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Riche Amateur

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 ――フェルナンド・ペソア         

イタリアの詩人たち

 このごろの更新傾向を見ていただくとすぐにわかるとおり、いま、詩を読むのがとても楽しい。いや、詩はもともと好きなのだが、日本語でよく「現代詩」と呼称される、一見ルールもなにもないように見える言葉たちの自由さに、最近ひたすら驚かされているのだ。詩、というと、ペソアやプレヴェールのような幸福な例外も存在するとはいえ、海外ではどうしても韻律や形式美が追求され、それらを追求しないものは軽く見られがちである。だが、日本語においては、短歌と俳句という超短詩が形式美の部分を引き受けてくれているからか、その短さには合致しないような詩情の迸りに対しても、懐が深い。これは海外の詩が翻訳されているときにも同様に感じられ、たとえばもともとソネットとして書かれたものが、日本語では韻を踏まない十四行詩として、広く受け入れられている。『マチネ・ポエティク詩集』といった試みが示す、そもそもの不可能性が原因になっているかもしれないとはいえ、この寛容ぶりは、ちょっとすごいことだと思うのだ。日本語に翻訳された詩というのは、すでに原文を離れて、独立した芸術として光彩を放っている。

イタリアの詩人たち 新装版

イタリアの詩人たち 新装版

 

須賀敦子『イタリアの詩人たち』青土社、2013年新装版。


 イタリアから戻ってきた須賀敦子が、日本でいちばん最初に刊行した本、それがこの『イタリアの詩人たち』である。彼女のようなひとが書く文章を読んでいると、日本語という言語そのものの豊かさに、ほんとうに驚かされる。翻訳がすでに独立した芸術であるという前提に立ち、この語彙の豊富さをもってすれば、もう日本語に訳せないことなんてほとんどないのではないか、という気さえしてくるほど。世界の果てとも見える極東の島国で、これほどまでに言語が発達したのは、いったいどういうわけなのか。この問いは、これほどまでに多くの海外文学が、ひっきりなしに翻訳されつづけている理由とも、関わりがあるにちがいない。

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  トリエステ


  町を ずっと横切った
  それから 坂を登る
  はじめは 建てこんでいて だんだん
  人影もまばら  突き当りは 低い石垣
  その一隅に ひとり 腰かける
  石垣の終るところで 町も
  終りのようだ

  トリエステには 乱暴な
  優しさがある  たとえば
  硬い実のようで 欲ふかい無骨な少年に
  似ている  眼が碧くて
  花束をさ捧げるには 大きすぎる
  手をした――
  嫉妬まじりの
  愛にも似ている
  この坂からは どの教会も
  どの道も みな 見える  混みあった海岸も
  石ころに被われた むこうの丘も
  頂上には 家が 一軒
  しがみついている
  あたり一帯
  あの 風変りで
  苦痛にゆがんだ いつもの
  空気がつきまとう これが
  ふるさとの空気
  活気に満ちた おれの町には
  おれだけのための 片隅がある
  憂愁のある 引込み思案な
  おれの人生のための 片隅が


ウンベルト・サバトリエステ」、34~36ページ)
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 この本ではイタリアの五人の詩人たちのことが、それぞれ紙幅を割いて語られているのだが、最初に登場するのは、やっぱりサバである。やっぱり、というのは、須賀敦子『ミラノ 霧の風景』でも、ぜったいに忘れられないようなかたちでこの詩人に対する愛を表明していたのだ。

「サバの名が、ふとだれかの口にのぼった。マスケリーニは、生前の詩人と親交があったようだった。私はいっしょうけんめいに詩人のことを聞きだそうとしたのだが、彼ら、とくにマスケリーニの口調には、きみたち他国のものにサバの詩などわかるはずがないという、かたくなな思いこみ、ほとんど侮りのような響きがあった。また、他の客たちの口にするサバも、トリエステの名誉としてのサバであり、一方では、彼らの親しい友人としての日常のなかのサバであった。そのどちらもが、私をいらだたせた。私と夫が、貧しい暮しのなかで、宝石かなんぞのように、ページのうえに追い求め、築きあげていったサバの詩は、その夜、マスケリーニのうつくしリヴィング・ルームには、まったく不在だった。こっちのサバがほんとうのサバだ。寝床に入ってからも、私は自分に向ってそう言いつづけた」(須賀敦子『ミラノ 霧の風景』より、161~162ページ)

