々気晴らしを必要とするものであるかぎり、「軽い」文学には居場所があるということ。それから生存能力、生まれつきの恩寵などというものが実在し、それが生き残りに際して、博識や知性よりも威力を発揮しているということである」

 先日ツヴァイク『チェスの話』について書いたときに散々繰り返したとおりではあるが、文学の価値というのはなにも内容の高尚さにのみ依るものではなく、ここで挙げられている「良い悪書」たちは恰好の気晴らしとして生まれついた類の作品ばかりである。これらに比べればツヴァイクはよっぽど「真剣な」ものとして捉えられるべきだが、彼に対して放たれた「通俗的」という批判の正体が、ここに見え隠れしているように思えてならない。

「However, all the books I have been speaking of are frankly 'escape' literature. They form pleasant patches in one's memory, quiet corners where the mind can browse at odd moments, but they hardly pretend to have anything to do with real life. There is another kind of good bad book which is more seriously intended, and which tells us, I think, something about the nature of the novel and the reasons for its present decadence.」(p.26)
「しかしながら、わたしがここで話題にしているのは、はっきり言って「逃避の」文学である。記憶のなかでちょっとした喜ばしい部分となり、折々そちらに注意が向く静かな片隅、とはいえ実生活に影響をもたらすことなど、まるで意図されてはいない。良い悪書のなかにはもっと真剣なものもあるが、思うに、こういった本は小説の本質、さらには現代におけるその凋落を説明してくれている」 

「In each of these books the author has been able to identify himself with his imagined characters, to feel with them and invite sympathy on their behalf, with a kind of abandonment that cleverer people would find it difficult to achieve. They bring out the fact that intellectual refinement can be a disadvantage to a story-teller, as it would be to a music-hall comedian.」(p.27)
「どの本の場合でも、作者はその作品中の登場人物と同一視することができ、彼らとともに感じ、彼らに代わって共感を誘うわけだが、それはより賢い人びとにとってはあまりに難しい放棄を伴うのだ。こういった作者たちは知的洗練というものが、舞台上の喜劇俳優にとってと同様に、物語作家にとっては不利に働くものだと教えてくれている」

「The existence of good bad literature – the fact that one can be amused or excited or even moved by a book that one's intellect simply refuses to take seriously – is a reminder that art is not the same thing as cerebration.」(p.28)
「良い悪書の存在――知能が真剣に捉えることをはっきりと拒むような本からでも、楽しみ、興奮し、感動すらできるという事実――は、芸術は頭を使うことと同義ではないと思い出させてくれる」

 次の「Boys' Weeklies」は、その名のとおりイギリスにおける少年向け週刊誌についての文章だ。その中心である『ジェム』や『マグネット』といった雑誌には学園小説が連載されていたらしい。

「By a debasement of the Dickens technique a series of stereotyped 'characters' has been built up, in several cases very successfully. Billy Bunter, for instance, must be one of the best-known figures in English fiction; for the mere number of people who know him he ranks with Sexton Blake, Tarzan, Sherlock Holmes and a handful of characters in Dickens.」(p.37)
ディケンズを劣化させたような手法で、いくつもの典型的な登場人物たちが練りあげられており、そのうちの何人かはじつにうまくいっている。たとえばビリー・バンターなど、おそらくはイギリスの創作人物のなかでも最もよく知られていて、特に親しみのある人びとにとっては、セクストン・ブレイクやターザン、シャーロック・ホームズディケンズの何人かの人物に比べたって見劣りしないことだろう」

「If one studies the correspondence columns one sees that there is probably no character in Gem and Magnet whom some or other reader does not identify with, except the out-and-out comics, Coker, Billy Bunter, Fisher T. Fish (the money-grubbing American boy) and, of course, the masters. Bunter, though in his origin he probably owed something to the fat boy in Pickwick, is a real creation.」(p.45)
「もし読者投稿欄を注意深く観察したなら、『ジェム』にしても『マグネット』にしても、きわめて馬鹿げた話に関しては別だが、コッカー、ビリー・バンター、フィッシャー・T・フィッシュ(吝嗇家のアメリカ少年)、それからもちろん教員たちも含めて、読者が登場人物を他と混同するなど、まったく起こっていないことに気がつくだろう。バンターは、『ピクウィック・クラブ』に登場する小太りの少年に多くを負っているにちがいないとはいえ、本当の創作である」

