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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

コルカタ

 小池昌代という詩人の存在が、わたしのなかで大きくなりつづけている。友人に教えてもらった『通勤電車でよむ詩集』および『恋愛詩集』があまりにすばらしかったので、日本を出るほんとうに直前、そのとき立ち寄ることのできた書店の詩の棚から、彼女の著作をすべて購入したのだ。といっても、在庫していたのは二冊だけで、詩集はこの一冊のみ、もう一冊は評論である。評論のほうはスーツケースに入りきらなかったので、滞在中に購入したたくさんの本とともに、これから航空便で送ってもらう予定だ。インドを訪ねた詩人の印象を綴った詩集、『コルカタ』。

コルカタ

コルカタ

 

小池昌代コルカタ思潮社、2010年。


 印象を綴った、と書いたが、まさしく読んでいる自分がコルカタという見知らぬ地にいるような気がしてくる本である。かつて友人が、ヨシフ・ブロツキー『ヴェネツィア』のことを「美しい印象記」と呼んでいたのを思い出した。美しい印象記というものは、まだ見ぬ土地を親しみあるものにしてくれる魔力を帯びている。ボルヘスの言葉を思い出さずにはいられない。

BORGES: I think of reading a book as no less an experience than travelling or falling love. I think that reading Berkeley or Shaw or Emerson, those are quite as real experiences to me as seeing London, for example.」
ボルヘス読書というのが、旅行や恋愛に劣る経験だとは考えていません。たとえばバークリーやショー、エマーソンを読むということは、わたしにはロンドン見物と同じくらい実際的な体験に思えるのです」(ボルヘス『The Last Interview』35ページ)

 この本が生まれた経緯も、風変わりなものである。詩人の帰国直後、紀伊國屋の渋谷店で彼女の選書によるフェアが開催され、その場に掲示するため、毎朝一篇ずつ書かれたというのだ。2009年の3月から4月にかけてのことだそうで、そのころはわたしも都内の書店で働いていた。なぜ、こんな魅力的な企画を見逃してしまったのか。悔やんでも悔やみきれないが、きっとそういうひとたちのために、この本がまとめられたのだろう。こんな詩があった。

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  朝五時に


  朝五時に起きて 書いた詩を
  渋谷の書店へ 足で運ぶ
  締め切りは 午前十時
  書店が開く時刻である
  朝の渋谷はしらじらしい
  若者たちは まだ少なく
  マツモトキヨシの二階売り場窓から
  棚のほこりをはらう 誰かの手が見える
  締め切りに遅れても
  催促するような人はいない
  そもそも 読むひとが。
  詩は
  書いた本人が 最初にして最後の読者なのだ
  だから詩人が
  一人の読者を持つ と言うとき
  それはもうひとりの「わたし」がそこにいるということ。
  コルカタニューマーケットの裏手に
  毎朝四時に起き
  井戸から水を汲み それを羊の皮に入れて運ぶ
  出稼ぎの水汲み商人がいた
  水をいれた皮は 何人も子を産んだ老婆の腹に似て
  重く地面にまで 垂れ下がり
  それを担ぐ彼の肩に 食い込み あざの痕をつけた
  手にする給金は
  その重い労働に比して とても少ない
  無料といってもいいくらいのものだ
  が
  ひとから熱心に求められている分、
  同じ無料でも わたしよりまし
  「同僚」として それくらいは言わせてよ
  労働者である わたしたち
  たえず井戸に戻り そこからくみ上げ
  ほうぼうへくばる 自らの手で
  その姿は
  おそらく 誰の目にもとまらない
  誰の目にも 映っていない
  しかし わたしが あの水汲み商人を覚えていたように
  この わたしのことも
  どこかで 誰かが見ているかもしれない
  もうひとりのわたし などとは言わない そんなうまいごまかしは。
  けれど そのひとは いる
  どこかに 一人だけ