 須賀敦子は後年、『ウンベルト・サバ詩集』という一冊の訳詩集をまとめているのだが、これは『イタリアの詩人たち』が書かれた、およそ十五年後に訳しおろされたもので、そのため同じ詩であっても、この本のものとは翻訳がまったく異なる。訳出されているのがわずか数篇とはいえ、『イタリアの詩人たち』はこれだけでも十分に手に取る価値のある本ではあるが、じつはこの本の最大の魅力は、詩と詩人たちについて語るときの、須賀敦子が放つ詩情のほうである。

「すべての真の芸術作品とおなじように、サバの詩は、まんまと私を騙しおおせていたのに違いない。そして長いあいだ私のなかで歌いつづけてきたサバのトリエステは、途方もない拡がりをもつ一つの宇宙に育ってしまっていて、明るい七月の太陽のもとで、現実の都市の平凡な営みは、ただ、ひたすらの戸惑いをみせているにすぎないのだった」(37ページ)

 ここの記事にはしないまま、本がどこに行ったのかわからなくなってしまったのだが、わたしは何年も前に『ウンベルト・サバ詩集』を読んでいる。そのため、ここでサバの名を目にすることには再会の感が強く、また読みたいな、という感情は当然湧いてきたものの、それに驚かされるようなことはなかった。ほんとうに驚いたのは、次のウンガレッティである。

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  永遠(1914-15)


  摘みとった花と 貰った花との
  あいだには 言いあらわせぬ 無が


ジュゼッペ・ウンガレッティ「永遠」、44ページ)
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  死の苦悶(1914-15)


  喉の渇いた雲雀のように 死ぬ
  蜃気楼をまえにして

  または 海を渡り終えて
  最初の藪のなかで 死ぬ
  飛び続ける意欲をなくした
  鶉のように

  が 盲いた鶸(ひわ)のように
  嘆きつつ生きることは しない


ジュゼッペ・ウンガレッティ「死の苦悶」、46ページ)
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  放浪者(1918)


  地球の
  どこへ行っても
  家に帰った
  ということが
  ない

  新しい
  風土に
  出あっても
  すぐ
  倦きてしまう
  これも
  いつか どこかで
  嘗めつくし
  という
  記憶がまといつく

  おれは 外国人なのだ
  と いつも 離れてしまう

  生まれたときから
  垢にまみれた 時代
  をいくつも負い続け

  一瞬でいいから
  本来の
  いのちを味わいたい と

  無辜の
  国をさがしている


ジュゼッペ・ウンガレッティ「放浪者」、55~57ページ)
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 なんだこれは、となる。寝そべって読んでいたのが、ウンガレッティの章になってから思わず立ちあがってしまった。このひとの詩、もっともっと読んでみたい。しかも、河島英昭が『全詩集』まで刊行しているではないか。これはいつかぜったいに手に入れたい。詩人を形容する須賀敦子の言葉も、おそろしいまでの美しさである。

「ペトラルカの透明とレオパルディの深い哀しみが、執拗につきまとい、行間を埋める」(64ページ)

「「約束された土地」を夢みて瞑想にふける晩年のウンガレッティは、復活を信じて、自らの吐く白い糸で、薄明の繭に、このうえなく楽観的な幽閉を実現してゆく、哀しくて高貴な幼虫のいとなみを想像させる」(69ページ)

 次のモンターレについては、ブロツキーの『私人』でも名前が挙がっていたため、「あ、つい先日もお会いしましたよね」という感じだった。思えばブロツキーもモンターレも(ついでに後述するクワジーモドも)、ノーベル文学賞受賞者である。ブロツキーはモンターレのことを高く評価していて、エッセイ集『レス・ザン・ワン』のなかでも一章を割いて、彼の英訳詩集について語っている。須賀敦子は詩人にまつわるこんなエピソードを紹介していた。

「昨年ミラノで出版された、あるジャーナリスト作家の自伝的小説に、彼がドイツで捕虜になったとき、若い将校にモンターレの詩集を見せられ、彼のはいていた頑丈な靴と替えてくれないかといわれたというエピソードがのっていた。若い作家は、(戦争はすぐに終るだろうと高をくくっていたこともあって)なんのためらいもなく、詩集のほうをとる。そのあと、つぎつぎと収容所をたらいまわしにされ、なんどか雪のなかで凍死の危険に曝されたとき、背嚢の中の、表紙のとれたモンターレの詩集が頭にうかび、ボロぎれで包んだ滑稽な自分の足をみて、心から自分の選択を呪ったという」(89~90ページ)