 ディケンズがありとあらゆる想像上の人物の創造主であるかのような書きかただが、こういうのはとてもイギリス的なものだと思う。同じことをフランス人がバルザックに対して言っていてもおかしくはないはずなのに、そういうのを見かけたことはない。いや、プルーストとの関連で、ロラン・バルト『零度のエクリチュール』で書いていたか。

「here it is worth noticing a rather curious fact, and that is that the school story is a thing peculiar to England. So far as I know, there are extremely few school stories in foreign languages. The reason, obviously, is that in England education is mainly a matter of status.」(p.40)
「ここである興味深い事実、つまり、学園小説というのがイギリス特有のものである、という事実に気がつくことだろう。わたしの知るかぎり、外国語において学園小説というものはほとんどまったく存在しない。その理由は、明らかに、イギリスにおいては教育が社会的地位に直結しているという点にある」

 ここでは「学園小説」と訳してしまったので、ちょっとピンと来ないかもしれないが、ここで語られているのは単発の小説ではなく、連載を前提にした小説群のことだ。わたしはここを訳しながら、ドイツやオーストリアにだってギムナジウム文学があるのになあ、なんてことを考えたのだが、ヘッセの『デミアン』ムージルの『寄宿生テルレスの混乱』、はたまたケストナー『飛ぶ教室』などが、どんなにギムナジウムの情景を生き生きと描いていたって、それは連載ではないので、オーウェルの言う「school story」とは別物と考えるべきなのだろう。ちなみにこの「学園小説」は、後年「SF趣味」という新たなる刺客の挑戦にさらされることになる……。

「Clearly no school story can compete with this kind of thing. From time to time the school building may catch fire or the French master may turn out to be the head of an international anarchist gang, but in a general way the interest must centre round cricket, school rivalries, practical jokes, etc. There is not much room for bombs, death-rays, sub-machineguns, aeroplanes, mustangs, octopuses, grizzly bears or gangsters.」(p.53)
「学園小説がこんなものに対抗できるわけがない。時折学校が火事になることもあるし、またフランス語教師が国際アナーキスト集団のボスであると判明したりすることがあるとはいっても、ほとんどの場合、話題の中心はクリケットや学園内での競争、悪ふざけなどに過ぎないのだ。爆弾、破壊光線、軽機関銃、飛行機、野生の馬、蛸、さらにはグリズリーやギャングなどは、ここでは出る幕はないのである」

「Whereas the Gem and Magnet derive from Dickens and Kipling, the Wizard, Champion, Modern Boy, etc. owe a great deal to H. G. Wells, who, rather than Jules Verne, is the father of 'Scientifiction'.」(p.54)
「『ジェム』や『マグネット』がディケンズキプリングに由来していたのに対して、『ウィザード』や『チャンピオン』、『モダン・ボーイ』といいった雑誌は、H・G・ウェルズ――ジュール・ヴェルヌよりも「SFの父」と呼ばれるに相応しい作家――に多くを負っている。」

 そんな荒唐無稽な少年向け読みものに対するまとめは、以下のとおり。いつも思うが、オーウェルは評論をまとめるのがとてもうまい。

「To what extent people draw their ideas from fiction is disputable. Personally I believe that most people are influenced far more than they would care to admit by novels, serial stories, films and so forth, and that from this point of view the worst books are often the most important, because they are usually the ones that are read earliest in life.」(p.64)
「人びとの考えが、いったいどの程度創作物から汲み出されたものであるかについては、議論の余地があるだろう。個人的には、人びとは自ら認める以上に、小説や連載物語、映画といったものから、多くの影響を受けているように思える。その観点に立ってみると、最悪の本というのは、多くの場合、最も重要な本なのだ。これらはたいてい、人生の最も早い段階で手に取られるものだからである」

 そのあとの「The Art of Donald McGill」は、卑猥なポストカード作者の作品群に寄せたもので、意外なほどにおもしろかった。猥褻のなかにもちょっとした知性が光っている冗談が多く、なんという頭の無駄遣い、と楽しくなってくる。こんなやつ。