(「朝五時に」、116〜119ページ)
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 この本はもう、一冊まるごとコルカタである。植民地下での英語名、カルカッタという名称のほうが人口に膾炙しているかもしれない。コルカタには、というか、インドという国には、わたしもまだ行ったことがないのだが、中東に住んでいると、インドやパキスタンバングラデシュといった南アジアからの出稼ぎ労働者たちと、たくさん出会うことになる。なんなら人口の半分以上が南アジアのひと、という印象だ。電車などに乗っていると、彼らは無遠慮としか形容しようのない方式で、ひとのことを見つめてくる。数の少ない日本人だから目立つのかもしれないが、女性など、こんなふうに見られたら不愉快に感じるひともいるだろう。おまけに、見つめ返してみても、彼らはぜったいに目を逸らしたりはしない。なにを考えているのかちっともわからない、ひとの内臓の裏側まで見透かすようなやり方で、口を開けたまま、静かに凝視してくるのだ。彼らにとっての外国である中東でさえそうなのだから、現地ではそれこそ、穴が開くほど見つめられることだろう。

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  女はどこだ
  どこかにいる
  でもここには 男ばかり
  踏み入っていく このわたしは
  かごから落ちた 一個の果物
  汚れ 石のようにかたくなになり
  犯され 視線に回されていく
  男たちはみな 痩せていた
  焦げた瞳で
  ぶしつけに見た
  だからわたしも 見返すのだ
  見て 見返す
  ことばのない 視線の群れが
  蒸され もうもうと湯気をたてる

(「バルバザール・朝」より抜粋、13ページ)
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 小池昌代の詩を読むのはこれが初めてのはずなのに、これまで目にしてきた詩情に溢れる文章のこともあってか、水を飲むようにすんなり入ってくる言葉ばかりだった。このひとの言葉、ほんとうに好きだ。以下、抜粋をいくつか。

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  もし わたしが
  怒りを妊娠したら
  いつか みずみずしい
  真っ赤なスイカを産むだろう
  股のあいだを血で染めながら

(「怒る女」より抜粋、26ページ)
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  あんこ のような闇のなかで
  ごく近くに
  ダンスで熱を帯びた 女たちのからだがあり
  わたしのからだがあり
  毛穴から むんむんと 生が 蒸発していた

(「切断」より抜粋、41ページ)
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  満開をすこし過ぎた桜は
  少しの風に 花びらを散らし
  それを見て雪のようだと思う
  というか
  雪と勘違いしたいものだ 雪なのである と わたしは思いたい

(「桜を見に」より抜粋、91ページ)
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 最初のものは帯にも引用されていて、書店で目にした瞬間、もうこの詩集を棚に戻せなくなってしまった。宝物になることが約束されているのに、戻せるわけがない。とくに気に入ったのは以下の二篇。まずは、「遺品ビーズ」。

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  遺品ビーズ


  ニューマーケットの靴屋にあった
  三百ルピーのビーズのサンダルは
  いまだって 心残りだ
  どうせすぐに壊れてしまう
  そう思って わたしは六百円程度の出費に迷い
  結局、安価な美を放棄した が
  あれ、安価とはなにごとだろう
  印度じゃそれは きらめく宝石
  わたしはお金の価値に翻弄されている
  もしたとえ 壊れやすくったって
  それが何よ
  この世が すべて ドイツ製の商品のように
  いつまでもいつまでも壊れないものばかりだったら
  どんなに退屈するか

  七歳のころ 従姉妹がわたしにみせびらかしたもの
  それが 白いビーズのパーティーバッグだった(信じられないほど美しくて)
  そのあと 母が 良く似たビーズバッグを作ってくれたけれど(そのほうがずっと安あがりだったから)
  従姉妹のバッグには 到底かなわなかった
  ああ ビーズ
  ビーズを見ると どんな女も 簡単に 心踊る
  あきらめなさい
  ここにはないけど
  確かに まだ あそこには あるのだから
  コルカタニューマーケットの 埃っぽい店
  ひと気のない やる気もない 暗い店内
  ウィンドウに飾られていたビーズのサンダルは
  もう何百年も前から そこにあるみたいだった
  だからあと百年も すぐにたつわよ