 これに以下の文章がつづく。

「しかし、一冊の現代詩集をいのちがけで守ることのできた、あるいは、いのちがけで守るに値する同時代の詩人の作品を持っていた、イタリアの兵士は、幸いであったといわねばなるまい」(90ページ)

 調べてみたところ、モンターレの場合、まとまった邦訳は刊行されていないようだ。意外。ノーベル文学賞受賞者ということもあって、英訳はかなりの冊数が刊行されているので、いつか機会があったら手を伸ばしてみたいと思っている。晩年、妻を亡くした悲しみを綴った詩は、ちょっと忘れがたい。

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  クセニア Ⅰ


  パリのセント・ジェムズに着いたら
  《シングル》の部屋をたのむのだな(ひとりの
  客は嫌われる)きみの好きだった ヴェニス
  偽(えせ)ビザンチンのホテルでさえも だ
  それから すぐ 電話交換手たちの
  ――おまえのいい話し仲間だった――小部屋を
  たずねて また そそくさと 出発するだけだ
  ゼンマイはきれてしまって
  もういちど きみが戻ってほしいという この切ない願いが
  せめて ひとつの身振り 習慣であってくれたなら


(エウジェニオ・モンターレ「クセニア Ⅰ」、116ページ)
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 カンパーナについては、正直とっつきにくい印象を抱いた。この詩人は、ランボーと比較されることが多いという。「象徴主義」という言葉が示すものが具体的になんであるか、いまだにわたしは説明することができないのだが、かつて堀口大學訳の『ランボー詩集』を読んだときに書いたとおり、わたしはランボー的なもののすべてを、いまでもあまり好ましくは思っていない。人びとを熱狂させる詩人の言葉が自分には響いてこない、という事態に納得できず、かつてフランス語で読みさえしたのに、残念なことにそれでもぜんぜん響いてはこなかった。ヴェルレーヌヴァレリーは好きなのに、ランボーだけは、どうにもだめなのだ。カンパーナがランボーと比較される、という箇所を読んだ瞬間には、もうすでに身構えてしまっていた。

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  秋の庭園――フィレンツェ


  病み呆けた庭園に 緑の環を編む
  黙りこくった 月桂樹に
  秋の地面に
  最後のわかれを!
  もうこれまでの太陽に
  染まった 荒涼の斜面には
  遠い生命が 騒音にまざって
  嗄れて 叫ぶ
  花壇を血に染めて
  死んでゆく太陽に向かって 叫ぶ
  悲痛なファンファーレが
  立ち昇る 川は
  黄金の砂のなかに消え 静寂には
  橋ぎわで首をこちらに向けた 白い彫像が
  立ち尽くす。 もう なにも残っていない。
  深みから 優しくて偉(おお)きい
  コーラスのように
  沈黙が湧きあがり ぼくの露台(バルコニー)を慕ってたちのぼる
  月桂樹の香気のなかで
  刺すような 懶い 月桂樹の香気のなかで
  夕暮の不滅の彫像のあいだから
  あのひとが現われ じっとこちらを見ている


ディーノ・カンパーナ「秋の庭園――フィレンツェ」、147~148ページ)
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 とはいえ、ランボーと対峙したときほどの拒否反応を起こしたわけでもない。須賀敦子が語る詩人の姿はやはりとても美しく、以下の箇所は「純粋詩」という語句もあいまって、ヴァレリーを思い出させた。「一篇の詩には、そこに含まれる純粋詩の分だけの価値がある」という文章のことだ(『ヴァレリー・セレクション上巻』より、192ページ)。

「彼の詩の抒情性は、二十世紀のイタリア詩の世界では、一つの非常に魅力的で完結した宇宙を持っており、考えようによっては、彼は、狂気に守られて、純粋詩の世界だけを追求することができた、数少ない幸福な詩人であったとさえいえるのではないか。その意味からも、彼は、やはり《見者》の群に属する、光彩を放つ存在だったと、私は考えたい。そして《見者》はいつも不幸である」(157ページ)