「'I like seeing experienced girls home.'
 'But I'm not experienced!'
 'You're not home yet!'」(p.74)
「「経験豊富な女の子の家を見るのが好きなんだ」
 「でも、わたしは経験豊富なんかじゃないわ!」
 「まだ家に着いてないじゃないか!」」

 ずっとこんな調子である。興味のある方はぜひ、Donald McGillで画像検索してみてもらいたい。オーウェルはこの文章のなかで、これらのポストカードが人生の「サンチョ・パンサ的側面」に焦点を当てたものであると書いている。

「The Don Quixote-Sancho Panza combination, which of course is simply the ancient dualism of body and soul in fiction form, recurs more frequently in the literature of the last four hundred years than can be explained by mere imitation. It comes up again and again, in endless variations, Bouvard and Pécuchet, Jeeves and Woster, Bloom and Dedalus, Holmes and Watson (the Holmes-Watson variant is an exceptionally subtle one, because the usual physical characteristics of two partners have been transposed).」(p.84)
ドン・キホーテサンチョ・パンサのコンビというのはもちろん、精神と肉体という古い二元論が、小説の衣をまとったものである。これは単なる模倣と説明される以上の頻度で、ここ四百年の文学に繰り返し登場してきている。ブヴァールとペキュシェ、ジーヴスとウースター、ブルームとディーダラス、ホームズとワトソンといったふうに、何度も何度も、尽きることのない取り合わせで立ち現われてきている(ホームズとワトソンは、ちょっと微妙なものだ。パートナー同士のお決まりの身体的特徴が、ここではあべこべになっているから)」

「If you look into your own mind, which are you, Don Quixote or Sancho Panza? Almost certainly you are both. There is one part of you that wishes to be a hero or a saint, but another part of you is a little fat man who sees very clearly the advantages of staying alive with a whole skin. He is your unofficial self, the voice of the belly protesting against the soul.」(p.84)
「自分の内面を見つめてみて、あなたはドン・キホーテサンチョ・パンサ、どちらに当てはまるだろうか? ほぼ間違いなく、どちらも当てはまるだろう。あなたのある部分は英雄や聖者といったものに憧れているが、また別の部分は、ただありのまま生き延びることに魅力を感じている、小太りな男に過ぎないのだ。サンチョはあなたの認められざる一面、精神に対して腹から湧きあがってくる反対の声なのである」

 これらのポストカードの存在理由について語るオーウェルは、なにやらとても力強い。わかるよ、好きなんだね! と言いたくなってくる。

「In a society which is still basically Christian, they naturally concentrate on sex jokes; in a totalitarian society, if they had any freedom of expression at all, they would probably concentrate on laziness or cowardice, but at any rate on the unheroic in one form or another.」(p.86)
キリスト教社会にあるかぎり、これらのカードは下ネタに焦点を合わせつづけるだろう。これが全体主義社会だったなら、表現の自由が認められていればの話ではあるが、話題は怠惰や臆病心になる。なんであれ、社会にとって推奨されないものがとりあげられるにちがいないのだ」

「It will not do to condemn them on the ground that they are vulgar and ugly. That is exactly what they are meant to be. Their whole meaning and virtue is in their unredeemed lowness, not only in the sense of obscenity, but lowness of outlook in every direction whatever. The slightest hint of 'higher' influences would ruin them utterly.」(p.86)
「これらが下品で醜いからといって、わざわざ批難するには及ばない。まさしくそれこそが、存在理由なのだから。その意味も価値も、救いようのない下劣さ――単に下品というだけでなく、あらゆる方向性において下級であるということ――に秘められている。ほんのちょっとした「高尚さ」さえ、ここでは致命的な損害を与えることだろう」

 オーウェルはときどきあまりにも正直というか、あけすけにものを語るので、『動物農場』を読んだばかりのころには苦手意識さえ抱いたこともあったのだが、いまではその姿勢に好意以外のどんな感情も抱いていないことに気がついた。何度も読み返したくなるたぐいの評論ではないけれど、未読のものは今後も漁りつづけたい。

Great Ideas Decline of the English Murder (Penguin Great Ideas)

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