  後半生でもう一度
  コルカタへ行く縁がめぐってきたら
  わたしは迷いなく
  ニューマーケットにある あの靴屋へ 行こう
  そこにはきっと
  三百ルピーのビーズのサンダルが売れ残っているはず
  なんて思うのは 甘い話か
  サンダルなんてきっとない
  靴屋だって 壊されていて
  わたしは老い もはやインドへ行く体力もないのよ
  おそらくは
  そうだとしても
  わたしより
  壊れやすい三百ルピーのビーズのほうが
  きっと長く この世に残る
  (しつこい幻想ね)
  いいじゃない その感じ
  そんなものよ


(「遺品ビーズ」、56〜59ページ)
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 そしてこちら、「木陰」。詩を読むときには、それがだれによって書かれたものであるかを意識することは少なくって、まるで世界そのものが一冊の大きな詩集であって、詩人たちはその共同編纂者にすぎないのだ、という気がしてくる。詩というものは、書かれた瞬間に著者の手を離れるのだ。そしてその詩を、だれが、どんなふうに受け止めるかというのは、書いた詩人にはまったくなんの干渉もできない事柄なのである。ちょっと恐ろしくもあるが、そんなプロセスそのものが、たまらなく詩的ではないか。

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  木陰


  コルカタの 薬屋を営む大家族の家で
  詩を書く一人の少年に会った
  濃い影が 瞳に射す いかにも賢そうな少年だった

  本人が言ったわけではない
  詩を書いている、そんなことは
  いつだって どこの国だって
  本人が言うわけはない
  彼の姉が 彼の背中を押しながら
  この子は その――詩を書いているんですよ
  そう言った

  あ と思い わたしは彼を見る
  恥ずかしさと自負心とが まざりあったような顔をして
  彼は 何かに耐えていた

  わたしは言葉を出そうとして
  わたしたちのあいだには
  不具合な沈黙が はさまってしまう

  秘密は 姉によって やすやすと こじ開けられて

  毎日、書いて、い、る、の、で、す、か
  わたしは聞く
  沈黙の歪みに 耐え切れなくて
  聞く必要のない よけいなことを

  いいえ ぼくは
  ぼくは そんな そんなことは ありません
  そんな 毎日のように 書く、というようなことは――
  消え行く語尾をひきずって
  彼は 焦げた 小鹿のような肢体を 翻らせ
  自分の部屋へ まっしぐら

  印度・コルカタにある薬屋一家の
  ものすごくたくさんある部屋の一室に
  詩を書くひとりの少年がいる
  そのことは
  互いが見えなくなった いまごろになって
  ようやく くっきりと わたしに 見えてくる

  わたしはおもう
  彼こそは
  世界じゅうの人々に
  詩を書かせている
  硬い心臓に違いないと


(「木陰」32〜35ページ)
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 この本にも「あとがき」的な文章があって、やはり詩のかたちを採っていなくったって、小池昌代の言葉は「信じられないほど美しい」。

コルカタの路地を、一度でいい、あなたも歩いてみてよ。東京に帰ってきて、私は誰彼つかまえては、そんなことを言いたくなった。ここにこんな暮らしがある、そのことを、ただ見て、匂いをかいで、耳をすまし、手で触って、そして味わってほしい。きっと下痢になる。ならないわけはない。でもそれが何? 私、もう一度、行ってみたい。あのとき見たものを確かめにいくのだ。すべてが夢だったような気がするものだから」(125ページ)

 もっともっと貪るように読んでみたいのに、手元にはもう未読のものがなくなってしまった。再読・再々読をして、どうにかこの気持ちをなだめつづけることになるのだろう。ここ数日、ちょっと最高評価を連発しすぎ、という気がしなくもないが、これほどのものを読んでしまったのでは、仕方がない。これは、宝物なのだから。

コルカタ

コルカタ