 また、以下の、私家版の第一詩集を売り歩く詩人の姿は、だれにとっても好ましく映るものだろう。

「カンパーナは、この本をフィレンツェボローニャの繁華街のカフェを一軒一軒たずねながら売り歩いたらしい。ソフィチによると、詩人は、気に入った客には署名して渡したが、あまり感じがよくない相手だと、何ページかを引きはがしたうえで残りを渡し、まったく嫌な奴だと自分で決めた客には、なんと中味なしで表紙だけを売りつけていたということだ」(126ページ)

 さて、最後のクワジーモドについては、須賀敦子はこの詩人のことをあんまり好きではないのだな、というのが文章から伝わってきた。サバやウンガレッティを語っていたときに比して、言葉の温度が低すぎるように思える。このひとについても、河島英昭がまとまった詩集を翻訳刊行しているので、いつかべつの観点から眺めてみたい。

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  島


  いとしさのあまり 哀しい
  わが古里。 夜 オレンジや
  夾竹桃が 暗い薫りを 撒きちらし 流れは
  薔薇に ふちどられて ゆっくりと歩み
  河口は 気がふれる。

  だが おまえの岸に たどりついて
  内気な道端から やさしい うたごえ
  ――幼い日の記憶か それとも 恋――
  が呼ぶのを聞くと よその空への 憧れが
  おれを駆りたて 果てしない ことどもの
  なかに おれは 身を埋める。


(サルヴァトーレ・クワジーモド「島」、176~177ページ)
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 この本に収められた文章が書かれたのは、1977年から79年にかけてのことで、もともと雑誌に掲載されていたそれらがまとめられたのが、著者の没後の1998年のこと。そしてこの2013年新装版では、堀江敏幸による「解説」が付された。

「エッセイと呼ばれる領域でも批評でも学術論文でも、詩篇の引用の恐ろしさを腹の底から理解しているとは思えない事例に出くわすことが、しばしばある。それが成功すれば、読者は語り手の言葉と引用されている詩の融合をひとつの美しい音楽として受け入れ、そのうえで原典へと誘われるだろう。須賀敦子はまず、日本の読者の前に、自分で訳出した詩篇を巧みに織り交ぜたこの第三の散文の、類のない書き手として現れた」(堀江敏幸「解説 拒否のバランス」より、189ページ)

「詩を読み、訳すこともまた、詩人の内面に重なっていくことではないか。読むことの重さは、そこにこそあるのではないか。須賀敦子は詩に仮託しながら、じつは自身の内側を語っている」(堀江敏幸「解説 拒否のバランス」より、192ページ)

 堀江敏幸の言葉のとおり、『イタリアの詩人たち』を読む楽しさの決定的な部分は、須賀敦子の語り口にある。ただ一般的な言葉で詩人たちを紹介しただけの本であったなら、これほどの美しさを秘めることもなかっただろう。まとまった邦訳のないモンターレやカンパーナはともかく、サバもウンガレッティもクワジーモドも訳詩集が刊行されているので、この本をきっかけに手を伸ばしていきたい。

イタリアの詩人たち 新装版

イタリアの詩人たち 新装版

 


〈この本に登場する詩人たちの詩集〉
ウンベルト・サバ。サバはもはや、須賀敦子以外のひとが訳しているのを想像することもできない。

ウンベルト・サバ詩集

ウンベルト・サバ詩集

 

ジュゼッペ・ウンガレッティ。河島英昭が非常に積極的に翻訳していると知った。

ウンガレッティ詩集 (双書・20世紀の詩人 9)

ウンガレッティ詩集 (双書・20世紀の詩人 9)

 
ウンガレッティ全詩集

ウンガレッティ全詩集

 
ウンガレッティ―詩人の生涯

ウンガレッティ―詩人の生涯

 

エウジェニオ・モンターレ。以下の二冊はブロツキーが紹介していた英訳版。

New Poems

New Poems

 
Poet in Our Time (Signature)

Poet in Our Time (Signature)

 

ディーノ・カンパーナ。以下の本にも数篇翻訳されている。大空幸子訳。

世界詩人全集〈第23〉イタリア スペイン 他 (1969年)

世界詩人全集〈第23〉イタリア スペイン 他 (1969年)

 

サルヴァトーレ・クワジーモド。こちらも翻訳は河島英昭。

そしてすぐに日が暮れる (平凡社ライブラリー―詩のコレクション)

そしてすぐに日が暮れる (平凡社ライブラリー―詩のコレクション)